HASHIGUCHI George

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橋口便り
橋口便り 


●2016.05.19

夏が始まりましたね。

2日前に3年以上履きっぱなしの冬タイヤを夏タイヤに付け替えたところです。春が来る度にタイヤ交換をしないといけないと思いつつも、気持ちに余裕が無く、冬タイヤのまま車を走らせていました。

 

近くの公園で太陽に当りながら、ふと熊本でテント暮らしを与儀なくされている人たちの生活を想像してしまいました。

20代のころテントを担いで夏の南西諸島の島々を転々としていたことがあります。

日が昇ると、もうテントの中でじっとなんかしていられない。自然災害だけにしょうがないのか、と思いつつも被災して家に入れない人たちが気の毒でなりません。何か出来ることをと思いつつも、駅前で街頭募金を呼び掛けていた学生さんらに、募金をするのが精一杯の行動になります。

 

それにしても阪神淡路大震災、長野や中越の地震、東日本大震災、そして熊本と、自然災害が普通にあちこちで多発するような国土の上に建つ原発の存在が恐ろしいです。

 

このホームページも閉じる方向でいますが、閉じるなら今このタイミングなのですがAPOCCでお世話になった方々に、お礼と今後の報告が出来ないまま、時間だけが過ぎて行っています。ホームページを管理している方も、自分の展覧会に向けてギアを入れなおし創作に向かい始めただけに、できるだけ迷惑をかけないようしないといけない。

 

6月11日に下北沢の本屋BB において歌手で作家の寺尾沙穂さんと対談することになりました。『ひとりの記憶』の発刊記念イベントになります。

 

実は『ひとりの記憶』を書き上げるまでの数年、浦島太郎状態の自分が恐ろしく本屋を覘く余裕がなかったのですが、今年の一月、原稿が手を離れてやっと、駅ビルの中の本屋を覘く気持ちが生まれました。その時、最初に手にした本が角田さんの『拳の先』と『南洋と私』と題した寺尾沙穂さんの本でした。何故に手にしたかというと、本が放つ気配が果物のマンゴーとパパイヤの完熟色だったからです。で読み始めてアプローチの仕方やテーマが『ひとりの記憶』とほぼ同じで驚いてしまいました。世代も僕よりはるかに若く、戦争をリアルに語れる人が亡くなって行く中で、寺尾さんなりの方法で戦争があった時代や社会を語る本でした。寺尾さんのお仕事のことをベルリンでドイツの戦中、戦後と向かいあっている知人に「何か仕事のヒントになるかもしれない」と送ってあげた直後に対談の話が届きました。寺尾紗穂さんは音楽活動以外に『南洋と私』の他に、原発で働く人たちに関心を寄せたり、日本の土俗文化の残る地を訪ねたりと、精力的に活動されている、音楽家で作家さんです。

 

2016/06/11 ()

15:00 - 17:00 (14:30開場)

会場:本屋B&B

チケット :前売/席確保(1500円+ 1drink order 

会場住所:東京都世田谷区北沢2-12-4 第2マツヤビル2F

電話:03-6450-8272






●2016.03.06

『ひとりの記憶』を発表してひと月になります。

まだ数えるぐらいの人たちしか手にされていないと思うのですが、これまでだと新作を発表すると必ず多方面から連絡が届きますが、『ひとりの記憶』ではまだ3通だけ。この静けさはなんだろう。


千葉で有機野菜を作っている方が「一つの章を読み終わっても、すぐに次の章に移らず、しばらく笠原さん(第一章の人)のことを思いながら生活をしています」と、連絡をくださいました。

 

作家の角田光代さんが『ひとりの記憶』を読んで、「幸福だとか不幸だとか、そんなことは関係なく、そこに人が居て生きて来たという真実」と言った意味合いのことを書評に書いて下さいましたが、個々の表現の差異はあるにしろ読んでくださっている皆さんの中で、静かに何かが動いているのかもしれません。


「人生の真実」と題した角田さんの書評は、人生に対する考察力の鋭さ深さにはプロの物書きの厳しさを見せられた思いです。というか人間、角田光代を『ひとりの記憶』にぶつけて下さり有り難かったです。

 

『ひとりの記憶』について少し説明をします。

本の中に登場するのは10人。男性6人女性4人になります。戦前、日本が植民地支配していた朝鮮半島や信託統治していた島々で生まれた人が3人。同じように日本が植民地支配していた台湾に、働きに行った両親に連れられて行った人。戦前に沖縄から台湾に渡り戦後も台湾で漁師として生きた人が一人。戦争が終わる3か月前に満州にある看護学校に勉強に行った人。北海道で生まれ、その後家族で樺太に渡り、終戦後にシベリアに抑留された人。兵士として海を渡り、戦後もインドネシアに残留した人が二人。戦争が始まる前に福岡からキューバに移民として渡った人が一人。皆さんの中に「戦争の時代」が共通して流れていますが、いわゆる戦争の話ではありません。僕は本の中で「人生」という単語を使いきれませんでしたが、戦争があった時代の前後を生きた人たちの話です。

 

版元の文芸春秋に「本として纏めたい」と400字詰めで500枚程の量の原稿を送り読んでもらったのが、昨年の7月の頭、そして本として形にして社会に提出できたのがこの一月。僕はこの10年近く『ひとりの記憶』と向かい合って来ていた訳ですが、編集者はこの数か月間、半年間という短い時間の中で『ひとりの記憶』と向かい合うのに大変だったと思います。『ひとりの記憶』を編んで行く途中、文芸の編集部の一人の方が「橋口さんの表現を弄ってはいけない」と、その考えを編集部内で共有しあい守ってくださり、出版に辿りつけたことに、本当に心から感謝をしています。ここにきて完成を急いだのは、これ以上は僕の神経がもたないと自分で判断できたから。

 

 

JAが発行する『家の光』3月号で、東日本の被災地をテーマにした、写真作品と原稿を発表しています。


・『Them magazine』009号が路上をテーマに特集をしていますが、『視線』の作品2点が紹介されています。


『家の光』も『Them magazine』も『ひとりの記憶』の原稿を校了した直後に依頼が届きました。僕の中で他のことと、向かい合う余裕が出来た時で良かったです。

実は『Them magazine』の編集者の一人は、偶然にも沖縄の知人の縁者に当る人でした。写真原稿を手渡した直後にその事実が分かり、その場で沖縄の知人に電話を入れたところ、知人は海の上で「なんで一緒に居る?」と驚いていました。勿論、編集者も余りの偶然に驚き喜んでくれました。

 



・2月28日の朝日新聞書評欄で『ひとりの記憶』と橋口を取り上げてくださいました。『ひとりの記憶』の本が持つ意味と価値。そして一人でも多くの人にこの本を読んで欲しいという、記者の優しい思いが込められたありがたい記事でした。記事に添えられた写真にもカメラマンのキャリアを感じさせてもらいました。

 

・本当に久し振りに奧信濃の林道を3日かけて歩いて来ました。足元は雪が凍り緊張した山歩きでしたが、この数年来、張り付いていた神経の緊張が少し溶けた気がします。精神も少し安定してきたようで、言葉も戻り始めて来ました。この数年滞っている、もろもろを片づけながら、次の準備に入るつもりです。




15か月程前になりますが、パソコンのハードディスクが突然壊れてしまいました。幸い『ひとりの記憶』の原稿とAPOCCの皆さんの連絡先は外付けで保存をしていたこともあり無事でしたが、他のデーター、メールアドレス等は全て失ってしまいました。本当に呆気ない程全部消えてしまいました。メーカーによると費用がかかるがデーターは復元できるということでした。データーを復元するか、どうするか迷いましたが『ひとりの記憶』をいつ書き上げられるか分からず、そのためにあらゆる出費を抑えていたこともあり、復元することを断念しました。メールアドレスに関しては、双方にアドレスが残っていることに期待をしての決断でした。


僕に新しくデーターを打ち込める余裕と能力があればいいのですが、アドレスを復元できないままになっています。その結果これまでインターネットでやりとりをしていた多くの国内外の知人や仕事関係者と連絡が取れなくなりました。スミマセン。







●2016.01.13


『ひとりの記憶・海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』

この数年取り組んで来た仕事がこの1月30日に店頭に並びます。TOPICSのコーナーで『ひとりの記憶』の画像並びに情報を紹介しています。『ひとりの記憶』の存在と橋口の仕事を周りの方に教えていただけるとありがたいです。

