HASHIGUCHI George

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橋口便り
橋口便り 


●2016.06.09

『ひとりの記憶・海の向こうの戦争と生き抜いた人たち』を発表して約5か月。お陰様で大勢の方々が書評に取り上げてくださいました。何人かの方たちは同じ書き手として励ましと労いの思いを書評の中に織り込んでくださっていて、届いた紙面を読みながら何度か涙が出てしまいました。何もないところから一つの形、社会に手渡す「もの」にしていく途中を経験してきている人たちだからこそ、生まれる労いと共感なのだと暖かく受け取らせてもらいました。この11日に対談をする寺尾沙穂さんも書評を書いてくださいました。


僕個人は、本を纏められて良かったと達成感に浸った時間は一週間ぐらいで、今は『ひとりの記憶2』にとりかかっています。脳が溶けない内に書こうという思いもありますが、僕の手元にある、もう二度と聞くことの出来ない戦争があった時代を生きて来た人たちの記憶を次の時代に繋がないといけない。そんな思いからです。


簡単にはいかないでしょうが『ひとりの記憶2,3』と進める気持ちでいます。ただ年齢が年齢だけに集中できる時間は一日に二、三時間がやっとで、とにかくコツコツだと自分に言い聞かせながらの毎日になります。



             -手元に届いた書評-

○飯沢 耕太郎「写真家の鮮やかな語り口」(図書新聞 2016.5.21

○能島 龍三「激しくも淡々と流れた過去重く」(しんぶん赤旗 2016.5.8

○姜 信子「生身の人間として寄り添う」-書評(週刊読書人 2016.5.13

○塚田 恭子「彼の地で戦争を生き抜いた人々の記憶を、今につなぐ」
                          (家庭画報6月号)

○米田 綱路「20年反芻した声編む」-書評(東京新聞 2016.04.17

○金子 徹「戦後帰国しなかった日本人の証言」(しんぶん赤旗 日曜版 2016.4.17

○鳥海 美奈子「戦争前後に海外に渡り、異国で生きた人々の多彩な人生を綴る」

(サライ5月号)

○奥 武則「無告の民の言葉を伝える」-神保町の匠(WEBRONZA 2016.03.24

○城戸 久枝「人生と記憶に誠実に向き合う」-ブックレビュー
                   (日本経済新聞 2016.03.20

○寺尾 沙穂「外地で戦後歩んだ人々」書評(南日本新聞 2016.3.20

○渡辺 一史「波瀾の半生 時をかけ記録」-本の森 書評(北海道新聞 2016.03.13

○大上 朝美「戦後も外地に残る人々の歴史」-著者に会いたい
                      (朝日新聞 2016.02.28

○角田 光代「人生という真実」-書評(本の話WEB 2016.02.07

 

 

          

 





●2016.05.19

夏が始まりましたね。

2日前に3年以上履きっぱなしの冬タイヤを夏タイヤに付け替えたところです。春が来る度にタイヤ交換をしないといけないと思いつつも、気持ちに余裕が無く、冬タイヤのまま車を走らせていました。

 

近くの公園で太陽に当りながら、ふと熊本でテント暮らしを与儀なくされている人たちの生活を想像してしまいました。

20代のころテントを担いで夏の南西諸島の島々を転々としていたことがあります。

日が昇ると、もうテントの中でじっとなんかしていられない。自然災害だけにしょうがないのか、と思いつつも被災して家に入れない人たちが気の毒でなりません。何か出来ることをと思いつつも、駅前で街頭募金を呼び掛けていた学生さんらに、募金をするのが精一杯の行動になります。

 

それにしても阪神淡路大震災、長野や中越の地震、東日本大震災、そして熊本と、自然災害が普通にあちこちで多発するような国土の上に建つ原発の存在が恐ろしいです。

 

このホームページも閉じる方向でいますが、閉じるなら今このタイミングなのですがAPOCCでお世話になった方々に、お礼と今後の報告が出来ないまま、時間だけが過ぎて行っています。ホームページを管理している方も、自分の展覧会に向けてギアを入れなおし創作に向かい始めただけに、できるだけ迷惑をかけないようしないといけない。

 

6月11日に下北沢の本屋BB において歌手で作家の寺尾沙穂さんと対談することになりました。『ひとりの記憶』の発刊記念イベントになります。

 

実は『ひとりの記憶』を書き上げるまでの数年、浦島太郎状態の自分が恐ろしく本屋を覘く余裕がなかったのですが、今年の一月、原稿が手を離れてやっと、駅ビルの中の本屋を覘く気持ちが生まれました。その時、最初に手にした本が角田さんの『拳の先』と『南洋と私』と題した寺尾沙穂さんの本でした。何故に手にしたかというと、本が放つ気配が果物のマンゴーとパパイヤの完熟色だったからです。で読み始めてアプローチの仕方やテーマが『ひとりの記憶』とほぼ同じで驚いてしまいました。世代も僕よりはるかに若く、戦争をリアルに語れる人が亡くなって行く中で、寺尾さんなりの方法で戦争があった時代や社会を語る本でした。寺尾さんのお仕事のことをベルリンでドイツの戦中、戦後と向かいあっている知人に「何か仕事のヒントになるかもしれない」と送ってあげた直後に対談の話が届きました。寺尾紗穂さんは音楽活動以外に『南洋と私』の他に、原発で働く人たちに関心を寄せたり、日本の土俗文化の残る地を訪ねたりと、精力的に活動されている、音楽家で作家さんです。

 

2016/06/11 ()

15:00 - 17:00 (14:30開場)

会場:本屋B&B

チケット :前売/席確保(1500円+ 1drink order 

会場住所:東京都世田谷区北沢2-12-4 第2マツヤビル2F

電話:03-6450-8272






●2016.03.06

『ひとりの記憶』を発表してひと月になります。

まだ数えるぐらいの人たちしか手にされていないと思うのですが、これまでだと新作を発表すると必ず多方面から連絡が届きますが、『ひとりの記憶』ではまだ3通だけ。この静けさはなんだろう。


千葉で有機野菜を作っている方が「一つの章を読み終わっても、すぐに次の章に移らず、しばらく笠原さん(第一章の人)のことを思いながら生活をしています」と、連絡をくださいました。

 

作家の角田光代さんが『ひとりの記憶』を読んで、「幸福だとか不幸だとか、そんなことは関係なく、そこに人が居て生きて来たという真実」と言った意味合いのことを書評に書いて下さいましたが、個々の表現の差異はあるにしろ読んでくださっている皆さんの中で、静かに何かが動いているのかもしれません。


「人生の真実」と題した角田さんの書評は、人生に対する考察力の鋭さ深さにはプロの物書きの厳しさを見せられた思いです。というか人間、角田光代を『ひとりの記憶』にぶつけて下さり有り難かったです。

 

『ひとりの記憶』について少し説明をします。

本の中に登場するのは10人。男性6人女性4人になります。戦前、日本が植民地支配していた朝鮮半島や信託統治していた島々で生まれた人が3人。同じように日本が植民地支配していた台湾に、働きに行った両親に連れられて行った人。戦前に沖縄から台湾に渡り戦後も台湾で漁師として生きた人が一人。戦争が終わる3か月前に満州にある看護学校に勉強に行った人。北海道で生まれ、その後家族で樺太に渡り、終戦後にシベリアに抑留された人。兵士として海を渡り、戦後もインドネシアに残留した人が二人。戦争が始まる前に福岡からキューバに移民として渡った人が一人。皆さんの中に「戦争の時代」が共通して流れていますが、いわゆる戦争の話ではありません。僕は本の中で「人生」という単語を使いきれませんでしたが、戦争があった時代の前後を生きた人たちの話です。

 

版元の文芸春秋に「本として纏めたい」と400字詰めで500枚程の量の原稿を送り読んでもらったのが、昨年の7月の頭、そして本として形にして社会に提出できたのがこの一月。僕はこの10年近く『ひとりの記憶』と向かい合って来ていた訳ですが、編集者はこの数か月間、半年間という短い時間の中で『ひとりの記憶』と向かい合うのに大変だったと思います。『ひとりの記憶』を編んで行く途中、文芸の編集部の一人の方が「橋口さんの表現を弄ってはいけない」と、その考えを編集部内で共有しあい守ってくださり、出版に辿りつけたことに、本当に心から感謝をしています。ここにきて完成を急いだのは、これ以上は僕の神経がもたないと自分で判断できたから。

 

 

JAが発行する『家の光』3月号で、東日本の被災地をテーマにした、写真作品と原稿を発表しています。


・『Them magazine』009号が路上をテーマに特集をしていますが、『視線』の作品2点が紹介されています。


『家の光』も『Them magazine』も『ひとりの記憶』の原稿を校了した直後に依頼が届きました。僕の中で他のことと、向かい合う余裕が出来た時で良かったです。

実は『Them magazine』の編集者の一人は、偶然にも沖縄の知人の縁者に当る人でした。写真原稿を手渡した直後にその事実が分かり、その場で沖縄の知人に電話を入れたところ、知人は海の上で「なんで一緒に居る?」と驚いていました。勿論、編集者も余りの偶然に驚き喜んでくれました。

 



・2月28日の朝日新聞書評欄で『ひとりの記憶』と橋口を取り上げてくださいました。『ひとりの記憶』の本が持つ意味と価値。そして一人でも多くの人にこの本を読んで欲しいという、記者の優しい思いが込められたありがたい記事でした。記事に添えられた写真にもカメラマンのキャリアを感じさせてもらいました。

 

・本当に久し振りに奧信濃の林道を3日かけて歩いて来ました。足元は雪が凍り緊張した山歩きでしたが、この数年来、張り付いていた神経の緊張が少し溶けた気がします。精神も少し安定してきたようで、言葉も戻り始めて来ました。この数年滞っている、もろもろを片づけながら、次の準備に入るつもりです。




15か月程前になりますが、パソコンのハードディスクが突然壊れてしまいました。幸い『ひとりの記憶』の原稿とAPOCCの皆さんの連絡先は外付けで保存をしていたこともあり無事でしたが、他のデーター、メールアドレス等は全て失ってしまいました。本当に呆気ない程全部消えてしまいました。メーカーによると費用がかかるがデーターは復元できるということでした。データーを復元するか、どうするか迷いましたが『ひとりの記憶』をいつ書き上げられるか分からず、そのためにあらゆる出費を抑えていたこともあり、復元することを断念しました。メールアドレスに関しては、双方にアドレスが残っていることに期待をしての決断でした。


僕に新しくデーターを打ち込める余裕と能力があればいいのですが、アドレスを復元できないままになっています。その結果これまでインターネットでやりとりをしていた多くの国内外の知人や仕事関係者と連絡が取れなくなりました。スミマセン。







●2016.01.13


『ひとりの記憶・海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』

この数年取り組んで来た仕事がこの1月30日に店頭に並びます。TOPICSのコーナーで『ひとりの記憶』の画像並びに情報を紹介しています。『ひとりの記憶』の存在と橋口の仕事を周りの方に教えていただけるとありがたいです。

こうして仕事の完成を皆さんに報告出来てホッとしています。
文章を書くということは、恐ろしい作業でした。



文藝春秋刊 単行本

『ひとりの記憶・海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』

 

橋口譲二

定価:本体1,700円+税
発売日:20160130日 







●2016.01.01

新しい一年が始まりましたね。

この数年とりかかっていた『ひとりの記憶』がやっとゴールを迎えられそうです。まだ気は抜けませんが、無事に進めば今月中に具体的に皆さまに報告できるかと思います。

 

定期的にやりとりをしているポーランド人写真家に「今度の仕事は難産だ。山が次々に現れる」と伝えると、それはいい仕事になるに違いないとチョコレートと一緒に励ましが届きました。ポーランドにも難産という意味を共有する文化があるんですね。

 

先日、今準備をしている本に収録するためのプリント作業をしました。やはりプリント作業は身体というか感覚を使う為に、身体が喜んでいる感じが分かります。文章を書くのは脳だけが疲れてしまい神経のコントロールというか、自分との付き合い方がとても難しいというのが正直な感想です。物を書くことだけで勝負している人たちの神経や意識のコントロールの仕方の大変さが、少しだけ身をもって理解出来た気がします。

 

東北の被災地をテーマにした作品の一部を引き受けてくださる人たちが手をあげてくださいました。被災地で偶然行き会った若い編集者がずっと僕のことを気にかけてくださっていました。すでに写真選びは終わりレイアウトも出ています。後は特集に添えるテキストになります。

 

東北の作品を引き受けてくださる編集部の方々とお会いしましたが、一人の方の名刺を見て、苗字に目がとまると「橋口さんがお会いになったのは私の父です」と。編集者の一人は鹿児島の方でした。

 

今年は余裕がなく、まだ一枚も年賀状が書けていません。寒中見舞いにならないよう松が明けない内に書くつもりです。

 

新しい年も気長に付き合っていただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。






●2015.11.05

9月に京都と宮崎に呼んでもらいました。

京都は通信制の大学のスクーリングを2日間。宮崎は公募展の審査の為です。
京都は疲れましたけど、楽しかったです。


京都では50人近い学生の写真を講評するわけですが、年齢が20代から80代と幅広く、個々に通じる言葉を探すのに苦労しますが、面白かったです。絵葉書を複写したような作品を提出して来た学生も数人いましたが、多くの学生が真面目に悩んでくれているのを感じることが出来て良かった。

 

なかでも、20代後半で、水をテーマに撮ってきた女子学生は、水が流れている光景は2点で、後は街角の家並みに水のイメージを探し、見る人の想像力に預けた写真を並べてくれました。60代の男子学生は大通りや路地や庭先を意識の中で交差させ、「これが京都?」と、お寺が全然風景の中に出てこない写真群を見せてくれました。昨年、80代後半の男性で、動物園に着くまで家を出るときから電車の中、電車を降りて動物園に着くまでに撮った写真を、「動物園」というタイトルで提出した学生がましたが、今年も80代の女性が、市内を流れる鴨川で寛ぐ人たちと、京都を取り巻く山々の森が持つ不気味さを撮り、森と鴨川縁を合わせて「京都」と提出した学生もいました。昨年の動物園といい今年の森と川縁。発想が素晴らしいです。