こうして仕事の完成を皆さんに報告出来てホッとしています。
文章を書くということは、恐ろしい作業でした。



文藝春秋刊 単行本

『ひとりの記憶・海の向こうの戦争と、生き抜いた人たち』

 

橋口譲二

定価:本体1,700円+税
発売日:20160130日 







●2016.01.01

新しい一年が始まりましたね。

この数年とりかかっていた『ひとりの記憶』がやっとゴールを迎えられそうです。まだ気は抜けませんが、無事に進めば今月中に具体的に皆さまに報告できるかと思います。

 

定期的にやりとりをしているポーランド人写真家に「今度の仕事は難産だ。山が次々に現れる」と伝えると、それはいい仕事になるに違いないとチョコレートと一緒に励ましが届きました。ポーランドにも難産という意味を共有する文化があるんですね。

 

先日、今準備をしている本に収録するためのプリント作業をしました。やはりプリント作業は身体というか感覚を使う為に、身体が喜んでいる感じが分かります。文章を書くのは脳だけが疲れてしまい神経のコントロールというか、自分との付き合い方がとても難しいというのが正直な感想です。物を書くことだけで勝負している人たちの神経や意識のコントロールの仕方の大変さが、少しだけ身をもって理解出来た気がします。

 

東北の被災地をテーマにした作品の一部を引き受けてくださる人たちが手をあげてくださいました。被災地で偶然行き会った若い編集者がずっと僕のことを気にかけてくださっていました。すでに写真選びは終わりレイアウトも出ています。後は特集に添えるテキストになります。

 

東北の作品を引き受けてくださる編集部の方々とお会いしましたが、一人の方の名刺を見て、苗字に目がとまると「橋口さんがお会いになったのは私の父です」と。編集者の一人は鹿児島の方でした。

 

今年は余裕がなく、まだ一枚も年賀状が書けていません。寒中見舞いにならないよう松が明けない内に書くつもりです。

 

新しい年も気長に付き合っていただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。






●2015.11.05

9月に京都と宮崎に呼んでもらいました。

京都は通信制の大学のスクーリングを2日間。宮崎は公募展の審査の為です。
京都は疲れましたけど、楽しかったです。


京都では50人近い学生の写真を講評するわけですが、年齢が20代から80代と幅広く、個々に通じる言葉を探すのに苦労しますが、面白かったです。絵葉書を複写したような作品を提出して来た学生も数人いましたが、多くの学生が真面目に悩んでくれているのを感じることが出来て良かった。

 

なかでも、20代後半で、水をテーマに撮ってきた女子学生は、水が流れている光景は2点で、後は街角の家並みに水のイメージを探し、見る人の想像力に預けた写真を並べてくれました。60代の男子学生は大通りや路地や庭先を意識の中で交差させ、「これが京都?」と、お寺が全然風景の中に出てこない写真群を見せてくれました。昨年、80代後半の男性で、動物園に着くまで家を出るときから電車の中、電車を降りて動物園に着くまでに撮った写真を、「動物園」というタイトルで提出した学生がましたが、今年も80代の女性が、市内を流れる鴨川で寛ぐ人たちと、京都を取り巻く山々の森が持つ不気味さを撮り、森と鴨川縁を合わせて「京都」と提出した学生もいました。昨年の動物園といい今年の森と川縁。発想が素晴らしいです。

 

あと、昨年酷い作品を並べていた30代の男子学生が、「美しいとは何?」という意識のもと撮ったヌードを見せてくれました。途中で投げ出さなければ、とんでもない作品になりそうな予感を受けました。作品になるまで、なんとか伴走してあげられたらと思います。

 

学生が見せてくれたヌードや京都の写真は大勢の人が既に被写体としていて、たくさんの作品があるだけに、その人の解釈の仕方や語り口が大切になります。写真に限らず、表現の世界では多くの人がオリジナルな語り口を見つけられないまま、年をとり消えて行く人が殆ど。

 

ちょうどオリンピックのエンブレムの問題が起きた後だっただけに、オリジナルな感じ方、発想が誰のものか、自分のものなのか、リスペクトの仕方とか、エンブレムの問題も含めて一緒に考えることが出来て、いい時間が持てたと思います。

             

写真だけではなく、小論文の中にも脳が鋭いだけではなく、論理の展開力と組み立てかた、言葉に体温があり、写真を論じながら自分や社会を感じさせてくれた女子学生がいて、「課題はいいから、文章の世界を深めなさい」と思わず声をかけてしまいました。時間はかかるでしょうが、手伝えることがあるような気がします。

 

というかヌードを撮っている学生もですが、定期的に向かい合う時間を作らないといけないなと思い、少し悩んでみたいと思います。

 

講評2日目は、お昼ご飯以外はほぼ7時間近く立ちっぱなしで、学校では平気でしたが、夜ホテルで足が引き攣ってしまいました。学生は僕以上に疲れただろうな、と想像します。

 

毎回思うのですが、年齢と動機や背景が混在する通信制の学生と向かい会うのは、正直疲れますが、高校を卒業して真っすぐ大学に来ていない人たちだけに、自分自身が鍛えられ、勉強になります。

 

 

宮崎は2年の約束の2年目。地方には地方の美に対する価値観が根強くあるだけに、ただ僕は掻き回しに行ったのではないかと、少し悩んだりしました。悩みつつも宮崎でもしっかり自分の写真感で選びました。

 

審査の翌日、宮崎でコツコツと20年以上も水俣を撮っている写真家の方と一緒に、ご飯を食べたり海を見に行ったりしましたが、特になにを喋る訳ではないのですが、お互い何処かで合い通じるものがあるのか、穏やかな時間を持つことができました。今度、海釣りに連れて行ってもらうことになりました。

 

 

沖縄の知人が東京に仕事で来るついでに、島豆腐と島ラッキョウを届けてくれました。とても懐かしく、美味しかったです。美味しかったというより、スーパーで買う豆腐が味気なくなり困ります。







●2015.08.28



夏も終わりますね。

いま踏ん張りどころですよと、松山の知人が有機野菜を送ってくれました。
野菜を見て思わずニッコリしてしまいました。たまたまカメラを持っている知人が来たので、食べる前に一枚。本当は一つ一つの野菜の形状が分かるように、もう少し広げて撮りたかったのですが、床や机の上に資料が散乱しているために、窮屈な写真になってしまいました。

 

手前から緑色をしてクニャクニャしているのは伏見甘長(シシトウ)、
白いパプリカ
ルーマニア産(種をもらったそうです)、
右側の、へちまみたいなのはカボッキー(韓国若カボチャ)、
丸く紫色をしたのは、丸ナスでロッサビアンコというイタリア産のナス。
イタリアのナスは種が多く食感が今一つだということで、来年は作らないとのことです。

オレンジ色をしたのはコリンキーという生食用のカボチャ
黄色く丸いのは、宇和ゴールドでレモン交配柑橘。

 

実は野菜のほかに、赤紫蘇で作ったジュース。
青紫蘇+ニンニク+減塩味噌(食欲増進用)
ルバーブジャム(緑ルバーブ)・・・初めて食べました。

いろいろな気遣いに、ただ感謝でした。

 


・今年もキノコ採りは難しいかなと思っていたところ、散歩の途中に近所の公園でヒラタケを見つけました。早速、湯がいて大根おろしで食べました。

 

 ・ミトローパについてですが、ミトローパは僕のところに何人かアシスタントが居た時に設立した会社になります。そのころは皆の生活を守る責任が僕にあり、会社形式にしました。現在は、皆はそれぞれ独立をして、個々の作家活動・仕事をしています。

橋口個人は数年前から未発表の作品を纏め、発表に向けた作業とこれまでの作品を整理するのが基本の作業になっています。

今は、目の前の原稿書きに集中していますが、原稿が手を離れたら、ミトローパは整理をするつもりでいます。

   



APOCCについては、橋口個人が立ち上げたものですが、このような形で、社会とかかわったことで、公のものになっていると僕は認識をしています。


今は、自分の作品を纏めることに集中している為に、活動は中断をしていますが、落ち着いたらまた動くつもりでいます。活動を中断しているために、サポーターの皆さんにお願いをしてきた、会費のお願いもこの数年控えています。
 


活動歴は多くの人が自由に見られるように管理は続けます。ただ動き出すまでは、できるだけ出費は控えないといけないと思っています。
 


現在ホームページを管理しているお手伝いの者も橋口もインターネットに疎く、ドメインの意味、仕組みすら理解できていません。そんなこともあり、連絡先をフリーメールにすることで使用料がかからなくなると、単純に思い一時フリーメールにしました。


で、サーバーの方のサポート、説明を受けて、ドメインを無くすと、現在のホームページも見られなくなることが判明しました。で、ドメインは直ぐに戻しました。
 


現在一番、費用がかかるのはサーバー費用になります。その打開策として、橋口個人のホームページを作り、そこにAPOCCの項目を作る方向で動いてもらっているところです。

 

ワークショップについても、近所の美術の先生が、ワークショップに参加をする個々の生徒たちの個性も殺さず、費用も人手もかからない方法、形を見せてくださいました。

 

 


・ベルリンの中村真人さんが、雑誌『世界』9月号で「過去への取り組みは、人を強くする」というタイトルで寄稿しています。図書館で探してみてください。

 

 

・9月頭に、京都で二日かけて学生の作品を見せてもらいます。体力勝負になりますが先生たちの助けをもらい、頑張りたいと思います。

 

 

この数年とりかかっている仕事は、やっと全体像が見えてきました。皆の励ましをもらいながら、なんとか集中を切らさないで向かいあっています。

 






●2015.05.11


台風が近づいていますね。

気にはなっていたのですが、ホームページを更新出来ていません。そのことが少なく無い人に心配をかけているようで、この数日地方の友人・知人から連絡をもらい申し訳ないです。

 

僕は元気です。ただ、昼間は書き物をしている為に夜になると脳が機能しなくなってしまいます。いろいろと報告をしなくてはいけないと思いつつも夜は脳を休ませるようにしています。

 

心配をしていただいて有難うございます。

 

そして携帯番号が変わりました。数年前からメールでやりとりをすることが多くいつの間にか人と直接話をすることが少なくなっていました。話す用事があり電話をしたのにもかかわらず、ついつい通信費を気にしてしまい用件のみで切ることが増えていました。良くないと思いつつもメールに頼りっぱなしの生活に陥ってしまいました。そんなこともあり3月から通話主体の携帯電話に切り替えました。電話かけ放題4000円というプランを友人が探して来てくれたのです。電話を受け取る側は迷惑しているかもしれませんが、沖縄・北海道・鹿児島・宮崎・山形と電話をかけまくっています。電話を切り替えてすぐに小中学の同窓会が鹿児島でありました。電話を切り替えたことで同級生一人ずつ話すことが出来て良かったです。番長は「馬鹿がなんで帰ってこない」と電話口で怒鳴っていました。

 

パソコンメールも出来るだけ控えています。インターネットもメールを確認する以外はケーブルを引き抜くように心がけるようになりました。ケーブルが繋がっていると、ついついネットサーフィンしてしまうからです。それにメールでのやりとりは便利なのですが、知らず知らずのうちに言葉が強くなり人間関係が窮屈になることが増えたからです。そんなこともあり夜はなるべくメールを書かないようにしています。

 

しばらく皆さんに不自由をかけますが、宜しく願いします。

                                            

橋口 譲二







●2015.03.08

穏やかに新しい一年がスタートしたなと思ったのもつかの間のことでした。湯川さんと後藤さんが誘拐され殺害されてしまいましたが、ニュースを聞くたびに本当に嫌な気持ちになり、気持ちがざわついて夜もなかなか眠れなくりました。夜中にふと目が覚めてはTVをつけて見たりと、そんな日が続いていました。何が嫌だったかというと人の命が弄ばれていると思ったからです。それと、人の死はそれが誰であれ悲しいことなのですが、現実はそうでないと見せつけられたからです。

 

僕は勉強不足もあり後藤さんの仕事も存在も知りませんでした。ただ、後藤さんも初めから今の様な考えを持っていたわけではなくて、様々な経験と体験を積み重ねた結果だと思います。その意味において湯川さんもこれからだった気がします。湯川さんも体験を積んで行く中で、僕らがいま認識をしている湯川さんとは違う思考や行動を手にする可能性があっただけに、残念というか無念です。

 

この数年、中東を担当していた知人が「皆、忘れられるのを怖がっています」と現地からレポートをしているニュースを見る機会がありました。湯川さんと後藤さんの消息が明らかになる前にです。最後の部分だけしか見てないので、それまでどの様なやりとりがあったか分かりませんが、心に残る言葉でした。

 

「忘れられるのを怖がっている」このメッセージの先は、戦争に巻き込まれて命を無くしている大勢の人たちや、難民を指しているのかもしれませんが、知人の指摘は確信をついている様な気がします。湯川さんも後藤さんも、ISに参加していく外人部隊も心の底辺で共有しあっている思いの様な気がします。そのことは日本社会で生きる僕らにも繋がるのではと思いました。

 

 

一月、京都の大学に通信教育のスクーリングに出かけてきました。授業は3日間でしたが前後5日間の京都滞在でした。スクーリングに参加する学生の年齢は20代前半から80近い人まで。個々の体力の違いは勿論、素養も違えば目的意識も違う学生さんたちです。その一人一人との対話は体力勝負でした。最終日の午後4時を過ぎると、もう脳が機能しなくなってしまい講評できずに宿題として東京に持ち帰りました。正直、これだけ年齢やレベルが幅広い人たちと向かい合うのは疲れますが、僕はスクーリングに参加するような状況・人が嫌いじゃないんだと改めて思える京都の時間でした。

 

ある次期に僕が関わった人たちが、昨年秋から作品集を届けてくれています。本当はこの頼りで紹介を出来れば良かったのですが、APOCC・ミトローパのことも含めて次回にします。

 





●2015.01.08

新しい一年が始まりましたね。

新年は数十年ぶりに近所の八幡様に散歩の延長で初詣に出かけました。ただ、三が日を過ぎているというのに想像以上に参拝客が多く、途中で並ぶのに挫折してしまいました。でもドイツで日本語を勉強している知人の為に御神籤を買い、たこ焼きを食べて家路につきました。御神籤が凶でないことを願います。

 

数年前からとりかかっている書き物の仕事はやっと方向性が定まりました。まだまだ時間はかかりそうです。新年度中に書きあげられるよう、集中を切らさないで頑張りたいと思います。

 

・昨年の夏前に『A usual  mornig』は作品集の纏めに入りましたが、仕上げの方向性に迷いが生まれて暗礁に乗り上げてしまいました。夏から秋にかけていろいろと悩みましたが、他にやり残している仕事が3作残っていることもあり、しばらく『A usual Morning』は隣に置くことにしました。ただプリントではキチンと残したいと思っています。作品の完成を待ってくださっている皆さんには申し訳なく思っています。ただ、自分の年齢を考えると作品は残ったものが全てだけに、慎重に進めているのだと理解してもらえると有り難いです。

 

・ここで何度となくAGFAの後継印画紙について触れていますが、先月ベルリンからプリント見本が届きました。スイスで写真活動をしている知人のエヴァさんがベルリンの工場の窓口を直接訪ねて送ってくれました。

 

AGFA MCC 111Bに近い印画紙を探しにFotoimpexに行ってきました。その結果、この印画紙に似たADOXの印画紙が見つかりました


MCC 112 ADOX Papier (ややマットな表面、紙の厚み250g)

MCC 110 ADOX Papier (光沢の表面、紙の厚み250g)

 

ADOX の印画紙は製造中止になったAGFAの製造機で製造されているそうです。上記の情報はインターネットでも調べることは出来ますが、僕自身がインターネットによる情報習得に不慣れなこともありエヴァさんにお願いをして直接調べて教えてもらいました。 製造中止になったAGFA MCC 111Bで僕がプリントをした作品は『Couple』『BERLIN』『HOF ベルリンの記憶』の展示用になります。(光沢紙)

僕が知らないだけでADOXの印画紙はすでに日本でも輸入されているのかもしれませんが、もし、AGFAの印画紙の後継印画紙を求めている方は直接コンタクトを取り購入が可能です。対ドル、対ユーロの為替の問題、消費税等を比較をしてアメリカの通販ショップで購入するのも一つだと思います。