 

あと、昨年酷い作品を並べていた30代の男子学生が、「美しいとは何?」という意識のもと撮ったヌードを見せてくれました。途中で投げ出さなければ、とんでもない作品になりそうな予感を受けました。作品になるまで、なんとか伴走してあげられたらと思います。

 

学生が見せてくれたヌードや京都の写真は大勢の人が既に被写体としていて、たくさんの作品があるだけに、その人の解釈の仕方や語り口が大切になります。写真に限らず、表現の世界では多くの人がオリジナルな語り口を見つけられないまま、年をとり消えて行く人が殆ど。

 

ちょうどオリンピックのエンブレムの問題が起きた後だっただけに、オリジナルな感じ方、発想が誰のものか、自分のものなのか、リスペクトの仕方とか、エンブレムの問題も含めて一緒に考えることが出来て、いい時間が持てたと思います。

             

写真だけではなく、小論文の中にも脳が鋭いだけではなく、論理の展開力と組み立てかた、言葉に体温があり、写真を論じながら自分や社会を感じさせてくれた女子学生がいて、「課題はいいから、文章の世界を深めなさい」と思わず声をかけてしまいました。時間はかかるでしょうが、手伝えることがあるような気がします。

 

というかヌードを撮っている学生もですが、定期的に向かい合う時間を作らないといけないなと思い、少し悩んでみたいと思います。

 

講評2日目は、お昼ご飯以外はほぼ7時間近く立ちっぱなしで、学校では平気でしたが、夜ホテルで足が引き攣ってしまいました。学生は僕以上に疲れただろうな、と想像します。

 

毎回思うのですが、年齢と動機や背景が混在する通信制の学生と向かい会うのは、正直疲れますが、高校を卒業して真っすぐ大学に来ていない人たちだけに、自分自身が鍛えられ、勉強になります。

 

 

宮崎は2年の約束の2年目。地方には地方の美に対する価値観が根強くあるだけに、ただ僕は掻き回しに行ったのではないかと、少し悩んだりしました。悩みつつも宮崎でもしっかり自分の写真感で選びました。

 

審査の翌日、宮崎でコツコツと20年以上も水俣を撮っている写真家の方と一緒に、ご飯を食べたり海を見に行ったりしましたが、特になにを喋る訳ではないのですが、お互い何処かで合い通じるものがあるのか、穏やかな時間を持つことができました。今度、海釣りに連れて行ってもらうことになりました。

 

 

沖縄の知人が東京に仕事で来るついでに、島豆腐と島ラッキョウを届けてくれました。とても懐かしく、美味しかったです。美味しかったというより、スーパーで買う豆腐が味気なくなり困ります。







●2015.08.28



夏も終わりますね。

いま踏ん張りどころですよと、松山の知人が有機野菜を送ってくれました。
野菜を見て思わずニッコリしてしまいました。たまたまカメラを持っている知人が来たので、食べる前に一枚。本当は一つ一つの野菜の形状が分かるように、もう少し広げて撮りたかったのですが、床や机の上に資料が散乱しているために、窮屈な写真になってしまいました。

 

手前から緑色をしてクニャクニャしているのは伏見甘長(シシトウ)、
白いパプリカ
ルーマニア産(種をもらったそうです)、
右側の、へちまみたいなのはカボッキー(韓国若カボチャ)、
丸く紫色をしたのは、丸ナスでロッサビアンコというイタリア産のナス。
イタリアのナスは種が多く食感が今一つだということで、来年は作らないとのことです。

オレンジ色をしたのはコリンキーという生食用のカボチャ
黄色く丸いのは、宇和ゴールドでレモン交配柑橘。

 

実は野菜のほかに、赤紫蘇で作ったジュース。
青紫蘇+ニンニク+減塩味噌(食欲増進用)
ルバーブジャム(緑ルバーブ)・・・初めて食べました。

いろいろな気遣いに、ただ感謝でした。

 


・今年もキノコ採りは難しいかなと思っていたところ、散歩の途中に近所の公園でヒラタケを見つけました。早速、湯がいて大根おろしで食べました。

 

 ・ミトローパについてですが、ミトローパは僕のところに何人かアシスタントが居た時に設立した会社になります。そのころは皆の生活を守る責任が僕にあり、会社形式にしました。現在は、皆はそれぞれ独立をして、個々の作家活動・仕事をしています。

橋口個人は数年前から未発表の作品を纏め、発表に向けた作業とこれまでの作品を整理するのが基本の作業になっています。

今は、目の前の原稿書きに集中していますが、原稿が手を離れたら、ミトローパは整理をするつもりでいます。

   



APOCCについては、橋口個人が立ち上げたものですが、このような形で、社会とかかわったことで、公のものになっていると僕は認識をしています。


今は、自分の作品を纏めることに集中している為に、活動は中断をしていますが、落ち着いたらまた動くつもりでいます。活動を中断しているために、サポーターの皆さんにお願いをしてきた、会費のお願いもこの数年控えています。
 


活動歴は多くの人が自由に見られるように管理は続けます。ただ動き出すまでは、できるだけ出費は控えないといけないと思っています。
 


現在ホームページを管理しているお手伝いの者も橋口もインターネットに疎く、ドメインの意味、仕組みすら理解できていません。そんなこともあり、連絡先をフリーメールにすることで使用料がかからなくなると、単純に思い一時フリーメールにしました。


で、サーバーの方のサポート、説明を受けて、ドメインを無くすと、現在のホームページも見られなくなることが判明しました。で、ドメインは直ぐに戻しました。
 


現在一番、費用がかかるのはサーバー費用になります。その打開策として、橋口個人のホームページを作り、そこにAPOCCの項目を作る方向で動いてもらっているところです。

 

ワークショップについても、近所の美術の先生が、ワークショップに参加をする個々の生徒たちの個性も殺さず、費用も人手もかからない方法、形を見せてくださいました。

 

 


・ベルリンの中村真人さんが、雑誌『世界』9月号で「過去への取り組みは、人を強くする」というタイトルで寄稿しています。図書館で探してみてください。

 

 

・9月頭に、京都で二日かけて学生の作品を見せてもらいます。体力勝負になりますが先生たちの助けをもらい、頑張りたいと思います。

 

 

この数年とりかかっている仕事は、やっと全体像が見えてきました。皆の励ましをもらいながら、なんとか集中を切らさないで向かいあっています。

 






●2015.05.11


台風が近づいていますね。

気にはなっていたのですが、ホームページを更新出来ていません。そのことが少なく無い人に心配をかけているようで、この数日地方の友人・知人から連絡をもらい申し訳ないです。

 

僕は元気です。ただ、昼間は書き物をしている為に夜になると脳が機能しなくなってしまいます。いろいろと報告をしなくてはいけないと思いつつも夜は脳を休ませるようにしています。

 

心配をしていただいて有難うございます。

 

そして携帯番号が変わりました。数年前からメールでやりとりをすることが多くいつの間にか人と直接話をすることが少なくなっていました。話す用事があり電話をしたのにもかかわらず、ついつい通信費を気にしてしまい用件のみで切ることが増えていました。良くないと思いつつもメールに頼りっぱなしの生活に陥ってしまいました。そんなこともあり3月から通話主体の携帯電話に切り替えました。電話かけ放題4000円というプランを友人が探して来てくれたのです。電話を受け取る側は迷惑しているかもしれませんが、沖縄・北海道・鹿児島・宮崎・山形と電話をかけまくっています。電話を切り替えてすぐに小中学の同窓会が鹿児島でありました。電話を切り替えたことで同級生一人ずつ話すことが出来て良かったです。番長は「馬鹿がなんで帰ってこない」と電話口で怒鳴っていました。

 

パソコンメールも出来るだけ控えています。インターネットもメールを確認する以外はケーブルを引き抜くように心がけるようになりました。ケーブルが繋がっていると、ついついネットサーフィンしてしまうからです。それにメールでのやりとりは便利なのですが、知らず知らずのうちに言葉が強くなり人間関係が窮屈になることが増えたからです。そんなこともあり夜はなるべくメールを書かないようにしています。

 

しばらく皆さんに不自由をかけますが、宜しく願いします。

                                            

橋口 譲二







●2015.03.08

穏やかに新しい一年がスタートしたなと思ったのもつかの間のことでした。湯川さんと後藤さんが誘拐され殺害されてしまいましたが、ニュースを聞くたびに本当に嫌な気持ちになり、気持ちがざわついて夜もなかなか眠れなくりました。夜中にふと目が覚めてはTVをつけて見たりと、そんな日が続いていました。何が嫌だったかというと人の命が弄ばれていると思ったからです。それと、人の死はそれが誰であれ悲しいことなのですが、現実はそうでないと見せつけられたからです。

 

僕は勉強不足もあり後藤さんの仕事も存在も知りませんでした。ただ、後藤さんも初めから今の様な考えを持っていたわけではなくて、様々な経験と体験を積み重ねた結果だと思います。その意味において湯川さんもこれからだった気がします。湯川さんも体験を積んで行く中で、僕らがいま認識をしている湯川さんとは違う思考や行動を手にする可能性があっただけに、残念というか無念です。

 

この数年、中東を担当していた知人が「皆、忘れられるのを怖がっています」と現地からレポートをしているニュースを見る機会がありました。湯川さんと後藤さんの消息が明らかになる前にです。最後の部分だけしか見てないので、それまでどの様なやりとりがあったか分かりませんが、心に残る言葉でした。

 

「忘れられるのを怖がっている」このメッセージの先は、戦争に巻き込まれて命を無くしている大勢の人たちや、難民を指しているのかもしれませんが、知人の指摘は確信をついている様な気がします。湯川さんも後藤さんも、ISに参加していく外人部隊も心の底辺で共有しあっている思いの様な気がします。そのことは日本社会で生きる僕らにも繋がるのではと思いました。

 

 

一月、京都の大学に通信教育のスクーリングに出かけてきました。授業は3日間でしたが前後5日間の京都滞在でした。スクーリングに参加する学生の年齢は20代前半から80近い人まで。個々の体力の違いは勿論、素養も違えば目的意識も違う学生さんたちです。その一人一人との対話は体力勝負でした。最終日の午後4時を過ぎると、もう脳が機能しなくなってしまい講評できずに宿題として東京に持ち帰りました。正直、これだけ年齢やレベルが幅広い人たちと向かい合うのは疲れますが、僕はスクーリングに参加するような状況・人が嫌いじゃないんだと改めて思える京都の時間でした。

 

ある次期に僕が関わった人たちが、昨年秋から作品集を届けてくれています。本当はこの頼りで紹介を出来れば良かったのですが、APOCC・ミトローパのことも含めて次回にします。

 





●2015.01.08

新しい一年が始まりましたね。

新年は数十年ぶりに近所の八幡様に散歩の延長で初詣に出かけました。ただ、三が日を過ぎているというのに想像以上に参拝客が多く、途中で並ぶのに挫折してしまいました。でもドイツで日本語を勉強している知人の為に御神籤を買い、たこ焼きを食べて家路につきました。御神籤が凶でないことを願います。

 

数年前からとりかかっている書き物の仕事はやっと方向性が定まりました。まだまだ時間はかかりそうです。新年度中に書きあげられるよう、集中を切らさないで頑張りたいと思います。

 

・昨年の夏前に『A usual  mornig』は作品集の纏めに入りましたが、仕上げの方向性に迷いが生まれて暗礁に乗り上げてしまいました。夏から秋にかけていろいろと悩みましたが、他にやり残している仕事が3作残っていることもあり、しばらく『A usual Morning』は隣に置くことにしました。ただプリントではキチンと残したいと思っています。作品の完成を待ってくださっている皆さんには申し訳なく思っています。ただ、自分の年齢を考えると作品は残ったものが全てだけに、慎重に進めているのだと理解してもらえると有り難いです。

 

・ここで何度となくAGFAの後継印画紙について触れていますが、先月ベルリンからプリント見本が届きました。スイスで写真活動をしている知人のエヴァさんがベルリンの工場の窓口を直接訪ねて送ってくれました。

 

AGFA MCC 111Bに近い印画紙を探しにFotoimpexに行ってきました。その結果、この印画紙に似たADOXの印画紙が見つかりました


MCC 112 ADOX Papier (ややマットな表面、紙の厚み250g)

MCC 110 ADOX Papier (光沢の表面、紙の厚み250g)

 

ADOX の印画紙は製造中止になったAGFAの製造機で製造されているそうです。上記の情報はインターネットでも調べることは出来ますが、僕自身がインターネットによる情報習得に不慣れなこともありエヴァさんにお願いをして直接調べて教えてもらいました。 製造中止になったAGFA MCC 111Bで僕がプリントをした作品は『Couple』『BERLIN』『HOF ベルリンの記憶』の展示用になります。(光沢紙)

僕が知らないだけでADOXの印画紙はすでに日本でも輸入されているのかもしれませんが、もし、AGFAの印画紙の後継印画紙を求めている方は直接コンタクトを取り購入が可能です。対ドル、対ユーロの為替の問題、消費税等を比較をしてアメリカの通販ショップで購入するのも一つだと思います。

Fotoimpex: www.fotoimpex.de/

 

 

・この一月にスチルムービーを久しぶりに京都の大学で試みることにしました。

実はスチルムービーを試みるのをしばらく躊躇っていました。その理由ですがある場所で試みた折に、だれかが録音をし、録音をしたテキストを完全に書き起こしインターネット上で写真も一緒に公開されようとしたからです。幸いにも公開される前に未然に防ぐことが出来ました。スチルムービーは写真集『17歳 2001~2006年』(岩波書店)に収録されている著作物です。日本の様々な場所で生きる17歳のモノローグと東京吉祥寺の心象風景で構成をしています。登場する17歳の少年少女はいまこの時間も日本のどこかで生きて生活をしている人たちです。懐かしいと思う人もいれば、できればあの頃の自分に触れて欲しくないと思う17歳もいるでしょう。自分の作品だとはいえ関係の持ち方に慎重になるのです。そんなこともあり、しばらく臆病になっていました。

そのようなことがありましたが今回改めて京都で試みることにしたのは、写真表現が持つ可能性の一つを知って欲しいことと、朗読を通して17歳の話に触れることは、その人の人生に寄り沿うことだということを学生たちと一緒に考えたいと思ったからです。

 

・1月8日発売の雑誌『世界』でベルリンの中村真人さんがドイツの戦後を生きた人たちのノンフィクションを発表しています。この仕事は中村さん自身が自分で編集部に企画を持ち込んで具現化しました。自分で自分の考えを伝えに行く。一見簡単なように見えますが、とても大変勇気のいることなのです。行動した中村さんと中村さんを受け止めてくださった編集者に拍手です。

 

 

・先月末に大阪の知人から「これで正月を過ごしてください」と上等のお肉と沢山の食材が届きました。早速、近場で生活をしている何人かにおすそ分けをして美味しくいただきました。大阪の知人はこの30年近く、いつも気にかけてくださっています。鹿児島のお寺さんや地方から応援してくださっている人たちの為にも、今やりかけの仕事はキチンと纏めなければと思っています。

 

・コレクションの為の作品を届ける為に富士山の麓に出かけてきました。しばらくヨーロッパに足を運んでいないこともあり、知人たちに近況を伝えようと思い作品を届けついでに富士山をバックに友だちも一緒に記念写真を撮ってもらいました。そして早速、ヨーロッパの知人たちに写真レターを送ったところ、富士山が背景に写り込んでいたこともあり大喜びでした。何か温かいものを感じとってくれたのか、自分たちも写真を撮って送ってきてくれました。エヴァさんなどはわざわざ雪降る中にソ連製の大型カメラ8×10を持ちだし、僕の日本人シリーズを意識したフレミングの写真を。写真歴史家のハウゼルさんは大晦日のひと時の写真を。こういう時にデジタルカメラはとても便利です。

 

・先日コーヒーを飲んでいたところ通りかかった人が挨拶をしてくださいました。「あ、知っている顔だと」そこまでは脳が反応したのですがなかなか思い出せません。その方は2度も立ちどまり挨拶をしてくださいましたが「記憶にあります」と答えるのがやっとでした。最初に写真関係者だと思ったのも失敗の原因でした。でしばらくして青年団の役者さんだったと思いだしました。10数年会ってなかったとはいえゴメンナサイです。実はその前もパン屋の前で僕より背の高い女性に挨拶された記憶があります。その時はパン屋に行く直前まで4時間近く原稿を読んでいたこともあり風景にピントが合わない状態でした。パンを受け取りながら「なんでさっきの人は僕の視線の先に2度も立ったのかな」とまでは考えたのですが、後になりなんとなく知り合いだった気がしています。すみませんでした。最近脳の反応が本当に鈍くなっているようです。

 

次の橋口便りではAPOCCやミトローパの今後について述べたいと思います。そして少しずつベルリンのBOGOTAで試みてきたリヒトホーフの場の解放についてリスマンさんと話し合ってきたことなどを書いていければと思います。

 

今年もどうぞ宜しくお願いいたします。







●2014.12.02


この間プリント棚を整理していたところ、棚の奥からソ連製の手巻き腕時計が出てきました。1990年にベルリンのポツダム広場が更地だったころ、広場に生まれた青空市で(通称ポーランド市場)で確か8マルク(約1,000円)ぐらいで買った記憶です。ネジを巻いてみたところ動いてくれました。最近使っていますが、朝目が覚めたら時計は止まっています。でも、ネジを巻けばまた動きだすので楽しんでいます。


ベルリンの壁が崩壊して25年ということをすっかり忘れていました。新聞やTVの特集を見て、そうなんだと、すこし原稿書きを隣においてインターネットでベルリンの新聞を検索してみたところ「Berliner Zeitung(ベルリナー・ツァイトゥング)で一人の写真家の特集を見つけました。


写真家の名前はManfred Paul(マンフレッド・ポール)。壁崩壊前の旧東ベルリンの街角の写真を大判カメラで撮っていた写真家です。東ドイツ時代にベルリンの写真を撮っていた人がいるということは噂では聞いていましたが、名前を知り実際に作品を見たのは初めてのことです。記事を読むと僕が知らないだけでパリ・フォトで特集されたり、主だった美術館にすでに作品がコレクションされていて、しっかりと彼の仕事と存在は社会に認識されていました。僕の作品『BERLIN』と『Hof・ベルリンの記憶』とまったく同じ地区で撮影されていました。というか、紹介をされている作品の殆どが僕のベルリンの部屋の周辺で撮影されています。洗濯ものが干してある中庭や、マロニエの木を上から撮った場所のアパートも写真を見て直ぐに分かりました。このマロニエの木の下には、スーパーの売れ残りの果物や野菜などが置いてあります。必要な人が自由に持ち帰ることが出来るのです。

 

マンフレッドさんの作品は街角との距離感がとてもいいなと感じました。見る人に視線の先を強要していないことが素晴らしいです。それに対象の街角から少し距離を置いてカメラを立てているところに、マンフレッドさんの当時の立ち位置が透けて見えてきます。東ドイツは監視社会でしたから写真をただ撮っているだけでも警察に難癖をつけられただけに、写真にあるような立ち位置が生まれたのかもしれません。でも分からないですが。記事に添えられた作家の写真を見たら、何度かカフェやカスターニエン大通りですれ違ったことのある方でした。今度は声をかけてみようと思います。


ただ、撮影エリアも表現の仕方もお互い似通っているだけに、彼の存在と作品を『Hof』を纏める前に知っていたら、後から作品を発表する者の礼儀として後書きでマンフレッドさんのことに触れるか、或いはタイトルなども「Hof」を削除したりとリスペクトすべきでした。

(リンクが上手く貼れず作品が見られません。アドレスは間違っていませんので、興味のある方は下記のアドレスに直接アクセスをして作品をご覧ください。)


www.photoeditionberlin.com/künstler-artists/manfred-paul/

http://www.berliner-zeitung.de/berlin/prenzlauer-berg-1972-bis-1990,10809148,22044654.html



ドイツがらみですが、僕の初期のベルリンを助けてくれていた高田ゆみ子さんが翻訳出版をした『見えない雲』を原作にしたお芝居が三軒茶屋の世田谷パブリックシアター小劇場のシアタートラムにて上演されます。

http://minamoza.com/diewolke.html

今回の主演は上白石萌音さんという16歳の女優さん。この秋、周防正行監督の『舞妓はレディ』という映画の主役としてデビューした高校生です。

 

 

僕の作品集に登場してくださった人たちのニュースです。

作品『職』で蔵人を撮らせてもらっていますが、ここで登場するかつて修行中だった石川達也さんとは今でも季節のやりとりをしています。2週間ほど前に石川さんに連絡をいただき、ふとNHKの朝のドラマ「まっさん」のことを思いだしました。石川さんはいま広島の酒蔵の杜氏だからです。「ロケ場所、近所ではないですか」と訪ねてみたところ、なんと「ドラマの主人公の亀山正春さんのモデルは、竹鶴政孝さんというニッカウヰスキーの創業者で、スコットランドへウイスキー留学をしていたときに恋愛し、結婚したリタさんを日本へ連れて帰り、それこそドラマティックな生涯を送られました。その政孝さんの生まれ育ったのが、うちの蔵なのです」と。忘れていましたが、石川さんは竹鶴酒造でした。「まっさん」のドラマでは「酒造り指導―石川達也」で番組にもクレジットが入っていて、勿論本人もドラマにも蔵人として登場されているそうです。石川さんは昔から謙虚な方でかつ勉強家だけにこの度のドラマにおいても明治から大正時代にかけてのお酒造りについて勉強をされたそうです。


それにしても石川さんは大変歴史のある蔵を引き継がれたものだなと感心してしまいました。僕も一度ドラマに出てくる庭を眺めながら日本茶をご馳走になったことが有ります。遅いかもしれませんが少しお酒の練習をして石川さんのお酒を飲んでみようと思います。

 

先月、『17歳の地図』で撮らせてもらった上田 暇奈代さんが横浜トリエンナーレでのアート活動も含めた日々の活動が大きく朝日新聞で取り上げられていました。上田君は10代の頃からNHKで鶴瓶さんと共演したりして知る人ぞ知る有名な存在でしたが、この度の朝日の記事や横浜での試みでさらに広く深く認知されたと思います。どこまで飛んで行くのか楽しみです。同じ写真集で撮らせてもらった行司の木村鎮秋さんが幕の内力士の取り組みの行司として土俵に上がっていました。お相撲さんを見ることはあっても行司さんを意識して見ることは殆ど無いかと思います。彼は相撲取りを断念して行司になった人だけに、身体が大きいので見ると直ぐに分かると思います。顔も大きいです。大きな身体で土俵の上で勝負を見ながらちょこまか動いて3番も取組を裁いていました。ちょこまか動いているのは少しでも木村君が止まってしまうと後ろの人が見えなくなることを本人が良く分かっているからだと思います。見栄えが求められる行司の世界で良く精進して今日まで来たものだと、相撲を見ていて涙が出てきそうになりました。



同じ写真集でパンクの恰好をしていた伊藤健太郎君がいました。少し飛びますが僕の自転車を修理してくれた旅人がいますが、その旅人と伊藤君が季節季節の仕事で一緒になっているそうです。今二人は大阪にいると伊藤君と旅人の共通の知人が教えてくれました。勿論、二人は生まれも年齢も生きてきた場も違いますが縁とは不思議なものです。



『17歳の地図』がらみでもう一人触れると、先日、三鷹駅の近くを歩いていたとき「沖縄の長間秀樹君の子どもが勉強のために東京に出てきましたよ」と地元の議員さんが教えてくださいました。長間君の詳しい消息を伺いたかったのですが、わさわさして聞きそびれてしまいました。

あの一冊の写真集と一緒に生きて生活している人達の姿が見えてきて嬉しいです。



 




●2014.10.25

少し時間が過ぎてしまいましたが、宮崎に呼ばれて出かけていました。そして、そのついでというのも変ですが、鹿児島まで足を延ばしました。この数年、宮崎と何故か縁が生まれています。


宮崎では新聞社主催の芸術祭で、写真部門の審査をするのが僕の仕事でした。正直なところ少し審査をするのが難しかったです。


応募作品の全てがデジタル表現で画像処理も普通に皆さんなさっている。僕自身が殆どデジタル表現から遠いところにいるだけに、他人の表現に対して判断が少し甘くなっているようです。甘いかなと感じたのは今年の冬、京都の大学でも同じ様なことを感じていた気がします。たぶん気持ちのどこかで自分がやらないからと言って、他人の表現を否定してはいけないという思いがあるのだと思います。ただ、ズームレンズの弊害が全ての作品に共通していたような気がします。機能があると使いたくなるでしょうから、ズーム機能を動かせないようにガムテープで止めたらいいのに、と審査の間中ブツブツ口にしていたような気がします。


審査は体力勝負で大変でしたが、ホテルではとても心穏やかに過ごせました。
部屋が上層階ということもあり、部屋から山側の宮崎市内が一望できました。足元に大淀川が流れて、遠くには霧島連山が連なっていました。右端に韓国岳、そして左端に高千穂峰が。鹿児島からはちょうど反対の見え方になります。有り難い一時を持つことが出来ました。それにホテルは小学校の修学旅行で宿泊した同じホテルでした。宿泊費の一部としてお米を持って行ったことを思いだしました。宿に着くと廊下に用意された大きな笊に、一人ずつ一泊ごとに袋から移します。水稲と陸稲はお米の色が少し違うために、笊のお米の山が単色でなかったことを今でも良く覚えています。

 

鹿児島では幼稚園の頃の先生とお会いして写真を撮らせてもらいました。写っているといいのですが。お寺で午前中過ごし、午後からお墓の掃除に向かいました。墓掃除をしている途中に雨が降り出し、濡れるのは平気でしたが、何か額や顔の周りがザラザラすると思ったら桜島の灰でした。風向きがこちらに来ていたようです。掃除をしても後から後から灰が降ってきて困りました。でも桜島の灰はまだ目で見えるからいいやと思い、雨と灰に降られながらお墓の周りの草を抜いていました。墓掃除の後、近所に住む同級生たちを訪ねるつもりでいましたが、灰交じりの雨に打たれて酷い状態だったこともあり、友達には声をかけずに戻りました。


夜、地元の新聞社に働く知人が「少し元気をつけてもらわんと」と迎えに来てくれて案内されたのは焼き鳥屋の2階でした。鹿児島の人は何かを食べるというより飲むのです。勿論、知人は僕がお酒を飲めないことは良く知っているのですが、それでも焼き鳥屋に連れていくところが凄いです。