Fotoimpex: www.fotoimpex.de/

 

 

・この一月にスチルムービーを久しぶりに京都の大学で試みることにしました。

実はスチルムービーを試みるのをしばらく躊躇っていました。その理由ですがある場所で試みた折に、だれかが録音をし、録音をしたテキストを完全に書き起こしインターネット上で写真も一緒に公開されようとしたからです。幸いにも公開される前に未然に防ぐことが出来ました。スチルムービーは写真集『17歳 2001~2006年』(岩波書店)に収録されている著作物です。日本の様々な場所で生きる17歳のモノローグと東京吉祥寺の心象風景で構成をしています。登場する17歳の少年少女はいまこの時間も日本のどこかで生きて生活をしている人たちです。懐かしいと思う人もいれば、できればあの頃の自分に触れて欲しくないと思う17歳もいるでしょう。自分の作品だとはいえ関係の持ち方に慎重になるのです。そんなこともあり、しばらく臆病になっていました。

そのようなことがありましたが今回改めて京都で試みることにしたのは、写真表現が持つ可能性の一つを知って欲しいことと、朗読を通して17歳の話に触れることは、その人の人生に寄り沿うことだということを学生たちと一緒に考えたいと思ったからです。

 

・1月8日発売の雑誌『世界』でベルリンの中村真人さんがドイツの戦後を生きた人たちのノンフィクションを発表しています。この仕事は中村さん自身が自分で編集部に企画を持ち込んで具現化しました。自分で自分の考えを伝えに行く。一見簡単なように見えますが、とても大変勇気のいることなのです。行動した中村さんと中村さんを受け止めてくださった編集者に拍手です。

 

 

・先月末に大阪の知人から「これで正月を過ごしてください」と上等のお肉と沢山の食材が届きました。早速、近場で生活をしている何人かにおすそ分けをして美味しくいただきました。大阪の知人はこの30年近く、いつも気にかけてくださっています。鹿児島のお寺さんや地方から応援してくださっている人たちの為にも、今やりかけの仕事はキチンと纏めなければと思っています。

 

・コレクションの為の作品を届ける為に富士山の麓に出かけてきました。しばらくヨーロッパに足を運んでいないこともあり、知人たちに近況を伝えようと思い作品を届けついでに富士山をバックに友だちも一緒に記念写真を撮ってもらいました。そして早速、ヨーロッパの知人たちに写真レターを送ったところ、富士山が背景に写り込んでいたこともあり大喜びでした。何か温かいものを感じとってくれたのか、自分たちも写真を撮って送ってきてくれました。エヴァさんなどはわざわざ雪降る中にソ連製の大型カメラ8×10を持ちだし、僕の日本人シリーズを意識したフレミングの写真を。写真歴史家のハウゼルさんは大晦日のひと時の写真を。こういう時にデジタルカメラはとても便利です。

 

・先日コーヒーを飲んでいたところ通りかかった人が挨拶をしてくださいました。「あ、知っている顔だと」そこまでは脳が反応したのですがなかなか思い出せません。その方は2度も立ちどまり挨拶をしてくださいましたが「記憶にあります」と答えるのがやっとでした。最初に写真関係者だと思ったのも失敗の原因でした。でしばらくして青年団の役者さんだったと思いだしました。10数年会ってなかったとはいえゴメンナサイです。実はその前もパン屋の前で僕より背の高い女性に挨拶された記憶があります。その時はパン屋に行く直前まで4時間近く原稿を読んでいたこともあり風景にピントが合わない状態でした。パンを受け取りながら「なんでさっきの人は僕の視線の先に2度も立ったのかな」とまでは考えたのですが、後になりなんとなく知り合いだった気がしています。すみませんでした。最近脳の反応が本当に鈍くなっているようです。

 

次の橋口便りではAPOCCやミトローパの今後について述べたいと思います。そして少しずつベルリンのBOGOTAで試みてきたリヒトホーフの場の解放についてリスマンさんと話し合ってきたことなどを書いていければと思います。

 

今年もどうぞ宜しくお願いいたします。







●2014.12.02


この間プリント棚を整理していたところ、棚の奥からソ連製の手巻き腕時計が出てきました。1990年にベルリンのポツダム広場が更地だったころ、広場に生まれた青空市で(通称ポーランド市場)で確か8マルク(約1,000円)ぐらいで買った記憶です。ネジを巻いてみたところ動いてくれました。最近使っていますが、朝目が覚めたら時計は止まっています。でも、ネジを巻けばまた動きだすので楽しんでいます。


ベルリンの壁が崩壊して25年ということをすっかり忘れていました。新聞やTVの特集を見て、そうなんだと、すこし原稿書きを隣においてインターネットでベルリンの新聞を検索してみたところ「Berliner Zeitung(ベルリナー・ツァイトゥング)で一人の写真家の特集を見つけました。


写真家の名前はManfred Paul(マンフレッド・ポール)。壁崩壊前の旧東ベルリンの街角の写真を大判カメラで撮っていた写真家です。東ドイツ時代にベルリンの写真を撮っていた人がいるということは噂では聞いていましたが、名前を知り実際に作品を見たのは初めてのことです。記事を読むと僕が知らないだけでパリ・フォトで特集されたり、主だった美術館にすでに作品がコレクションされていて、しっかりと彼の仕事と存在は社会に認識されていました。僕の作品『BERLIN』と『Hof・ベルリンの記憶』とまったく同じ地区で撮影されていました。というか、紹介をされている作品の殆どが僕のベルリンの部屋の周辺で撮影されています。洗濯ものが干してある中庭や、マロニエの木を上から撮った場所のアパートも写真を見て直ぐに分かりました。このマロニエの木の下には、スーパーの売れ残りの果物や野菜などが置いてあります。必要な人が自由に持ち帰ることが出来るのです。

 

マンフレッドさんの作品は街角との距離感がとてもいいなと感じました。見る人に視線の先を強要していないことが素晴らしいです。それに対象の街角から少し距離を置いてカメラを立てているところに、マンフレッドさんの当時の立ち位置が透けて見えてきます。東ドイツは監視社会でしたから写真をただ撮っているだけでも警察に難癖をつけられただけに、写真にあるような立ち位置が生まれたのかもしれません。でも分からないですが。記事に添えられた作家の写真を見たら、何度かカフェやカスターニエン大通りですれ違ったことのある方でした。今度は声をかけてみようと思います。


ただ、撮影エリアも表現の仕方もお互い似通っているだけに、彼の存在と作品を『Hof』を纏める前に知っていたら、後から作品を発表する者の礼儀として後書きでマンフレッドさんのことに触れるか、或いはタイトルなども「Hof」を削除したりとリスペクトすべきでした。

(リンクが上手く貼れず作品が見られません。アドレスは間違っていませんので、興味のある方は下記のアドレスに直接アクセスをして作品をご覧ください。)


www.photoeditionberlin.com/künstler-artists/manfred-paul/

http://www.berliner-zeitung.de/berlin/prenzlauer-berg-1972-bis-1990,10809148,22044654.html



ドイツがらみですが、僕の初期のベルリンを助けてくれていた高田ゆみ子さんが翻訳出版をした『見えない雲』を原作にしたお芝居が三軒茶屋の世田谷パブリックシアター小劇場のシアタートラムにて上演されます。

http://minamoza.com/diewolke.html

今回の主演は上白石萌音さんという16歳の女優さん。この秋、周防正行監督の『舞妓はレディ』という映画の主役としてデビューした高校生です。

 

 

僕の作品集に登場してくださった人たちのニュースです。

作品『職』で蔵人を撮らせてもらっていますが、ここで登場するかつて修行中だった石川達也さんとは今でも季節のやりとりをしています。2週間ほど前に石川さんに連絡をいただき、ふとNHKの朝のドラマ「まっさん」のことを思いだしました。石川さんはいま広島の酒蔵の杜氏だからです。「ロケ場所、近所ではないですか」と訪ねてみたところ、なんと「ドラマの主人公の亀山正春さんのモデルは、竹鶴政孝さんというニッカウヰスキーの創業者で、スコットランドへウイスキー留学をしていたときに恋愛し、結婚したリタさんを日本へ連れて帰り、それこそドラマティックな生涯を送られました。その政孝さんの生まれ育ったのが、うちの蔵なのです」と。忘れていましたが、石川さんは竹鶴酒造でした。「まっさん」のドラマでは「酒造り指導―石川達也」で番組にもクレジットが入っていて、勿論本人もドラマにも蔵人として登場されているそうです。石川さんは昔から謙虚な方でかつ勉強家だけにこの度のドラマにおいても明治から大正時代にかけてのお酒造りについて勉強をされたそうです。