●2014.09.16

もう秋ですね。早いな。この夏も暑かったですが、何とか仕事のリズムを壊さず、乗り切ることが出来ました。それでも仕事は牛歩ですが。



・10年近く愛用している自転車が、動力が車輪に伝わらなくなりこの半年余り乗れない状態でしたが、知り合いが壊れた自転車を見違える程綺麗にしてくれました。問題個所の修復だけではなく、半分割れていたペダルや破けていたサドルも新しくなりました。ギアのワイヤーも新しいものに取り換えてくれました。お陰で自転車は新品に近い状態に戻りました。知人いわく、これでまた10年は乗れるとのことです。お礼は写真集『BERLIN』とタイ料理でした。ただ自転車を修理に預けてから2、3か月も音沙汰がなく、どうしたんだろうと思っていた矢先に「いまメキシコに居るので、戻ったら修理をするからもう少し待って欲しい」と人づてに伝言が届きました。ちょっと呆れてしまいましたが楽しいです。伝言はメキシコの漁村で旅人に託され、バスや飛行機を乗り継いで吉祥寺に届きました。


 


・先月、自転車以上に長く愛用している時計が止まってしまいました。修理に出したところ、中の腐食が見つかり電池交換だけでなくオーバーホールが必要で、修理費用も結構な金額になると連絡が来ました。時計の状態を詳しく聞きにお店に伺ったところ、修理コーナーの横のラックにぶら下がっている新品の時計が目に入りました。見ると1000円とか2000円の値札のついた時計がずらりと並んでいます。修理を進めるかどうか迷ってしまいました。勿論、値段が値段ですから見た目は気になります。でも時間を見たり確認することだけは出来る。それでも壊れた時計を捨ててしまうと「大切な時間が消えてしまう」と思い結局オーバーホールをお願いしました。


家に戻りメールの確認の為にパソコンを開いたところ「モノを捨てられない人程、時代から取り残される傾向がある」と記事が出ていました。やっぱりなーと思わず記事を音読してしまいました。


 


・ベルリンのアンネさんから印画紙の情報がとどきました。


「私のお勧めはADOX "MCC Barytpapier "という印画紙で、とても良いです。素晴らしいグラデーションの幅の広さがありますし、とても繊細なトーンを表現できて、自然な色合いに表現できます。もっとも、AGFAの印画紙よりADOXの紙は白いですが。」



印画紙について、もっと調べたい場合は下記のアドレスをご覧になってください。


http://www.moersch-photochemie.de/content/galerie/beispielepapier



・インド、デリーのSandeepさんが関わった仕事の画像が届きました。ユニセフの活動の一環を記録した仕事ですが、インドを旅している気分になります。それに無性にインドのカレーが恋しくなりました。

http://www.iple.in/files/ckuploads/files/Polio_Book.pdf



・札幌で「表出する写真、北海道」展を見てきました。写真の歴史は北海道開拓の歴史であり、開拓の歴史は写真の歴史でもある。この様な意味のある展覧会に作品が招待されたことを光栄に感じた時間でもありました。個人的には細江さんや深瀬さん、操上さんのオリジナルプリントを見れて、幸福な一時を持つことが出来ました。


 




●2014.07.12


バタバタした日が続いていましたが、やっと一息ついた感じです。ワン・ビン監督の新作映画の公開に合わせたトークライブは、映画終了後の30分間という短い時間でしたが、
配給会社の代表の質問のお陰で緊張感のある良い時間が持てました。


ワン・ビン監督はドキュメンタリーの映画監督で、映画が完成した後も被写体というかワン・ビン監督のカメラの前に立った人たちは、映画の完成に関係なく普通にその後も日々の生活を繰り返しているわけです。ワン・ビン監督は人々の日常を被写体に選ぶということは「被写体との信義につきる」と言い切られた。で、同じように普通の人々にカメラを向ける橋口さんはどのように考えるか、と言った意味合いの質問を投げかけられました。作家にとっては恐ろしい質問でした。それに対して僕は「写真の存在はコピー文化で切り売りが普通にできる表現ですが、被写体の人格が守れないような仕事はしない。インターネット全盛の時代でも、拡散していくネット媒体には日本人シリーズなどの作品を載せることはしない、、、」と答えました。恐ろしい質問で「ふー」とため息をつきたくなりそうでしたが、なれあいのやりとりにならずに良かった。


新作「収容病棟」の映画を見ていて、三度ぐらい涙がでてきそうになりました。違う階の病棟で暮らす男女がお互いを求め合うやりとりには切なくなってきた。旧正月に面会に来た家族が入院している夫のために、「正月だから賑やかに楽しくしよう」とアイフォンで音楽を流すシーンには温かい気持ちになった。退院した一人の男性が実家に戻り、貧しい暮らしの中に自分の居場所はないと判断し、ひとり街灯のついた真新しい道路をただ歩いている姿には、誰に腹を立てていいかわからない感情が湧いてきた。


中国社会が大きく変わろうとしている時に、時代の流れから零れ落ちていく人々に気持ちを砕いているワン・ビン監督は素敵な人だと思います。現在は上海で新作に挑んでいるそうです。ワン・ビン監督はチェックのシャツが好きみたいで、紹介写真を見るとブルーのシャツが多いのに気がついたこともあり、僕もその夜はバイエルンカラーのチェックのシャツを着て行ったのですが、誰も気がついてくれませんでした。

 

少し時間が経ってしまいましたが、「ダウン症家族のまなざし」展での写真家でキュレーターでもある、イギリス人写真家リチャード・ベイリーさんとの対談は結果として申し訳ない流れになってしまいまいた。日本人同士でも難しい「被写体との距離の取り方、関係の持ち方」みたいなところに話が行ってしまいました。この写真展のテーマは、障害を持って生まれてきた子どもたちと私たち社会はどの様に向かい合い、関係を持っていくのか。障害に目を奪われるのではなく人間の部分と向かい会って欲しいという願いのこもった試みです。障害を持った子どもと一緒に生きることになった家族の葛藤や喜びを共有し合う機会としての場だっただけに残念な対談になってしまいました。対談のぎくしゃくは僕の責任です。


展示作品について個人的には、障害を持ったわが子を母乳で育てている子育ての様子を写した、マリア・デ・ファティマ・カンボスさんの作品や、フィオナ・イーロン・フィールドさんの作品「告知」で、生後間もないわが子を抱きしめカメラの前に立っているお母さんたちのポートレートには、戸惑いと喜び、覚悟が写り込んでいて胸が騒ぎました。


展覧会に合わせて雑誌『世界』のグラビアで紹介されたリチャード・ベイリーさんの作品「就労」は、障害を持った人々が社会の中で生きる誇りと喜びみたいなものが一枚一枚の写真から伝わって来ました。引き続きリチャード・ベイリーさんと日本の若いカメラマンが力を合わせて、このテーマと向かい会っていく計画がスタートするそうです。暖かく見守って欲しいと思います。

 

次の号の『世界』ではポーランド人写真家エヴァ・ヴォランスカさんの故郷であるグダニスクを撮った作品が紹介されました。これは東日本で起きた震災を受けて、何人かの海外の写真家に「あなたたちにとってのある日突然」を表現してみませんかという僕の呼びかけに答えてくれた作品の一つです。


エヴァさんの作品を『世界』で紹介するのは3回目になります。作品を発表することで、いくばくかの写真使用料が発生するわけですが、エヴァさんは原稿料が入ると、そのお金でフィルムを買い写真を撮って作品を送ってきます。エヴァさんだけではなく旧東ドイツ生まれのアンネ・シュバルベさんの作品もこれまで3回紹介しました。アンネさんは3回目の原稿料を元に自分で写真集を作りました。この数年はその一冊の写真集を持って、いまやヨーロッパ各地やアメリカでの写真フェスティバルの常連作家としての位置を築いているようです。今月もスイス、バーゼルとベルリンでの発表の案内が届きました。
二人の個人的な努力もさることながら、ヨーロッパ社会では有名無名に関係なく、芸術に対してリスペクトがあるので、生活が困難でも乗り切っていけるのだと思います。

 

話は飛びますが、印画紙や薬品を買いに新宿のヨドバシカメラに出かけましたが、まるで商品が届かないガランとした売り場みたいで、もうがっくりしてしまいました。がっくりというより、これから生きていく若い人たちはどうやって夢を築いて行くんだろうと、情けなさと同時に責任を感じてしまいました。僕はもうこの年齢ですから、少しずつプリントをしていくだけです。でもこれからの人たちは試行錯誤をしていかないといけないのに。酷い写真環境を僕らは残してしまいました。

 

http://www.fotoimpex.com

↑このお店はベルリンのハッケッシャーホーフの近くにあります。このお店で販売しているADOXの製品はAGFAが製造中止になった後に、同じ技術者チームにより創られた製品だと聞いています。他のメーカーの印画紙よりもAGFAに近い方向性を持っていると思います。例えば現像液にしても、AGFARodinalADOXAtonalは同じ製造法で作られています。ADOXの印画紙がまったくAGFAの印画紙と同じというわけではないと思いますが、近いクオリティーを維持していると思います。いろいろなタイプの印画紙がセットになったのもあるようなので、一度試してみて自分に会う紙を選ぶといいと思います。いまアンネさんに詳しい印画紙のデータを探してもらっているところですので、届き次第また皆さんに紹介できると思います。日本で写真感材を求めるのは困難な状況ですが、アメリカにも大きな通信販売のお店があります。少し面倒ですが気持ちがあればなんとかなっていくでしょう。

 

撮影を終えしばらく脇に置いていた、先の震災をテーマにした作品の写真集が決まりました。この秋には皆さんに見てもらえると思います。



 

●2014.05.11

一か月程まえから小鳥の囀りがいろいろな方角から聞こえてくる様になりました。若葉の季節になり、餌になる昆虫や青虫が増えているのだと思います。小鳥の囀りで目覚めるのはとても幸福なのですが、その代わりに僕の車のボンネットは鳥の糞だらけでちょっと困ってしまいます。


東京大学での麿赤児さん、小林教授たちとのセッションは和やかに終えることができました。冒頭、麿組の女性二人が首からプロジェクターを下げて左右に動きながら、麿さんの踊りを天井や壁に映し出すプレゼンテーションは格好良かった。


会場の壁や天井を麿さんが縦横無尽に動き回るその様は妖怪の様でもあり、地中の怨霊が目覚めて僕らに何かを啓示している様でもありました。


ちょうど一週間前に川崎に在る岡本太郎美術館で「岡本太郎とパリの仲間たち展」を見てきたばかりだっただけに、天井を走る麿さんと岡本太郎さんの作品が僕の中で重なっていくのが分かりました。


少し話は飛びますが「岡本太郎とパリの仲間たち展」は必見です。ピカソが写真を撮ったのかと錯覚してしまうようなブラッサイの作品や、ダリやカンディンスキーの作品が同じ空間で並列に見ることが出来るのはなかなか無いことのような気がします。


実は僕は岡本太郎さんと一緒に昔の平凡社で写真を撮られたことがあるのですが、その写真が見つけられなくてちょっと残念。岡本太郎さんは初対面の僕の前でも「芸術は爆発だ」と両手を広げられ、田舎から上京してきて写真を始めたばかりの僕は「なんだ、このオジサンは」と思ったことを良く覚えています。


岡本太郎さんが拘った日本や精神世界と、麿さんが求めているものは表現スタイルは違いますが、どこか共通するものがある様な気がします。

 
話を戻すと大学側の企画者が西洋を含めて60年代、70年代、80年代の初頭を「若者の時代」と位置づけていました。それを受けるような感じで僕のプレゼンは始まりました。企画者が話すところの「若者の時代」から零れ落ちている人たちの存在を語ろうとその場で決めました。そして80年代の作品『視線』や『俺たちどこにもいられない』、『17歳の地図』の作品を紹介しながら僕の中の「日本」を語りました。

 

海外で良く「神風、腹切り」をどう思うか?「舞踏」をどう思うかと聞かれることがあります。日本語でも説明するのが大変なことだけに、いつも説明に苦労しています。

 

神風、腹切りが語る日本。僕の田舎や、作品「日本人シリーズ」の中の日本。そしていま僕らが普段享受している西洋的価値観に裏付けされた日本。日本人シリーズを始めた1988年頃から「日本」について考え始めていたこともあり、東京大学でのセッションは意義ある一時となりました。




●2014.03.24

 先月、ピンチヒッターで通信制のスクーリングの為に京都の大学に出かけました。

これまでいろいろな場所でレクチャーをしてきていますが、通信制という社会人が対象のシステムだけに、一般大学と比べて学生さん一人一人の熱心さの質の違いと、20代から60代後半の人たちが混ざったクラスで、一つのことについて話すことの大変さを痛感させられてしまいました。


しかも3日間のスクーリングが終われば、皆さん自分の生活の場に戻ることになります。表現はもともと孤独な営みですが、それでも振り向けば隣に学友がいるのといないのでは気持ちの持ちようが違います。誰よりも僕自身がこのスクーリングが終わればサヨナラをしていく関係に戸惑っていたと思います。戸惑ったところで何かができるわけではないのですが、初日に皆の佇まいに触れたその時、この3日間は全力投球するぞ、と自分に言い聞かせて望みました。


当然学生さんたちは全員デジタルカメラでした。デジタル、アナログに関係なく表現を高めていくためには、自分の中の意識とどの様に向かい合っていくかが大切になってきます。消去、加工することが当たり前になっているデジタル文化の中で、振り返ることの大切さや足踏みする時間が大切であることを伝えるのに終始していたと思います。振り返る為には「消去」してはいけないといろいろな角度から喋り続けた3日間でした。


結果メチャクチャに疲れてしまった。退職後に勉強を始めた方たちは、これまで真面目に何十年間も働いて来た方たちです。真面目に働いてきた=一つの価値観が出来上がっている人たちになります。何かを掴むために勉強を始められた人たちだとはいえ、一生懸命働いてきた人たちにどこまで踏み込んで話をしていいものか迷いました。それだけにこれまでとは異なる関係の持ち方が問われた3日間になりました。