それにしても石川さんは大変歴史のある蔵を引き継がれたものだなと感心してしまいました。僕も一度ドラマに出てくる庭を眺めながら日本茶をご馳走になったことが有ります。遅いかもしれませんが少しお酒の練習をして石川さんのお酒を飲んでみようと思います。

 

先月、『17歳の地図』で撮らせてもらった上田 暇奈代さんが横浜トリエンナーレでのアート活動も含めた日々の活動が大きく朝日新聞で取り上げられていました。上田君は10代の頃からNHKで鶴瓶さんと共演したりして知る人ぞ知る有名な存在でしたが、この度の朝日の記事や横浜での試みでさらに広く深く認知されたと思います。どこまで飛んで行くのか楽しみです。同じ写真集で撮らせてもらった行司の木村鎮秋さんが幕の内力士の取り組みの行司として土俵に上がっていました。お相撲さんを見ることはあっても行司さんを意識して見ることは殆ど無いかと思います。彼は相撲取りを断念して行司になった人だけに、身体が大きいので見ると直ぐに分かると思います。顔も大きいです。大きな身体で土俵の上で勝負を見ながらちょこまか動いて3番も取組を裁いていました。ちょこまか動いているのは少しでも木村君が止まってしまうと後ろの人が見えなくなることを本人が良く分かっているからだと思います。見栄えが求められる行司の世界で良く精進して今日まで来たものだと、相撲を見ていて涙が出てきそうになりました。



同じ写真集でパンクの恰好をしていた伊藤健太郎君がいました。少し飛びますが僕の自転車を修理してくれた旅人がいますが、その旅人と伊藤君が季節季節の仕事で一緒になっているそうです。今二人は大阪にいると伊藤君と旅人の共通の知人が教えてくれました。勿論、二人は生まれも年齢も生きてきた場も違いますが縁とは不思議なものです。



『17歳の地図』がらみでもう一人触れると、先日、三鷹駅の近くを歩いていたとき「沖縄の長間秀樹君の子どもが勉強のために東京に出てきましたよ」と地元の議員さんが教えてくださいました。長間君の詳しい消息を伺いたかったのですが、わさわさして聞きそびれてしまいました。

あの一冊の写真集と一緒に生きて生活している人達の姿が見えてきて嬉しいです。



 




●2014.10.25

少し時間が過ぎてしまいましたが、宮崎に呼ばれて出かけていました。そして、そのついでというのも変ですが、鹿児島まで足を延ばしました。この数年、宮崎と何故か縁が生まれています。


宮崎では新聞社主催の芸術祭で、写真部門の審査をするのが僕の仕事でした。正直なところ少し審査をするのが難しかったです。


応募作品の全てがデジタル表現で画像処理も普通に皆さんなさっている。僕自身が殆どデジタル表現から遠いところにいるだけに、他人の表現に対して判断が少し甘くなっているようです。甘いかなと感じたのは今年の冬、京都の大学でも同じ様なことを感じていた気がします。たぶん気持ちのどこかで自分がやらないからと言って、他人の表現を否定してはいけないという思いがあるのだと思います。ただ、ズームレンズの弊害が全ての作品に共通していたような気がします。機能があると使いたくなるでしょうから、ズーム機能を動かせないようにガムテープで止めたらいいのに、と審査の間中ブツブツ口にしていたような気がします。


審査は体力勝負で大変でしたが、ホテルではとても心穏やかに過ごせました。
部屋が上層階ということもあり、部屋から山側の宮崎市内が一望できました。足元に大淀川が流れて、遠くには霧島連山が連なっていました。右端に韓国岳、そして左端に高千穂峰が。鹿児島からはちょうど反対の見え方になります。有り難い一時を持つことが出来ました。それにホテルは小学校の修学旅行で宿泊した同じホテルでした。宿泊費の一部としてお米を持って行ったことを思いだしました。宿に着くと廊下に用意された大きな笊に、一人ずつ一泊ごとに袋から移します。水稲と陸稲はお米の色が少し違うために、笊のお米の山が単色でなかったことを今でも良く覚えています。

 

鹿児島では幼稚園の頃の先生とお会いして写真を撮らせてもらいました。写っているといいのですが。お寺で午前中過ごし、午後からお墓の掃除に向かいました。墓掃除をしている途中に雨が降り出し、濡れるのは平気でしたが、何か額や顔の周りがザラザラすると思ったら桜島の灰でした。風向きがこちらに来ていたようです。掃除をしても後から後から灰が降ってきて困りました。でも桜島の灰はまだ目で見えるからいいやと思い、雨と灰に降られながらお墓の周りの草を抜いていました。墓掃除の後、近所に住む同級生たちを訪ねるつもりでいましたが、灰交じりの雨に打たれて酷い状態だったこともあり、友達には声をかけずに戻りました。


夜、地元の新聞社に働く知人が「少し元気をつけてもらわんと」と迎えに来てくれて案内されたのは焼き鳥屋の2階でした。鹿児島の人は何かを食べるというより飲むのです。勿論、知人は僕がお酒を飲めないことは良く知っているのですが、それでも焼き鳥屋に連れていくところが凄いです。







●2014.09.16

もう秋ですね。早いな。この夏も暑かったですが、何とか仕事のリズムを壊さず、乗り切ることが出来ました。それでも仕事は牛歩ですが。



・10年近く愛用している自転車が、動力が車輪に伝わらなくなりこの半年余り乗れない状態でしたが、知り合いが壊れた自転車を見違える程綺麗にしてくれました。問題個所の修復だけではなく、半分割れていたペダルや破けていたサドルも新しくなりました。ギアのワイヤーも新しいものに取り換えてくれました。お陰で自転車は新品に近い状態に戻りました。知人いわく、これでまた10年は乗れるとのことです。お礼は写真集『BERLIN』とタイ料理でした。ただ自転車を修理に預けてから2、3か月も音沙汰がなく、どうしたんだろうと思っていた矢先に「いまメキシコに居るので、戻ったら修理をするからもう少し待って欲しい」と人づてに伝言が届きました。ちょっと呆れてしまいましたが楽しいです。伝言はメキシコの漁村で旅人に託され、バスや飛行機を乗り継いで吉祥寺に届きました。


 


・先月、自転車以上に長く愛用している時計が止まってしまいました。修理に出したところ、中の腐食が見つかり電池交換だけでなくオーバーホールが必要で、修理費用も結構な金額になると連絡が来ました。時計の状態を詳しく聞きにお店に伺ったところ、修理コーナーの横のラックにぶら下がっている新品の時計が目に入りました。見ると1000円とか2000円の値札のついた時計がずらりと並んでいます。修理を進めるかどうか迷ってしまいました。勿論、値段が値段ですから見た目は気になります。でも時間を見たり確認することだけは出来る。それでも壊れた時計を捨ててしまうと「大切な時間が消えてしまう」と思い結局オーバーホールをお願いしました。


家に戻りメールの確認の為にパソコンを開いたところ「モノを捨てられない人程、時代から取り残される傾向がある」と記事が出ていました。やっぱりなーと思わず記事を音読してしまいました。


 


・ベルリンのアンネさんから印画紙の情報がとどきました。


「私のお勧めはADOX "MCC Barytpapier "という印画紙で、とても良いです。素晴らしいグラデーションの幅の広さがありますし、とても繊細なトーンを表現できて、自然な色合いに表現できます。もっとも、AGFAの印画紙よりADOXの紙は白いですが。」



印画紙について、もっと調べたい場合は下記のアドレスをご覧になってください。


http://www.moersch-photochemie.de/content/galerie/beispielepapier



・インド、デリーのSandeepさんが関わった仕事の画像が届きました。ユニセフの活動の一環を記録した仕事ですが、インドを旅している気分になります。それに無性にインドのカレーが恋しくなりました。

http://www.iple.in/files/ckuploads/files/Polio_Book.pdf



・札幌で「表出する写真、北海道」展を見てきました。写真の歴史は北海道開拓の歴史であり、開拓の歴史は写真の歴史でもある。この様な意味のある展覧会に作品が招待されたことを光栄に感じた時間でもありました。個人的には細江さんや深瀬さん、操上さんのオリジナルプリントを見れて、幸福な一時を持つことが出来ました。