スクーリングが終わった翌日、古い知人と会うつもりでいましたが、とにかくスクーリングの疲れで身体がボーッとしてしまい友だちとは電話だけで済ませてしまいました。ただ知人は運営する施設の改築にとりかかっていて、僕と会うどころではなかったようです。それでも少しは京都を味わって戻ろうと思い、荷物をかついだまま鴨川を渡り八坂神社の向かいでお稲荷さんを買い、お稲荷さん屋の斜め向かいでしば漬けと千枚漬けを買い京都を後にしました。


実はスクーリングが始まる前日、大阪の鶴橋という街で韓国系の友だちとご飯を食べました。友だちとは30年来の付き合いになります。少し話が飛びますが僕の周りにはお金に縁遠い芸術系の若い人たちが多くいます。大阪の友達は僕や僕の周りで創作活動をしている皆の為に、年に何度もお肉やキムチなどの韓国食材を大量に送ってきてくれます。僕や僕の周りの皆が病気もせずへこたれず、気持ちも寂しい思いをしなくて済んでいるのは友だち家族の存在が大きいです。昨年末にも楽しい出来事がありました。


年末にいつものように大量のキムチとお肉が届きました。僕は周辺の皆に「肉が届いたぞ」と集合をかけました。テーブルの上に白菜、きゅうり、大根、海苔、ジャコのキムチを並べて、さあ肉を焼くぞと開いたところ焼肉用のお肉ではなく桜色をしたすき焼き用の霜降り肉でした。「一年に一度ぐらいはすき焼きを」という気持ちで送ってくださったそうです。僕らは口は焼き肉のつもりだったのでフェイントをかけられた感じでしたが、あまりに綺麗なお肉に「わあ、わあ」と感動してしまいました。その夜はキムチのトッピングだけの食事になりましたが、それでも贅沢な一時を過ごすことができました。新鮮なキムチはたまらなく美味しいです。実はその日から一週間後にすき焼きの為に再度、皆で集まりましたが、お肉を開いてまたびっくりで、時間がたったことでお肉が桜色のピンクから少し黒味がかった土色に変わっていたのです。変色したお肉を見てため息をついてしまいました。少し悲しく笑える話です。


友だちと知り合ったのは鶴橋の市場でした。『写楽』という雑誌の依頼で鶴橋の市場を撮りに出かけました。当時市場で働く人たちの大半が朝鮮半島からの潜水艦組の人だっただけに、写真なんてとんでもないという感じで僕は簡単に弾かれてしまいました。弾かれたからと言ってすごすご帰るのもしゃくなので、僕は一日中市場の隅に立っていました。ただ立っているだけでしたが、それでも市場のいろんなところから「兄ちゃん邪魔やで。」「はよ帰りい。」と言葉が飛んで来るのです。6、7時間立っていたと思います。寒さと疲れで意識が飛びかけていたとき、「兄ちゃん寒いやろう、こっちにおいで。」と声をかけてくださる人がいました。


僕はそのあと、ビールケースに腰かけ湯気の中でお茶とお餅をいただいたのですが、声をかけてくださった方が友だちのお母さんだったのです。その時からお世話になりっぱなしの30年ですが、今日まで付き合いが続いています。有り難いです。

 


                                                                                                      
●2014.01.30

このまま春が来るとは思えないですが近所の公園の梅や沈丁花はほころび始めてきています。何時でも雪が降ってもいいようにスコップを借りてベランダに置いて、タイヤもスパイクタイヤに履き替えたのに少し拍子抜けしています。


昨年は牛歩の一年だった様な気がします。


一歩進んで二歩も三歩も後退した感じでした。そして海外とのやり取りの難しさも再認識した一年でもありました。でも細々とではありますが双方の意思は途切れることもなく流れているので何とかなって行くと思います。


実は昨年末に鹿児島の同じ地区の小学校、中学校に通っていたお兄さんお姉さんたちと会う機会がありました。会ったと言ってもソフトボール部のキャプテンだった同級生以外は皆さん初めてお会いする方ばかりで少し戸惑い緊張してしまいました。緊張したとはいえ同じ水を飲み芋を食べて育った人たちばかりですからとても懐かしい時間を過ごすことが出来ました。


僕が生まれ育った地域は鹿児島の中心部から二十分ぐらい離れたところにあり、今でこそベッドタウン化していますが、昔は目の前に干潟の海が広がり、干潟の先には桜島が聳え田んぼや畑に囲まれたのどかな所でした。ある時などは朝礼の時に学校の裏山から飛び出した兎が校庭を横切り僕らの足元を走り抜けていったことも。秋になると昼休みに学校の裏山に入りアケビを探したり山芋を掘ったりして楽しんでいました。


僕の隣の席の方が「私の村では私が高校を卒業するまで電気が通じていなかった。」と教えてくださり驚きました。海と山以外は何にもない所でしたが同じ学区に電気が通じていない所があったなんて想像すらしませんでした。その方が育った村は「水樽」と書いて「ムッタイ」と読むそうです。水が湧くから人が棲みついたのだと思いますが集落は七軒だけで三世帯が農業、四世帯は漁業で生計を立てていたそうです。耕作地も狭くこれ以上世帯が増えようがなかったのでしょう。


漁業といっても素朴な漁法だったらしく昼間に松の木を海に沈め夜半に沈めた木の周りに網をぐるりと張り、船の上から沈めた松の木の中心部をめがけて石を投げ込んで魚を追い出す。毎日石を投げ込むわけですから「水樽」の漁師さんたちは背中の肩甲骨のあたりが異様に盛り上がっていたそうです。集落までの通学路なんてある様でなくて海の潮が引いている時は海辺を歩き、潮が満ちている時は山をぐるりと廻り一山超えなくてはいけなかったそうです。今の鹿児島の地図に記されている「水樽」の位置は間違っていると笑ってられました。


僕の家の近所に子守に来ていたという方が差し出された携帯電話に出ると、僕の家の一軒隣に住んでいた同級生からでした。今は結婚をして福岡に住んでいるそうです。彼女は中学卒業と同時に集団就職で東京に働きに出ていました。幼馴染の声を聴いたのは数十年ぶりのことです。僕らは空白の時間が無かったかのようにお互いに子どもの頃のまま「ちゃん」づけで呼び合っていました。



幼馴染は朝日新聞を読んだことと、僕の母の葬儀に出席できずに申し訳なかったと何度も何度も繰り返しました。子どもの頃僕の母に動物園や博覧会、美術館に連れて行ってもらったことを忘れていない。あの頃お母さんのお陰で恥かしく寂しい思いもしなくて済んだと涙まじりに話してくれました。たぶん動物園などには僕も一緒だったと思うのですが誰と一緒だったかは覚えていませんでした。彼女は母にお礼を伝えることなく別れが来たことを悔やんでいました。帰省したら必ずお墓参りに行くからお墓の場所を教えて欲しいと。お墓参りのことも嬉しいことでしたが、子守に来ていた方や幼馴染の記憶の中に母が生きて存在していることが何より有り難く嬉しかったです。


その日から数日して電話が鳴りました。「分かるね。元気しているね。」声の主はすぐに分かりました。僕の家の菩提寺の大奥さんで僕の幼稚園の先生からでした。「墓参りに戻ってこんといかんよ。」と先生にやんわり怒られてしまいました。


両親が二人とも他界していることもあり、もう故郷はこのまましだいに遠くなっていくかなと頭の隅でぼんやりそんなことを考えていた時期もありましたが、有り難いことに両親が存命だった頃より故郷とのやり取りは増えて来ています。


中学時代の番長が突然段ボール一杯のソラマメを送ってくれたり、野球部のエースが時々同級生の近況を教えてくれたりと有り難いです。帰省しても僕が生まれ育った頃とは地域はすっかり様変わりしてしまい道に迷うこともしょっちゅうですが、それでも帰りたくなったらいつでも帰る場所があるのだと思えるだけで生きる勇気が湧いて踏ん張れます。目を閉じれば頭の中に干潟の海と桜島が広がります。どんな困難な状況に直面していても小学校時代の同級生の姿や顔を思い浮かべると涙が出てくるほど心が穏やかになっていく自分がいます。


それはただ子ども時代が懐かしいということだけではなくて、小学校での出会いは対等だったからだと思います。素足の子も草履の子も靴の子も、服のボタンがちゃんとついている子もいない子も頭のいい子もそうでない子も、学校にお弁当を持ってこれる子も持ってこれない子も皆等しく同じ学校に通い小学一年生になれたからです。ただ残念なことに学年や年齢が上がって行くにしたがい人間関係の中に社会の物差しや価値観が入り込んで来て少しずつ関係性に変化が生まれていきます。それだけに僕にとって小学校時代の同級生は宝物のような存在なのです。たぶん故郷が故郷として僕の中に暖かく存在しているのは対等な人間関係が基本にあり人生がスタートしたからだと思います。


故郷のことを書いたのは故郷を追われた福島の人たちのことが気になって仕方がないからです。たぶんもう一生帰れなくなった故郷を持ってしまった福島の人たちは心の拠り所をどうしているのだろうか。僕は毎日のように吉祥寺の街に散歩がてらに出かけていますが、吉祥寺は先の震災は勿論のこと原発事故が起きたなんてまるで何事もなかったかのように華やいで何時も賑わっています。それはそれでいいことなのですが、街角を行き交う人々が意識的に原発事故を考えないように毎日過ごしているかのように僕には映ります。


それぞれ皆さんの故郷がまだ存在している間に文明の利器との付き合い方を今考えないと狭い国土の日本は消えてなくなるかもしれない。地続きの大陸で万が一のことが起きたとしても陸続きでなんとか逃げることが出来るでしょうが、海に囲まれた僕らは逃げようがない。直ぐに変えられないことでも諦めないで議論し続けることが大事なのだと自分に言い聞かせている毎日です。


 





・昨年末、知人の好意で富士山の麓にある雪に囲まれたガラス張りの家でローズマリーを使って焼き上げたチキンを食べながらクリスマスを過ごすことが出来ました。マリア・カラスの歌声が響き窓の外では野生のテンが姿を現し頭の上には満天の星空。お陰で一年を穏やかに終えることができました。



・マーマレードが無くなり困ったなと思っていた矢先に、松山から甘夏とレモンが届きました。これでまたジャムがつくれます。でもジャムが完成したらしたで、今度はドイツパンが恋しくなるから困ります。



・新聞を整理していたら政府広報欄にお世話になった方の名前を見つけました。新しい役職名を見てただ優秀だというだけではなく日々、真面目に努力をなさったのだろうなと感心しました。



・自然災害のニュースが余りに多い中、小笠原沖に噴火により生まれた新島は久しぶりに心躍る出来事でした。生き物地球紀行の島版だけに、週に一度ぐらいは島の様子を写真で知りたいと願っています。



・作品造りや体制を整えるために気をとられてしまい、何年間も失念してしまっていたのですが、作品集『視線』と『BERLIN』がごっそり出てきました。いま急いで郊外にトランクルームを探しています。このままだと作品に囲まれたホームレスになるのが現実になりそうなのでなんとかしないといけない。



・二月、三月、四月とレクチャー、講演、対談が予定をされていますので、またきちんと告示できると思います。



遅くなりましたが、APOCCともども今年も宜しくお願いいたします。




●2013.12.12


いつのまにか冬が始まっていて今年も残すところ僅か。

身体がぼんやりして季節を感じなくなっていたわけではなく、いつになく判断をしないといけないことが多くバタバタしてしまいました。

11月の中旬には福井からの帰りに新潟県の妙高高原の麓を走る高速道路で雪に降られてしまいました。まだ夏タイヤだっただけにこのまま高速道路に閉じ込められてしまうのではないかと足元は震え背筋が凍る思いでした。やっとの思いで雪道を通り抜けた後の身体は緊張と恐怖で固まってしまい、途中のサービスエリアでトイレに行くときの歩行はまるでロボットみたいにぎこちない感じでした。ただ雪に降られる前は天国の麓を走行している気分でした。

福井の永平寺を散策した後、高速に乗らずに白山の麓を走り福井から石川に抜ける山越えを選びました。このルートは日本人シリーズの撮影で何度も走ったことがあります。人を探し写真を撮るという目的ではなく目や意識を自由にさせて身体の喜びだけで車を走らせるのは久しぶりのことでした。小雨模様だったこともあり九十九折に重なる尾根が変わるたびに虹がかかっていました。虹の始まる場所を走り抜けたと思うとまた目の前の尾根の麓に虹がかかっている。文字通り虹のトンネルを抜けての走行でした。石川県に入り白峰地区にある、WOMANと太鼓の撮影でお世話になった「ダルマカフェ」で巨大なお萩も買うことが出来ました。お萩は日本海を見ながら食べました。そうここまでは極楽でしたが自然は本当に怖い。

福井詩祭の会では、スチルムービーを試みましたが、皆さんの好奇心に満ちた集中力をヒシヒシと身体で受け止めながらの朗読になりました。「こんなのは見たこともない、初めての体験」「画像や人が変わる度にいろいろ考えることが出来ました。一つ一つの間が絶妙で良かった」「これは抒情詩だと思った」さまざまな意見・感想をもらいました。朗読と映像の間に言及していただいたのは初めてのことです。芝居に影響を受けて始めた試みだけに嬉しい感想でした。

それより僕が感銘を受けたのは詩人の会に参加された皆さんの佇まいでした。顔は日に焼け身にまとう服も毛羽立ち質素で身体もがっちりした方が大半でした。長靴の方も何人かいました。補聴器をつけ指の節は僕の親指程に太くそんな指でテキストを持ち朗読をされる姿には感動すら覚えました。農作業の合間に言葉を編む。生きて表現するとはこういうことなのだと教えられた一時でした。ネクタイを締めて出かけて良かったです。経費等で福井の皆さんは大変だと思いますが、また違う内容のスチルムービーを持って詩祭に参加出来たらいいなと思いました。

四万十や松山では、日程に追われてしまいましたが、松山では中高生と一緒に朗読をできたのが良かった。それに僕に作品を見て欲しいと文化祭で展示したパネルをそのまま抱えてきた学生たちの作品展示が会場側の配慮で即座にスタートしました。せっかくだから作品を見てもらえばと生徒たちの背中を押した先生。段ボール箱にパネルを入れて運んできた生徒をみて展示の場を用意してくださったフリースペースを運営する人たち。ナイスな大人たちでした。

四万十では古民家を改装した民宿に泊まりました。土間をあがると囲炉裏が切ってあり、囲炉裏を挟むようにして寝室と台所に分かれていました。お風呂は五右衛門風呂でした。畳とは無縁の生活だけに荷物を置きに寄った時、畳を見ておもわずゴロンとしてしまいました。今回は時間の関係でただ寝に帰っただけでしたが次回は囲炉裏端でゆっくりご飯を食べたいと思いました。

ハンガリーから来日されたペトラーニさんとは良い時間を持つことができました。僕は地方に出かけていたこともあり最初と最後しかお付き合いすることが出来ませんでしたが、ペトラーニさんの表情がこれまで見たこともない柔らかい表情に変わっていたのが印象的でした。立教大学以外でもレクチャーの機会を持ちたいと連絡を受けたのが、来日される20日前でした。時間が限られているなかで東京、八丁掘にある日本写真学院、そして北海道大学の関係者が尽力してくださり場を設けてくださいました。そして久保元幸さんのプラチナプリントの現場である「アマナサルトの工房」も見学されました。

3週間という限られた滞在の中で充実した時間が生まれたのは招聘元の立教大学の対応があってのことですが、ペトラーニさんを迎えてくださった日本写真学院、そして北海道の人たち一人一人の思いやりとペトラーニさんやハンガリーに対するリスペクトが交流の基本に有ったからだと思います。

ペトラーニさんは元現代美術館の館長であり、現在国立ハンガリー美術館の現代部門の責任者です。そんな要職についていらっしゃいますがハンガリーはEU圏だとはいえ経済的に困難を抱えている国です。ハンガリーが持つ文化の蓄積に関係なくペトラーニさんが置かれている状況も決して楽ではないことを立教大学には勿論ですが、日本写真学院の方や北海道の人たちに最初にお伝えしました。それを受けてペトラーニさんと向かい会ってくださった皆さんに感謝です。ハンガリーそしてペトラーニさんと立教大学、日本写真学院、そして北海道の人たちと新しい関係が生まれることを願っています。

ベルリンのホテルBOGOTAはこの11月30日をもって閉鎖しました。詳しいことは中村真人さんのベルリン中央駅というブログで読むことが出来ます。僕は直前までマイレージを使いベルリンに出かけることを迷いましたが、BOGOTAというよりオーナーのリスマンさんとはこれからの付き合いが大事でBOGOTAが消えて無くなるという現実に感傷的になってはいけないと思い留まりました。

今後の連絡先についてリスマンさんとやり取りをする中で「僕は家を失ったのでこれから探さないといけない」と有りました。クリスマス前の街が一番華やぐ中での現実だけに言葉が見つかりません。BOGOTAの危機が明らかになった後、署名活動が起こりました。ベルリンは勿論のこと世界中でBOGOTAのことを気にかける人たちが署名をしました。

日に日に増えて行く名前を読みながらいつしか会ったこともない人たちに僕は思いをはせていました。リスマンさん家族も同じ様な思いだったのではないでしょうか。署名が増えたからといってBOGOTAやリスマンさんが抱える負債が少なくなるわけではないですが、署名された名前をなぞることで人の存在というか顔が立ち上がって来ることを感じた時に小さな勇気みたいなものが湧いてきました。連帯というと大げさかもしれない。でもどこかで同じ思いを共有する人がいる。インターネットで署名全体を把握できたことで署名という行為が持つ意味を始めて体感した気がします。

ですが目的人数に達してしばらくすると無情にも署名の部屋は消えてなくなりました。署名活動はBOGOTAの状況・ベルリンの文化状況を広く知らしめたのは確かなことですがなんか腹が立ち「くそ」という思いです。




●2013.9.23


 連絡をどうもありがとうございます。あなた方はお元気ですか?
時折ボゴタの署名の数を見ながら、早く十分な署名が集まるようにと思っています。名前を見ながらどんな人でどんな顔をしているのだろうとさまざまな想像をしていますよ。


 ボゴタの問題はベルリンに限らずグローバル社会では、至るところで起きていることの一つです。特にベルリンでは目を覆うほどです。クリエイティブであるかということよりも、コマーシャルが優先されているのが現実なのです。

 もちろん、リスマンさん一家のことが心配ですが、あなたたちが東京でそうやって応援してくれているのを知るのはとても良いことです、どうもありがとうございます。

 私はまた例年通り、これから一か月間メールも何も連絡がつかない母のところに行きます。
新しい作品にとりかかっていると聞きました。また長くかかりそうですか?作品を見れる日が来ることを楽しみにしています。

                                            ベルリンより


HOTEL BOGOTAは署名活動や人々の関心が届いたことで、建物の一部は残ることになったそうです。ですがリスマンさん家族はあの建物から追われるそうです。建物の一部が保存されたとしても、魂が排除された場所にどれだけ意味があるのか。

リスマンさん家族がどんなに素晴らしい人々だったとしてもこの経済システムの中では敗者にされていく社会。この社会システムの中で生きて暮らしている以上いたしかたないことかもしれませんが、やはり悔しい。

僕が身を置くアートの世界でも、とにかく大きな流れの中に身を置こうとしている人が特に若い人たちの中に増えてきたような気がします。

この現象は若い人たちを嘆き責めれば済む問題ではないかと思います。僕が30代のころは貧乏するのは怖くなかった。貧乏が怖くないというより、異なるリズムを持った人たちの意見や声に耳を傾けて受け止めてくれていた社会が存在していたという現実があったからです。誰も知り合いのいない東京に鹿児島から上京してきた僕が自分の考え思いを写真という形にしながらなんとか生きてこれたのは、紹介や推薦がなくても電話一本で向かい合ってくださった人々がいろんな場所に居てくださったから。別な言い方をすると壁は目の前に聳えていたが、いつもどこからか風は吹いていた。

23号前の橋口便りで迫田さんみたいに新しい価値観のもと移住をして新しい場所で生きている人が増えて来ているその先に日本は変わる気がすると書きました。実は迫田さんと一緒だった福井の池田町で僕が迫田さんの存在・生き方を知ったにも関わらず最初に言葉にしたのは「日本人シリーズで日本の様々な場所で人に会えば会うほど、一人一人個人の思いと関係のないところに今の日本社会が存在している気がしてなりません。感じるのは、今の日本を包んでいる空気は好きではないがもう流れるしかないという無力感です。東北を歩いている時には、ここから日本は変わるとヒシヒシと身体に伝わるものを感じました。ですが東北から戻るとまるで何事もなかったかのような東京と日本が目の前にありました。」とまったく真逆なことを僕は喋っていました。

・知人の好意により吉祥寺で暗室を使わせてもらっています。家から自転車で5分の場所です。まだフィルム現像道具しか移していませんが、それでも随分と部屋の視界が広がりました。暗室ではジョンレノンのCDを流し躍るような感じでフィルム現像をやっています。飛んでも跳ねても平気な作りの暗室なのです。

104日に四国松山では新しいコミュニティーづくりを模索している人たちと。
105日に四国四万十で、四万十川流域に暮らす人たちと一緒にワークショップの話やスチルムービーを試みることになりました。

四万十では村人全員が対象の試みになります。対象年齢が様々というのは、2000年にインドのデカン高原で村の人々の前で初めて試みたスチルムービー以来になります。
そして四万十川の廃校になった小学校ではベトナムの子どもたちの写真展も5日から始まります。松山も四万十も参加は自由です。(迫田司氏のホームページで確認できます)

四万十では四万十の天然ウナギと鮎をご馳走してくださるそうです。実は四万十から講演依頼の電話を頂く前日、アシスタントと夜ご飯を食べるお店を探しながら歩いていたところ、ウナギ屋の看板が目に留まりました。「今年は結局ウナギを食べれなかったね・・・今年は我慢だね」と看板の前でため息交じりで言葉を交わした後の電話だっただけに、もうそれは天からの声のようでした。そのことを話すと「食べれんで良かった、食べれんで良かった、天然ウナギが待ってます」と慰められてしまいました。

1024
東京池袋にある立教大学の公開講座で元ハンガリー現代美術館の館長で現在は世界各地の大学で講演授業をなさっているZsolt Petranyi氏の講演会が開かれます。講演の後に氏と対談をすることになりました。



●立教大学の案内文より

【公開講演会+対談】
「東欧と日本の文化交流の経験:社会ドキュメンタリーの観点から」

日時:20131024日(木)18302030
会場:立教大学池袋キャンパス、マキムホール(15号館)3301教室
講師:ツォルト・ペトラーニ氏(ハンガリー国立美術館現代美術部門主任)、橋口譲二氏(写真家)
料金:無料(予約不要)

<概要>
ベルリンの壁が崩壊して20年以上が経ち、世界は大きく変貌しました。東欧諸国でも日本でも、冷戦終焉後の変動する社会はさまざまな芸術表現を生み出しています。立教大学異文化コミュニケーション学部では、ハンガリーと日本を頻繁に行き来してきたハンガリー国立美術館現代美術部門主任ツォルト・ペトラーニ氏と冷戦期から東ヨーロッパの変化を長く見つめ続けてきた写真家橋口譲二氏を講師にお招きして、公開講演会と対談を企画しました。ドキュメンタリー写真に表現された両国の社会の姿を比較、考察し、東欧諸国と日本の文化コミュニケーションの重要性を語っていただきます。ふるってご参加ください。

主催/問い合わせ:
171-8501東京都豊島区西池袋3-34-1
立教大学異文化コミュニケーション学部(電話:03-3985-4824


1110
福井県福井市で福井市在住の詩人そして小学生の詩の朗読に合わせてスチルムービーを試みることになりました。追って詳細をお知らせできると思います。

久し振りの橋口便りがとても長くなりましが、これまで管理をしてくれていた伊藤綾子さんが生活の場が東京から地方に変わることになりました。そのこともありホームページの管理がしばらく滞りそうなためにこうして纏めて報告をさせていただきました。

この夏の尋常でない暑さと更新されない橋口便りを見て心配をされたのか「今話しておかないと後で後悔しそうで電話をしてみました、元気ですか」と昔からの読者の方から電話がありました。有り難いです。

電話と言えば、僕のデビュー作「視線」に登場してくれた二人から相次いで電話がありました。二人とはそれぞれ1980年に新宿の歌舞伎町と原宿の竹下通りで知り合いました。

一人は「ジョージさん元気、携帯を壊してどうしようと思っていたら、昔の携帯が見つかって電話してみた。ジョージさんも元気かなと。私はもうババアになっちゃったよ。でも元気よ。良かった連絡がついて。またね」と。そしてもう一人から「務めが終わってしばらく何もできなかったけど明日から福島で除染の仕事をしに行きます。福島に家も借ります。今度は国の仕事ですから。落ち着いたらまた連絡をします」。除染の仕事と聞き正直複雑な気持ちになりましたが自分を弾いた社会にも拘らず、社会や人々の為に役に立てるのだと弾む声に涙が出てきそうになりました。




●2013.7.21


BOGOTAの署名について資料を補足します。

HOTEL BOGOTA署名活動のサイト
https://www.openpetition.de/petition/online/das-hotel-bogota-soll-leben

※署名活動サイト(記入欄)の翻訳
Vollständiger Name(名前(フルネーム)) 名、姓の順で入れてください。
Postleitzahl Ort (郵便番号と都市名)
Straße Hausnr. (通り名・番地。例えば、世田谷区 桜堤ぐらいで問題ありません)
Email (Eメールアドレス) ※記入しなくても大丈夫です。ただ新しい情報を必要とされる場合には必須。

<チェック欄>
Anonym unterschreiben (匿名を希望する時にはここをチェック)
Informationen zu dieser und ähnlichen Petitionen bekommen
(この請願とその他の似たような請願についての情報を得たい人はチェックする)
Adresse mit dem elektronischen Personalausweis verifizieren
(住所が電子身分証明書(おそらくドイツ国内のIDのこと)のものと同じであることを証明する) 
日本人は関係ありませんのでチェックしなくて問題ありません。

最後に、国籍を選ぶ個所が名前を記入する欄の下にありますので、
カーソルでJapan(日本)を選んでください。

友人の天野太介さんがBOGOTAを撮影していました。




























●2013.6.30

約一か月程前に、ベルリンの中村真人さんから「HOTEL BOGOTAがこの秋で閉じることになりそうです」と連絡が届いた。エッと思いつつもなんとなくどこか頭の隅で予測するものがあったのか驚きは意外に小さいものでした。その代わりに何処に向けていいのか分からない怒りみたいなものがこみ上げてきました。

一年程前にホテルのこじんまりとした中庭でオーナーのリスマンさんとコーヒーを一緒に飲んでいた時でした。「ホテルの写真は撮ってない?」、「写真は撮っていません」と答えるとリスマンさんは、「ここはホームなんだね」、「いつMr.橋口の写真をこのホテルで見ることができる?」、「僕の展示よりも他で機会のない人を優先してあげてください」、「そうだったね」と、短いやりとりを交わしたことを思い出した。リスマンさんは椅子に腰かけたまま顔をあげて中庭に面した部屋の窓を何かを確かめるかの様にゆっくり見渡し、そのあと視線を靴先に落とされた。その時は少し疲れてられるぐらいにしか思わなかった。

リスマンさんはホテルの仕事の他に時間単位でほぼ毎日サポートや援助を求めて来る人たちとの面談に追われて忙しくされていた。僕が中庭に居ることが分かると何時もは水かコーヒーを運んで来てくださるだけで椅子に腰を降ろされる様なことは殆ど無かった。リスマンさん自身が忙しくされていることに合わせて僕の思索の時間を邪魔したくないという配慮からだった。