 




●2014.07.12


バタバタした日が続いていましたが、やっと一息ついた感じです。ワン・ビン監督の新作映画の公開に合わせたトークライブは、映画終了後の30分間という短い時間でしたが、
配給会社の代表の質問のお陰で緊張感のある良い時間が持てました。


ワン・ビン監督はドキュメンタリーの映画監督で、映画が完成した後も被写体というかワン・ビン監督のカメラの前に立った人たちは、映画の完成に関係なく普通にその後も日々の生活を繰り返しているわけです。ワン・ビン監督は人々の日常を被写体に選ぶということは「被写体との信義につきる」と言い切られた。で、同じように普通の人々にカメラを向ける橋口さんはどのように考えるか、と言った意味合いの質問を投げかけられました。作家にとっては恐ろしい質問でした。それに対して僕は「写真の存在はコピー文化で切り売りが普通にできる表現ですが、被写体の人格が守れないような仕事はしない。インターネット全盛の時代でも、拡散していくネット媒体には日本人シリーズなどの作品を載せることはしない、、、」と答えました。恐ろしい質問で「ふー」とため息をつきたくなりそうでしたが、なれあいのやりとりにならずに良かった。


新作「収容病棟」の映画を見ていて、三度ぐらい涙がでてきそうになりました。違う階の病棟で暮らす男女がお互いを求め合うやりとりには切なくなってきた。旧正月に面会に来た家族が入院している夫のために、「正月だから賑やかに楽しくしよう」とアイフォンで音楽を流すシーンには温かい気持ちになった。退院した一人の男性が実家に戻り、貧しい暮らしの中に自分の居場所はないと判断し、ひとり街灯のついた真新しい道路をただ歩いている姿には、誰に腹を立てていいかわからない感情が湧いてきた。


中国社会が大きく変わろうとしている時に、時代の流れから零れ落ちていく人々に気持ちを砕いているワン・ビン監督は素敵な人だと思います。現在は上海で新作に挑んでいるそうです。ワン・ビン監督はチェックのシャツが好きみたいで、紹介写真を見るとブルーのシャツが多いのに気がついたこともあり、僕もその夜はバイエルンカラーのチェックのシャツを着て行ったのですが、誰も気がついてくれませんでした。

 

少し時間が経ってしまいましたが、「ダウン症家族のまなざし」展での写真家でキュレーターでもある、イギリス人写真家リチャード・ベイリーさんとの対談は結果として申し訳ない流れになってしまいまいた。日本人同士でも難しい「被写体との距離の取り方、関係の持ち方」みたいなところに話が行ってしまいました。この写真展のテーマは、障害を持って生まれてきた子どもたちと私たち社会はどの様に向かい合い、関係を持っていくのか。障害に目を奪われるのではなく人間の部分と向かい会って欲しいという願いのこもった試みです。障害を持った子どもと一緒に生きることになった家族の葛藤や喜びを共有し合う機会としての場だっただけに残念な対談になってしまいました。対談のぎくしゃくは僕の責任です。


展示作品について個人的には、障害を持ったわが子を母乳で育てている子育ての様子を写した、マリア・デ・ファティマ・カンボスさんの作品や、フィオナ・イーロン・フィールドさんの作品「告知」で、生後間もないわが子を抱きしめカメラの前に立っているお母さんたちのポートレートには、戸惑いと喜び、覚悟が写り込んでいて胸が騒ぎました。


展覧会に合わせて雑誌『世界』のグラビアで紹介されたリチャード・ベイリーさんの作品「就労」は、障害を持った人々が社会の中で生きる誇りと喜びみたいなものが一枚一枚の写真から伝わって来ました。引き続きリチャード・ベイリーさんと日本の若いカメラマンが力を合わせて、このテーマと向かい会っていく計画がスタートするそうです。暖かく見守って欲しいと思います。

 

次の号の『世界』ではポーランド人写真家エヴァ・ヴォランスカさんの故郷であるグダニスクを撮った作品が紹介されました。これは東日本で起きた震災を受けて、何人かの海外の写真家に「あなたたちにとってのある日突然」を表現してみませんかという僕の呼びかけに答えてくれた作品の一つです。


エヴァさんの作品を『世界』で紹介するのは3回目になります。作品を発表することで、いくばくかの写真使用料が発生するわけですが、エヴァさんは原稿料が入ると、そのお金でフィルムを買い写真を撮って作品を送ってきます。エヴァさんだけではなく旧東ドイツ生まれのアンネ・シュバルベさんの作品もこれまで3回紹介しました。アンネさんは3回目の原稿料を元に自分で写真集を作りました。この数年はその一冊の写真集を持って、いまやヨーロッパ各地やアメリカでの写真フェスティバルの常連作家としての位置を築いているようです。今月もスイス、バーゼルとベルリンでの発表の案内が届きました。
二人の個人的な努力もさることながら、ヨーロッパ社会では有名無名に関係なく、芸術に対してリスペクトがあるので、生活が困難でも乗り切っていけるのだと思います。

 

話は飛びますが、印画紙や薬品を買いに新宿のヨドバシカメラに出かけましたが、まるで商品が届かないガランとした売り場みたいで、もうがっくりしてしまいました。がっくりというより、これから生きていく若い人たちはどうやって夢を築いて行くんだろうと、情けなさと同時に責任を感じてしまいました。僕はもうこの年齢ですから、少しずつプリントをしていくだけです。でもこれからの人たちは試行錯誤をしていかないといけないのに。酷い写真環境を僕らは残してしまいました。

 

http://www.fotoimpex.com

↑このお店はベルリンのハッケッシャーホーフの近くにあります。このお店で販売しているADOXの製品はAGFAが製造中止になった後に、同じ技術者チームにより創られた製品だと聞いています。他のメーカーの印画紙よりもAGFAに近い方向性を持っていると思います。例えば現像液にしても、AGFARodinalADOXAtonalは同じ製造法で作られています。ADOXの印画紙がまったくAGFAの印画紙と同じというわけではないと思いますが、近いクオリティーを維持していると思います。いろいろなタイプの印画紙がセットになったのもあるようなので、一度試してみて自分に会う紙を選ぶといいと思います。いまアンネさんに詳しい印画紙のデータを探してもらっているところですので、届き次第また皆さんに紹介できると思います。日本で写真感材を求めるのは困難な状況ですが、アメリカにも大きな通信販売のお店があります。少し面倒ですが気持ちがあればなんとかなっていくでしょう。

 

撮影を終えしばらく脇に置いていた、先の震災をテーマにした作品の写真集が決まりました。この秋には皆さんに見てもらえると思います。



 

●2014.05.11

一か月程まえから小鳥の囀りがいろいろな方角から聞こえてくる様になりました。若葉の季節になり、餌になる昆虫や青虫が増えているのだと思います。小鳥の囀りで目覚めるのはとても幸福なのですが、その代わりに僕の車のボンネットは鳥の糞だらけでちょっと困ってしまいます。


東京大学での麿赤児さん、小林教授たちとのセッションは和やかに終えることができました。冒頭、麿組の女性二人が首からプロジェクターを下げて左右に動きながら、麿さんの踊りを天井や壁に映し出すプレゼンテーションは格好良かった。


会場の壁や天井を麿さんが縦横無尽に動き回るその様は妖怪の様でもあり、地中の怨霊が目覚めて僕らに何かを啓示している様でもありました。


ちょうど一週間前に川崎に在る岡本太郎美術館で「岡本太郎とパリの仲間たち展」を見てきたばかりだっただけに、天井を走る麿さんと岡本太郎さんの作品が僕の中で重なっていくのが分かりました。


少し話は飛びますが「岡本太郎とパリの仲間たち展」は必見です。ピカソが写真を撮ったのかと錯覚してしまうようなブラッサイの作品や、ダリやカンディンスキーの作品が同じ空間で並列に見ることが出来るのはなかなか無いことのような気がします。


実は僕は岡本太郎さんと一緒に昔の平凡社で写真を撮られたことがあるのですが、その写真が見つけられなくてちょっと残念。岡本太郎さんは初対面の僕の前でも「芸術は爆発だ」と両手を広げられ、田舎から上京してきて写真を始めたばかりの僕は「なんだ、このオジサンは」と思ったことを良く覚えています。


岡本太郎さんが拘った日本や精神世界と、麿さんが求めているものは表現スタイルは違いますが、どこか共通するものがある様な気がします。

 
話を戻すと大学側の企画者が西洋を含めて60年代、70年代、80年代の初頭を「若者の時代」と位置づけていました。それを受けるような感じで僕のプレゼンは始まりました。企画者が話すところの「若者の時代」から零れ落ちている人たちの存在を語ろうとその場で決めました。そして80年代の作品『視線』や『俺たちどこにもいられない』、『17歳の地図』の作品を紹介しながら僕の中の「日本」を語りました。

 

海外で良く「神風、腹切り」をどう思うか?「舞踏」をどう思うかと聞かれることがあります。日本語でも説明するのが大変なことだけに、いつも説明に苦労しています。

 

神風、腹切りが語る日本。僕の田舎や、作品「日本人シリーズ」の中の日本。そしていま僕らが普段享受している西洋的価値観に裏付けされた日本。日本人シリーズを始めた1988年頃から「日本」について考え始めていたこともあり、東京大学でのセッションは意義ある一時となりました。




●2014.03.24

 先月、ピンチヒッターで通信制のスクーリングの為に京都の大学に出かけました。

これまでいろいろな場所でレクチャーをしてきていますが、通信制という社会人が対象のシステムだけに、一般大学と比べて学生さん一人一人の熱心さの質の違いと、20代から60代後半の人たちが混ざったクラスで、一つのことについて話すことの大変さを痛感させられてしまいました。


しかも3日間のスクーリングが終われば、皆さん自分の生活の場に戻ることになります。表現はもともと孤独な営みですが、それでも振り向けば隣に学友がいるのといないのでは気持ちの持ちようが違います。誰よりも僕自身がこのスクーリングが終わればサヨナラをしていく関係に戸惑っていたと思います。戸惑ったところで何かができるわけではないのですが、初日に皆の佇まいに触れたその時、この3日間は全力投球するぞ、と自分に言い聞かせて望みました。


当然学生さんたちは全員デジタルカメラでした。デジタル、アナログに関係なく表現を高めていくためには、自分の中の意識とどの様に向かい合っていくかが大切になってきます。消去、加工することが当たり前になっているデジタル文化の中で、振り返ることの大切さや足踏みする時間が大切であることを伝えるのに終始していたと思います。振り返る為には「消去」してはいけないといろいろな角度から喋り続けた3日間でした。


結果メチャクチャに疲れてしまった。退職後に勉強を始めた方たちは、これまで真面目に何十年間も働いて来た方たちです。真面目に働いてきた=一つの価値観が出来上がっている人たちになります。何かを掴むために勉強を始められた人たちだとはいえ、一生懸命働いてきた人たちにどこまで踏み込んで話をしていいものか迷いました。それだけにこれまでとは異なる関係の持ち方が問われた3日間になりました。


スクーリングが終わった翌日、古い知人と会うつもりでいましたが、とにかくスクーリングの疲れで身体がボーッとしてしまい友だちとは電話だけで済ませてしまいました。ただ知人は運営する施設の改築にとりかかっていて、僕と会うどころではなかったようです。それでも少しは京都を味わって戻ろうと思い、荷物をかついだまま鴨川を渡り八坂神社の向かいでお稲荷さんを買い、お稲荷さん屋の斜め向かいでしば漬けと千枚漬けを買い京都を後にしました。


実はスクーリングが始まる前日、大阪の鶴橋という街で韓国系の友だちとご飯を食べました。友だちとは30年来の付き合いになります。少し話が飛びますが僕の周りにはお金に縁遠い芸術系の若い人たちが多くいます。大阪の友達は僕や僕の周りで創作活動をしている皆の為に、年に何度もお肉やキムチなどの韓国食材を大量に送ってきてくれます。僕や僕の周りの皆が病気もせずへこたれず、気持ちも寂しい思いをしなくて済んでいるのは友だち家族の存在が大きいです。昨年末にも楽しい出来事がありました。


年末にいつものように大量のキムチとお肉が届きました。僕は周辺の皆に「肉が届いたぞ」と集合をかけました。テーブルの上に白菜、きゅうり、大根、海苔、ジャコのキムチを並べて、さあ肉を焼くぞと開いたところ焼肉用のお肉ではなく桜色をしたすき焼き用の霜降り肉でした。「一年に一度ぐらいはすき焼きを」という気持ちで送ってくださったそうです。僕らは口は焼き肉のつもりだったのでフェイントをかけられた感じでしたが、あまりに綺麗なお肉に「わあ、わあ」と感動してしまいました。その夜はキムチのトッピングだけの食事になりましたが、それでも贅沢な一時を過ごすことができました。新鮮なキムチはたまらなく美味しいです。実はその日から一週間後にすき焼きの為に再度、皆で集まりましたが、お肉を開いてまたびっくりで、時間がたったことでお肉が桜色のピンクから少し黒味がかった土色に変わっていたのです。変色したお肉を見てため息をついてしまいました。少し悲しく笑える話です。


友だちと知り合ったのは鶴橋の市場でした。『写楽』という雑誌の依頼で鶴橋の市場を撮りに出かけました。当時市場で働く人たちの大半が朝鮮半島からの潜水艦組の人だっただけに、写真なんてとんでもないという感じで僕は簡単に弾かれてしまいました。弾かれたからと言ってすごすご帰るのもしゃくなので、僕は一日中市場の隅に立っていました。ただ立っているだけでしたが、それでも市場のいろんなところから「兄ちゃん邪魔やで。」「はよ帰りい。」と言葉が飛んで来るのです。6、7時間立っていたと思います。寒さと疲れで意識が飛びかけていたとき、「兄ちゃん寒いやろう、こっちにおいで。」と声をかけてくださる人がいました。


僕はそのあと、ビールケースに腰かけ湯気の中でお茶とお餅をいただいたのですが、声をかけてくださった方が友だちのお母さんだったのです。その時からお世話になりっぱなしの30年ですが、今日まで付き合いが続いています。有り難いです。

 


                                                                                                      
●2014.01.30

このまま春が来るとは思えないですが近所の公園の梅や沈丁花はほころび始めてきています。何時でも雪が降ってもいいようにスコップを借りてベランダに置いて、タイヤもスパイクタイヤに履き替えたのに少し拍子抜けしています。


昨年は牛歩の一年だった様な気がします。


一歩進んで二歩も三歩も後退した感じでした。そして海外とのやり取りの難しさも再認識した一年でもありました。でも細々とではありますが双方の意思は途切れることもなく流れているので何とかなって行くと思います。


実は昨年末に鹿児島の同じ地区の小学校、中学校に通っていたお兄さんお姉さんたちと会う機会がありました。会ったと言ってもソフトボール部のキャプテンだった同級生以外は皆さん初めてお会いする方ばかりで少し戸惑い緊張してしまいました。緊張したとはいえ同じ水を飲み芋を食べて育った人たちばかりですからとても懐かしい時間を過ごすことが出来ました。


僕が生まれ育った地域は鹿児島の中心部から二十分ぐらい離れたところにあり、今でこそベッドタウン化していますが、昔は目の前に干潟の海が広がり、干潟の先には桜島が聳え田んぼや畑に囲まれたのどかな所でした。ある時などは朝礼の時に学校の裏山から飛び出した兎が校庭を横切り僕らの足元を走り抜けていったことも。秋になると昼休みに学校の裏山に入りアケビを探したり山芋を掘ったりして楽しんでいました。


僕の隣の席の方が「私の村では私が高校を卒業するまで電気が通じていなかった。」と教えてくださり驚きました。海と山以外は何にもない所でしたが同じ学区に電気が通じていない所があったなんて想像すらしませんでした。その方が育った村は「水樽」と書いて「ムッタイ」と読むそうです。水が湧くから人が棲みついたのだと思いますが集落は七軒だけで三世帯が農業、四世帯は漁業で生計を立てていたそうです。耕作地も狭くこれ以上世帯が増えようがなかったのでしょう。