それだけに普段と違うリスマンさんの様子を見てどうしてあの時にリスマンさんの変化に気がつかなかったのかと悔やみます。BOGOTAと出会ってからこの20年余り、ホテルで働いている人たちは殆ど変わることがなかった。だけどこの一年半程前から、フロントで働く人や朝ごはんをサーブしてくださる人たち、ルームメーキングの人たちの顔が少しずつ変わって来ていた。今思うとその頃からホテルを取り巻く環境はじわじわと逼迫していたのだと思います。小さな変化の先にあることに気がつくべきでした。

BOGOTAを巡る詳細は何時か中村さん自身のブログやお仕事等で報告してくださるかと思いますが、大雑把に言ってしまうと89年にベルリンの壁を崩壊させてしまったグローバル革命の波がとうとうBOGOTAまで押し流そうとしているということだと思います首都機能が整備されるのに合わせて新しいホテルが次々にオープンしたことも影響しているのでしょう。

そして、ホテルの近くを走るクーダム大通りは世界の有名なブランドショップが数キロも軒をつらねる通りに変貌してしまいました。 クーダムを見ているとドイツのお金持ちを相手にというより、旧ソ連・東欧圏のお金持ちを相手にするのだろうなと勝手に想像したりしています。旧東欧圏の人たちが歴史的な意味合いからパリやロンドンではなくてベルリンを目指すというのはなんとなく分かる気がします。子どもだったころ僕の地区の人たちが、鹿児島で意識する都市は東京ではなく大阪でした。ブランドショップだけではなく、旧東ベルリン地区からC/Oベルリンを始め主だった写真ギャラリーが BOGOTAから歩いて15分のZOO駅の向かいにあるベルリン写真美術館の周辺に移り始めているそうです。しばらく前にベルリン日独センターの文化部の方からコンテンポラリーアートを扱うギャラリーと写真ギャラリーのすみ分けが始まったようですとお便りをいただいたことを思い出しました。

僕が重宝していた靴屋で、少し色あせたり表面が太陽の光で焼けたりして左右の色が絶妙に違うB級品を扱う靴屋がBOGOTAの近くにありましたが、靴屋とその両脇のお店も一緒に閉じて郊外に引っ越したそうです。そこで暮らす人々の思いに関係なくベルリンの街の再編が確実に進んでいるようです。(今日の新聞に偶然にもベルリンの不動産バブルの記事が出ていました)


アコーディオン式のドアを開けて乗り込むエレベーター。暖房が入り空気が乾燥するのに合わせてパリパリと音が鳴るフローリングの床や廊下。寒い冬の朝、食器とスプーンが擦り合う音が静かに響きあう厳かな雰囲気が漂う朝食ルーム。各フロアーに用意されている読書ルーム。僕はヨーロッパ社会が持つ簡素で上品な文化の一つをHOTEL BOGOTAで学んだ。

20年前のあの頃数か月間、僕は撮影から戻ると一台の電気コンロを使いホテルの部屋でご飯を炊き味噌汁をつくりお金を節約しながら体力と気持ちをコントロールしていました。

HOTEL BOGOTAと出会っていなければ作品「BERLIN」も「Hof ベルリンの記憶」も間違いなく質の異なる作品に仕上がったと思います。

街は生き物で移り変わることは自然なことですが、リスマンさんの家族みたいに国籍・経歴・評価に関係なく若い芸術家を応援し続け、自ら設営などで汗をかいてこられた人たち家族が資本の思惑で生活が壊されて行くのが悔しいです。

BOGOTAと日本との関係についてですが、5年程前からホテルの2階~5階にかけての吹き抜けを使わせてもらい日本人若手の作品発表の場として開放していただいています。

吹き抜けでのパフォーマンスを試みるに当たり「日本人は公の場でのマナーに欠けている人が多いので不快なことも多々ありますが、未来を夢見てみませんか」とリスマンさんに提案をしてみたところ「このHOTELが役に立つのなら喜んで」と。それ以来今日までリスマンさんとHOTEL側は設営・オープニングの費用・展示作品の管理を引き受けて来てくださっています。この2月には6年目に入るにあたり5年続けたことで見えてきた問題点や課題を基に新しい体制をつくり直しましょうとリスマンさんや中村真人さんと話したばかりでした。ただこの時のやり取りの後に、ちょっとこれまでとは違うニュアンスを受けたことを覚えています。ホテルの写真を撮ってないかと尋ねられた時のリスマンさんを思い出すべきでした。

この3月には新しいオープニングを迎えました。

中村さんが届けてくださった資料によると、この3月には債務不履行が顕在化していたようです。そんな状況にも拘わらず設営やオープニングを滞りなく開いてくださいました。ただオープニングの挨拶でリスマンさんはクーダム大通りに忍び寄る経済的な変化と吹き抜けでの展示の経緯についてしみじみとした感じで話されたそうです。

この先BOGOTAがどの様に推移して行くのか想像つきませんが、リスマンさんとはHOTELの存続に関係なく今まで通りお付き合いができればと思っています。

お金ってなんなのでしょうね?
お金は本来大切なもので僕らの暮らしの中で無くてはならない大切な存在なはず。お金は価値観や宗教の違いを超えて人々や体制の異なる国々を繋ぐことができる存在。お金を文化と置きかえてみたらどれだけ繊細で大切なものか分かると思います。

その大事な存在であるはずのお金が人間の無責任な存在として都合よく使われ始めて随分長い歳月が流れた気がします。人間の欲望を正当化する為の存在としてのお金と言いかえることもできます。

僕らが生み出したグローバル経済のうねりを修正することはもう不可能なのでしょうか。

ベルリンに行く予定のある方はBOGOTAを使ってあげてください。古いホテルなので不便な面が多々ありますがお金では買えない時間が流れているホテルです。

下記のサイトでBOGOTAの現況が報告されています。(中村さんが届けてくださいました)


HOTEL BOGOTAに関するニュース記事
http://www.bz-berlin.de/bezirk/charlottenburg/traditions-hotel-bogota-steht-vor-dem-aus-article1675338.html

HOTEL BOGOTA署名活動のサイト
https://www.openpetition.de/petition/online/das-hotel-bogota-soll-leben
↑ベルリンの文化関係者が中心になりHOTELを残す為の署名が始まりました。ノーベル文学賞を受賞されたヘルタ・ミューラーさんもBOGOTAの存続を願って署名されています。このようなHOTELが残って欲しいなと思う方は日本からも署名活動に参加できます。


良いニュースです。

・中村真人さんの「素顔のベルリン」がこの夏増刷されて3刷りが出るそうです。

・一時製造中止になっていたAGFAの印画紙とJOBOの現像機の生産が復活をしました。
JOBOの現像機ですが、最近フィルム現像の時にボンヤリすることが増えたこともあり、知人の助けを借りてフィルム現像機を手に入れました。これで6×6版のフィルムはいっぺんに8本。4×5サイズで10枚フィルム現像ができます。できるというより滞っていたフィルム現像がはかどるかと思います。

・千葉で有機農業を営んでいる知人夫婦と偶然吉祥寺の街で行き会いました。楽しかったのはたまたま3人とも同じドクターマーチンの靴を履いていて、街角でお互いの靴を褒め合ってしまいました。別れ際に思い出したかのように知人が「ゴーヤチャンプルを作る時に豆腐の水抜きをちゃんとしていますか」と。ありがたいです。

・先の橋口便りで四万十河の鮎の引っ掛けに触れました。
たまらなく釣りがしたいというか、魚がいる環境に身を起きたくなり、YouTubeで渓流釣りを検索していたところ鮎の引っ掛け漁の映像が見つかりました。鮎やウナギの裁き方の動画まであるのには驚きました。

池田町でのことは次号で。






●2013.5.25

先の連休の初め、福井県池田町に23日の日程で合宿型セミナーにパネラーとして呼ばれました。パネラーは僕の他にもう一人、四国高知県の四万十川流域にある小さな集落に住み田んぼをやりながら地域に根ざしたデザインの仕事をなさっている迫田 司さんでした。迫田さんの存在や営みは風の便りで聞いていただけに、この様な形で会えることを楽しみに池田町に向かいました。


僕は新幹線と在来線を乗り継ぎ池田町に入りましたが、迫田さんは松山―羽田―小松と飛行機を乗り継いでの移動でした。

迫田さんのプレゼンテーションは3日間とも驚きと発見の連続で楽しく充実した内容でした。地元の農産物に商品性や付加価値を見出して行く営みも興味深かったのですが、温めた左手をマムシの前にかざし、右手で横から首根っこを押さえるマムシの掴み方だとか、鮎の引っ掛け、鹿の裁き方だとか、ウナギを竹串に通さず焼くといかにウナギの身が縮むかとかいった話に心が躍りました。

迫田さんはデザイナ―としてのお仕事をなさりながら、地域と外の世界を繋いでいました。

四万十に移住をして10年目にやっとその谷の一番上にあり森に戻りかけていた休耕田を村人から貸してもらえたそうです。谷で空に一番近い田んぼだと形容されていましたが、別な言い方をすると谷で一番不便な場所だとも言えます。

迫田さんは地域の文化や暮らしに敬意を払いながらも、100%地域に迎合することなく時には村の人々に頭に来たり時には笑い飛ばしたりしながら村人を誉めおだてながら、村人が培ってきた生きる知恵を学び自分のものにされていました。迫田さんの他にも四万十川流域には日本各地から移り住んで来た人たちがいます。迫田さんはそんな仲間たちと自分たちのイズムを四万十での暮らしの中に具現化させていました。迫田さんの報告を通して若い人たちの生産性を伴ったしなやかな姿に心が躍るとともに「こういう人たちが生きた後に新しい日本が確実に生まれるな」と勇気づけられる思いでした。

迫田さんたち以外にも日本の様々な場所に移り住み自分たちの暮らしを実践している人たちの存在を僕は知っています。東京や世界の都市を見ているとグローバル社会に根ざした一つの物差しが強固に社会と生活を支配していますが、「東京」から一歩外に出ると日本は確実に「東京」と「ミニ東京」の間にある地方の隙間で変わり始めている気がします。

僕もパネラーの一人だけに、本当は迫田さんの話を聞き僕の考えを返していかないといけない立場だったのですが、迫田さんの報告の中についつい自分の20代の頃のことが重なってしまい深く考えさせられました。そしてもう一つの生き方を探し求めて日本の隅々に移り住んでいった旅仲間のことが頭をよぎりました。

当時はアメリカから飛んで来たサブカルチャーに刺激を受けて歩きだしたところまでは良かったのですが、現実は「大きく立ちふさがる日本」を目の前にして理念が先行してしまいほぼ毎日喧嘩をしていたような気がします。当時は地域や自分たちと価値観が異なる人々に寄り沿い生きるという感覚が欠落していました。欠落というよりみんな余裕がなかったのだと思います。自然体で生きたいと願いながらも自己顕示欲が先走っていたような気がします。(続く)





●2013.4.29

スーパーの地下でインスタント食品のごまあえの素を見つけた。ごまあえも簡単に作れる時代なんだと少し驚いた。そして子どもの頃、母が土間ですり鉢を使いごまを擂っていた光景を思い出した。


マニラから3時間程離れた山村で暮らす知人にごまあえの素を送ってあげようと思い、村の市場でオクラやインゲンが手に入るか尋ねてみたところ「インゲンもオクラも買うことができます。特にオクラはフィリピンから日本への輸出作物の一つです。ただ、日本で食べるオクラと違い、こちらの人はできるだけ大きくしてから収穫するせいか、とても筋張ったオクラです。日本への輸出用のものは7センチ以下で早朝に収穫しているそうです。直ぐに大きくなってしまうようで、収穫は時間との勝負というのを日系のフリーペーパーで読んだのを覚えています」と便りが届いた。

フィリピンからの便りを読みながら、僕が小学生の頃のことを思いだした。鹿児島では柔らかい産毛の生えたオクラを千切りにして醤油をかけて生で食べるのが基本で、「オクラ」をカレーやシチューに煮込んで使うと知ったのはインドでカレーを、ベルリンでトルコ料理を食べてからです。余談ですが醤油もお味噌も祖母の手によるものを食していました。前にも一度話したが僕の家の野菜畑は通学路の脇にあったこともあり、学校の行き帰りに朝晩畑の様子を見るのが僕の日課の一つだった。僕が子どもの頃は「オクラ」は今ほどポピュラーな食材でなかったことに加えて朝と夕方では目で見えるかたちで大きさが違い、成長の不思議を目の当たりにできる作物だった。クリーム色がかった黄色いオクラの花が夕闇の中で浮かんでいる様を今でもよく覚えています。

オクラの表面に生えている産毛がなくなると一晩で筋張り硬くなり食べにくくなることが分かっていたので、ある長さに育ったオクラを見つけると祖母が収穫し忘れていると思い学校帰りにもいで帰った。でもそれは「種様に残したオクラ」ということが何度かあった。祖母の晩年は視力が弱まり長年の農作業で膝も悪く杖なしでは歩けなかったが経験と知識だけは病に倒れて亡くなるまで衰えることは無く、風や雨、雲の様子、畑や田んぼの隅々まで把握していた。


畑で野菜を朝晩眺めていると野菜語が聞こえてきたりするように、海辺で暮らす人たちも朝晩肌身で感じることで天気予報から街で暮らす僕らにはキャッチできない潮や海の中の様子を掴んだり、海を見ているだけで気持ちが癒され感情の芽生えとの出会いが生まれていると思う。祖母が肉体は衰えても脳が機能し続けていたのは自然に寄り添いながら生きていたからだと思う。

実は先の橋口便りで被災地で気になったことを一度書いて大きく削除したことがあります。その理由は久しぶりの橋口便りで「偉そうに」と受け止められるのは嫌だなと思ったからです。ですが「ごまあえの素」を見つけたことで「オクラ」のあった頃の暮らしを思い出しやはり改めて触れることにしました。

被災地で次の大津波に備えるために、高台移転とより強固で高い堤防造りが復興事業として進められているのを目の当たりにしてちょっと違うなと思う自分がいます。高台移転は漁師や海辺で生まれ育った人たちから魂の源を切り離すことだし、強固な堤防は自然と人間界の気を分断してしまう。多くの人の命や暮らしが奪われて無くなっただけに死や悲しみを無駄にしないためにも、もう少し自然の中で活かされている自分らの暮らしの有り様を見つめ直しても良かったのではと思う自分がいます。安全をとるのか自然との関係を考えるのか難しい問題です。でもどう努力工夫しても自然にはあらがえないことを先の震災と津波は教えてくれた気がします。かといって何もしないわけにはいかないので難しい。

北海道の礼文島で中学を卒業すると同時に漁師になった17歳が「春が来て何時も思うのはよしここからまた今年もやり直せる。季節の中で春が一番好きです。去年一年間どんなに漁が悪くても、春が来て氷が融ければまた新しくスタートできる。春はどんな人にも平等に来るから好きです」このような季節の感じ方を特に福島の人たちは持てなくなったのですよね。僕は地震が起きる度にまた原発にヒビが入るんじゃないかと心配でしかたがない。

・先の橋口便りで山形のお蕎麦屋さんが一月末でお店を閉じることをお知らせしましたが、複数の人たちから「このような社会情勢だから、お店が回らなくなったのですね」という質問が届きました。実は僕も案内をいただいた時に同じように受け止め「これは行かないといけない」とかけつけたのですが、知人いわく「自分で定年を決めたのです。これから写真を撮ります」と大きな三脚に僕が日本人シリーズで使っているペンタックス6×7と同じカメラを2台も買ったと見せてくださいました。そして僕のプリントには「ゴミの跡がないけどどうやっているのか」と質問も受けました。本気で暗室作業にもトライされるようです。僕はフィルム乾燥は空気中の埃を避けるために洋服を収納するためのファンシーケースをフィルム乾燥専用に使っています。

・二人の方が新しくAPOCCの会員になってくださいました。一人の方はベルリンで暮らす方で知人を介して鶴の折り紙と一緒に30ユーロを届けてくださいました。もう一人の方は「社会人一年目が終わり、自分が稼いだお金で少しでも身近にお役に立てればいいなと思い、会員になることを決めました」とメモが添えてありました。この先どうしようかと思い悩んでいると必ずこういう人が手を挙げて下さるのですよね。自分の作品に集中したいのでAPOCCを閉じますと言っても誰も怒らないと思うのですが、新しい人たちにAPOCCを手渡せるまでもう少し頑張ってみたいと思います。頑張るというか継続できる方法を模索してみたいと思います。APOCCもミトローパも仕切り直すつもりです。そして本当に食えなくなったら友だちのカフェで働かせてもらうことになっています。その友だちが楽しいのは僕が働く時には余計なものはいっさい出さずにコーヒーだけにするとか、あと僕の時給をどうするかと今から悩んでくれているところです。友だちは有り難いです。

・作品集「BELRIN」と「Hof ベルリンの記憶」の切っ掛けというか、ベルリンで活動する機会を準備してくださった文芸春秋の編集者の方と、TBSで僕の番組を30本余り、映像化してくださったカメラマンの方がこの3月で退職と配置換えがあり、久しぶりに四谷と新橋で食事をする機会を得ました。退職というのは真面目に生きた人の証なようで僕には眩しい言葉でした。TBSで当時一緒に悩みながら戦った皆さんそれぞれがとても責任ある立場に就いてられて、ついつい自分の今を返り見てしまいました。



四国松山から届いた甘夏で作りました





●2013.3.17

長いこと橋口便りが滞ってしまいました。

昨年夏が始まる前から今日までのこの数か月間というもの、あの日の出来事を東日本でただ大きな自然災害が起きてしまったということだけで片づけてはいけないと思い、時間の許す限り被災地を車で行ったり来たりしていました。

タイヤも冬タイヤに変え、女川で壊れてしまった靴の代わりにこれからまた30年近く履けそうなワークブーツも新しく手にいれました。手に入れたというよりサンタさんが届けてくれたのですが。ただせっかく冬タイヤに履き替えたのに、僕が被災地に入る度に雪はどこかに消えて無い。あるとき余りの雪の無さにスパイクタイヤに雪の感触をと思い、休息もかねて蔵王温泉を目指しました。カーナビに宿の情報を入力してナビの案内通りに車を走らせていたところ、気がついたらスキー場のゲレンデに出てしまいスキーを履いた人たちに車を囲まれてちょっと焦りました。

あの日、大勢の人たちの命と様々な暮らしと引き換えに津波と自然は私たちに何を伝えたかったのだろうかと、瓦礫が片づけられた更地を歩きながら考え続けて来ましたが、幸いにもなんとか一つの気づきを得ることができた気がします。気づきを普遍化することで、あの311日に起きた出来事を地球の様々な場所で生きる人たちと共有できるのではと思い始めています。

ただ福島の相馬・南相馬・飯館村と僕でも入れるところには足を運んでいますが、他の被災地の足元で感じることができた息吹や鼓動とか、何にも音が聞こえてこないんですよね。福島は時間が止まってしまいましたが、他の被災地は復興が動き始めたこともあり撮影をここで止めた。これからは作品を纏める作業に入ります。

雑誌「世界」のグラビアについて報告が遅くなりました。

前に触れた様に世界のグラビアを公募制に切り替えて10 年の時間が流れました。10年という歳月は止める切っ掛けはともかくとして区切りをつけ新しい価値観、視座を持った方にバトンタッチして行くにはいい塩時だと思いました。

いろいろと思うことは沢山ありますが、先のグラビアについて報告を述べてから随分と時間が経ってしまったことに加えて現実に今もグラビアは新しい人々と新しい作品を迎え着実に新たな「世界」が生まれ始めています。その現実を踏まえてこの様な場で触れることは止めにしたいと思います。スミマセン。

一度ドイツの高校生に「貴男はドン・キホーテだ」と言われたことがありましたが、そうかもしれないなと思う自分が居る片隅にエゴイスティックな利害や権威におもねる様な生き方を選ぶよりはドン・キホーテだと思われる方がまだましかなと思う自分の方が強いです。僕は作品をセレクションするだけで、応募作家に会うことありません。一度「HOF ベルリンの記憶」の写真展会場で背の高い30代の男性に声をかけられたことがありました。名前を名乗られて話かけられたのですが、僕の目の前の男性がどういう人か分からずちょっと戸惑いました。彼に自分は写真家を目指していることと、作品の内容を告げられてそこで初めて僕の中で目の前の男性がシンクロしました。

彼は僕の顔を見ておもむろに話し始めました。「作品を選んでいただいて本当に有難うございました。世界に応募した頃は結婚を控えていたこともあり、写真を続けるかどうか迷っていた時期でした。でも選んでいただいたことで、もう少し頑張ってみようと続けることにしました。でもあれから随分と時間が過ぎたんですけど、選んでいただいた作品を超えられるものが作れていないのが今の僕の現状です。」彼が僕に何を伝えようとしているのか、そのことの重さと温かい気持ちはすーと僕の身体の中に入ってきました。

僕は座らないかと会場のソファーを勧めました。僕が腰をかけると彼はその横に座り、大きく一つため息をつきました。何か長年の宿題をやっと終えた後みたいな感じでホッとしたらしく、みるみる彼の顔の表情が柔らかくなって行くのが伝わってきました。腰かけた後は、僕らは殆ど言葉を交わしませんでしたが、僕らの周りにはずっと遠い昔から知り合いだった様だと錯覚するぐらい自然で柔らかな空気が流れていたような気がしました。

ベルリンやケルンで性差別や民族差別を受けながらも、工場で働きながら今も作品を作り続けているポーランド人写真家がいます。見るからに日々節約に節約を積み重ねながら作品を作っていることが伝わってくる彼女にある日一度、「どうして写真活動が続けられる?」と尋ねたことがありました。すると彼女は「貴方が私を見つけてくれたから」と横に置いたカメラバックの中から布に包んだ「世界」2冊を取り出して見せてくれました。

彼女は僕と出会う前にすでにハンガリーやポーランドの公の美術館で写真展を開いている程の作家です。そんなキャリアの持ち主の彼女ですが、作品が招待作品として2号に渡り掲載されたことが彼女のアイデンティティーの一つで、生きる上で大きな支えになっているようです。(応募作家とは会いませんが招待作家とは彼女に限らず面談の場を持って来ました)

彼女は「世界」に作品を発表するまでは8×10という大型カメラを使っていました。
「世界」からいただいた原稿料で日本製の中盤フィルムカメラを買ったと見せてくれました。

ヨーロッパには中盤カメラでハッセルブラッドやローライフレックスという世界の名機がある中であえて日本製カメラを選んでくれた心使いが嬉しいです。

写真展会場に自分の思いを伝えに来てくれた青年や、掲載誌を布に包んで持ち歩いているポーランド人写真家の両脇からいろいろな人々の声が聞こえて来る様な気がします。

僕自身を含めて5年後10年後にみんなが写真を通して社会と関わっていられるかと想像すると、かなり厳しいものがあります。それだけにたとえ一瞬一時期だとはいえ、個々の作家のキラキラした時間に立ち会えたことはとても幸福だったと僕は受け止めています。

ベルリンのHOTEL BOGOTAの吹き抜けを使い、若手日本人作家の作品を発表する試みも今年で5年目を迎えました。この3月にまた新しい作品が披露されます。近いうちにベルリンから新しい作品が届くかと思います。6年目からは新しい体制で臨むつもりです。




僕にポラロイドカメラで撮ることの楽しさを教えてくださった、
山形県新庄市のお蕎麦屋さんから閉店の連絡があり、被災地に行く途中に立ち寄りました。
お蕎麦を食べた後、蕎麦屋のご主人特性の「プリン」が出てきました。



営業最後の夜にポラロイド写真を使った作品スチルムービー「17歳」を
関係者だけを前に朗読上映させてもらいました。

ただ朗読する「
17歳」に登場するお父さんが見えていたために、
その方の思いを意識しすぎたのか感情がこみ上げてきてしまい朗読が途中で中断してしまいました。



                                          写真 柿崎卓美






●2012.12.2

先の連休を使い、福島に出かけてきました。強制非難が解除された飯館村から南相馬に入りました。山間の小さな村 飯館村は、山は色づき何事もないかのような佇まいでした。紅葉に彩られた山々は本当に綺麗でした。

この村で1988年に二人の17歳を撮影しています。その時「将来は酪農家になりたい」と農業高校に通う彼ら二人は話ってくれましたが、この村の何処かに彼らの夢の場所があるはずなんですよね。

南相馬の原町の海辺で、もしかしたらと思い田んぼの用水路を覗きこんだ時でした。僕が田んぼの畔に立った瞬間、水の中でさっと動くものを見つけました。黒い影は一目で鮭だと分かりました。先の津波で壊れた水門から田んぼの用水路に入り込んでいたのです。僕は鮭の姿を見た瞬間もう嬉しくなり、田んぼの土手を人間の陰から逃げる鮭を追いかけるようにして一緒に走ってしまいました。卵を産み付ける場所を探していた鮭にとってはいい迷惑だったと思います。でも間違いなく、用水路も田んぼの土手も汚染されているのですよね。

何にも知らないまま汚染地域に子孫を残しに戻ってきた鮭がとても愛しく感じました。そしてそんな鮭が不憫でなりませんでした。

福島で出会った13歳の少年が「僕は早く選挙権が欲しいです」と強い口調で通りがかりの僕に自分の意思をぶつけて来ました。日本の隅々にきっと同じような思いでいる少年少女が大勢いる気がします。新しく「日本未来の党」ができて良かった。

「世界」のグラビアについて触れるよりも、福島の13歳の少年の言葉を先に届けないといけないと思いグラビアについては先延ばしにしました





●2012.11.24

このところ東北の被災地に出かけることが多くなっていたために、橋口便りが延び延びになってしまいました。被災地に入るまでの移動費(高速料金+ガソリン代)がもったいないために、気力かフィルムのどちらかが無くなるまでは被災地で過ごすようにしています。


今回は途中で一瞬気が抜けてしまい、フィルムの交換作業中にフィルムを感光させてしまうという失態を犯してしまいました。幸いというか仙台市が近いところにいたために、仙台市のカメラ量販店で4×5のフィルムを手に入れることができ、ことなきをえました。(東北の写真愛好家の方にフィルムが置いてあるお店を電話で探してもらいました)。そして街に出たついでにシアトル系のカフェで気分転換もかねて一休みしましたが、水が違うのか吉祥寺で飲むコーヒーに比べて味に濁りもなくストレート感があり美味しかったです。

宮城県の女川で33年間履き続けてきた撮影用の靴底が完全に剥がれてしまいました。45年前から何度となく接着剤で補修を重ねて履き続けてきましたがとうとう寿命が尽きてしまったようです。これでまた出費がかさむのかと気分が滅入りそうになりましたが、靴底が割れて剥がれてしまったちょうどその時は、瓦礫が片づけられ運動場みたいに広々とした海辺の更地を「誰かに会えるかもしれない」と歩いていた少年二人と知り合い、一緒に歩いている時でした。二人とも先の震災で複数の家族を亡くしていました。

中学2年だという二人は僕の意思と少しずれた感じでパタパタと音を鳴らしている足元に遠慮がちにチラチラと視線を送りながら、肩をぶつけあうようにしてクスクス笑っていました。その姿は