漁業といっても素朴な漁法だったらしく昼間に松の木を海に沈め夜半に沈めた木の周りに網をぐるりと張り、船の上から沈めた松の木の中心部をめがけて石を投げ込んで魚を追い出す。毎日石を投げ込むわけですから「水樽」の漁師さんたちは背中の肩甲骨のあたりが異様に盛り上がっていたそうです。集落までの通学路なんてある様でなくて海の潮が引いている時は海辺を歩き、潮が満ちている時は山をぐるりと廻り一山超えなくてはいけなかったそうです。今の鹿児島の地図に記されている「水樽」の位置は間違っていると笑ってられました。


僕の家の近所に子守に来ていたという方が差し出された携帯電話に出ると、僕の家の一軒隣に住んでいた同級生からでした。今は結婚をして福岡に住んでいるそうです。彼女は中学卒業と同時に集団就職で東京に働きに出ていました。幼馴染の声を聴いたのは数十年ぶりのことです。僕らは空白の時間が無かったかのようにお互いに子どもの頃のまま「ちゃん」づけで呼び合っていました。



幼馴染は朝日新聞を読んだことと、僕の母の葬儀に出席できずに申し訳なかったと何度も何度も繰り返しました。子どもの頃僕の母に動物園や博覧会、美術館に連れて行ってもらったことを忘れていない。あの頃お母さんのお陰で恥かしく寂しい思いもしなくて済んだと涙まじりに話してくれました。たぶん動物園などには僕も一緒だったと思うのですが誰と一緒だったかは覚えていませんでした。彼女は母にお礼を伝えることなく別れが来たことを悔やんでいました。帰省したら必ずお墓参りに行くからお墓の場所を教えて欲しいと。お墓参りのことも嬉しいことでしたが、子守に来ていた方や幼馴染の記憶の中に母が生きて存在していることが何より有り難く嬉しかったです。


その日から数日して電話が鳴りました。「分かるね。元気しているね。」声の主はすぐに分かりました。僕の家の菩提寺の大奥さんで僕の幼稚園の先生からでした。「墓参りに戻ってこんといかんよ。」と先生にやんわり怒られてしまいました。


両親が二人とも他界していることもあり、もう故郷はこのまましだいに遠くなっていくかなと頭の隅でぼんやりそんなことを考えていた時期もありましたが、有り難いことに両親が存命だった頃より故郷とのやり取りは増えて来ています。


中学時代の番長が突然段ボール一杯のソラマメを送ってくれたり、野球部のエースが時々同級生の近況を教えてくれたりと有り難いです。帰省しても僕が生まれ育った頃とは地域はすっかり様変わりしてしまい道に迷うこともしょっちゅうですが、それでも帰りたくなったらいつでも帰る場所があるのだと思えるだけで生きる勇気が湧いて踏ん張れます。目を閉じれば頭の中に干潟の海と桜島が広がります。どんな困難な状況に直面していても小学校時代の同級生の姿や顔を思い浮かべると涙が出てくるほど心が穏やかになっていく自分がいます。


それはただ子ども時代が懐かしいということだけではなくて、小学校での出会いは対等だったからだと思います。素足の子も草履の子も靴の子も、服のボタンがちゃんとついている子もいない子も頭のいい子もそうでない子も、学校にお弁当を持ってこれる子も持ってこれない子も皆等しく同じ学校に通い小学一年生になれたからです。ただ残念なことに学年や年齢が上がって行くにしたがい人間関係の中に社会の物差しや価値観が入り込んで来て少しずつ関係性に変化が生まれていきます。それだけに僕にとって小学校時代の同級生は宝物のような存在なのです。たぶん故郷が故郷として僕の中に暖かく存在しているのは対等な人間関係が基本にあり人生がスタートしたからだと思います。


故郷のことを書いたのは故郷を追われた福島の人たちのことが気になって仕方がないからです。たぶんもう一生帰れなくなった故郷を持ってしまった福島の人たちは心の拠り所をどうしているのだろうか。僕は毎日のように吉祥寺の街に散歩がてらに出かけていますが、吉祥寺は先の震災は勿論のこと原発事故が起きたなんてまるで何事もなかったかのように華やいで何時も賑わっています。それはそれでいいことなのですが、街角を行き交う人々が意識的に原発事故を考えないように毎日過ごしているかのように僕には映ります。


それぞれ皆さんの故郷がまだ存在している間に文明の利器との付き合い方を今考えないと狭い国土の日本は消えてなくなるかもしれない。地続きの大陸で万が一のことが起きたとしても陸続きでなんとか逃げることが出来るでしょうが、海に囲まれた僕らは逃げようがない。直ぐに変えられないことでも諦めないで議論し続けることが大事なのだと自分に言い聞かせている毎日です。


 





・昨年末、知人の好意で富士山の麓にある雪に囲まれたガラス張りの家でローズマリーを使って焼き上げたチキンを食べながらクリスマスを過ごすことが出来ました。マリア・カラスの歌声が響き窓の外では野生のテンが姿を現し頭の上には満天の星空。お陰で一年を穏やかに終えることができました。



・マーマレードが無くなり困ったなと思っていた矢先に、松山から甘夏とレモンが届きました。これでまたジャムがつくれます。でもジャムが完成したらしたで、今度はドイツパンが恋しくなるから困ります。



・新聞を整理していたら政府広報欄にお世話になった方の名前を見つけました。新しい役職名を見てただ優秀だというだけではなく日々、真面目に努力をなさったのだろうなと感心しました。



・自然災害のニュースが余りに多い中、小笠原沖に噴火により生まれた新島は久しぶりに心躍る出来事でした。生き物地球紀行の島版だけに、週に一度ぐらいは島の様子を写真で知りたいと願っています。



・作品造りや体制を整えるために気をとられてしまい、何年間も失念してしまっていたのですが、作品集『視線』と『BERLIN』がごっそり出てきました。いま急いで郊外にトランクルームを探しています。このままだと作品に囲まれたホームレスになるのが現実になりそうなのでなんとかしないといけない。



・二月、三月、四月とレクチャー、講演、対談が予定をされていますので、またきちんと告示できると思います。



遅くなりましたが、APOCCともども今年も宜しくお願いいたします。




●2013.12.12


いつのまにか冬が始まっていて今年も残すところ僅か。

身体がぼんやりして季節を感じなくなっていたわけではなく、いつになく判断をしないといけないことが多くバタバタしてしまいました。

11月の中旬には福井からの帰りに新潟県の妙高高原の麓を走る高速道路で雪に降られてしまいました。まだ夏タイヤだっただけにこのまま高速道路に閉じ込められてしまうのではないかと足元は震え背筋が凍る思いでした。やっとの思いで雪道を通り抜けた後の身体は緊張と恐怖で固まってしまい、途中のサービスエリアでトイレに行くときの歩行はまるでロボットみたいにぎこちない感じでした。ただ雪に降られる前は天国の麓を走行している気分でした。

福井の永平寺を散策した後、高速に乗らずに白山の麓を走り福井から石川に抜ける山越えを選びました。このルートは日本人シリーズの撮影で何度も走ったことがあります。人を探し写真を撮るという目的ではなく目や意識を自由にさせて身体の喜びだけで車を走らせるのは久しぶりのことでした。小雨模様だったこともあり九十九折に重なる尾根が変わるたびに虹がかかっていました。虹の始まる場所を走り抜けたと思うとまた目の前の尾根の麓に虹がかかっている。文字通り虹のトンネルを抜けての走行でした。石川県に入り白峰地区にある、WOMANと太鼓の撮影でお世話になった「ダルマカフェ」で巨大なお萩も買うことが出来ました。お萩は日本海を見ながら食べました。そうここまでは極楽でしたが自然は本当に怖い。

福井詩祭の会では、スチルムービーを試みましたが、皆さんの好奇心に満ちた集中力をヒシヒシと身体で受け止めながらの朗読になりました。「こんなのは見たこともない、初めての体験」「画像や人が変わる度にいろいろ考えることが出来ました。一つ一つの間が絶妙で良かった」「これは抒情詩だと思った」さまざまな意見・感想をもらいました。朗読と映像の間に言及していただいたのは初めてのことです。芝居に影響を受けて始めた試みだけに嬉しい感想でした。

それより僕が感銘を受けたのは詩人の会に参加された皆さんの佇まいでした。顔は日に焼け身にまとう服も毛羽立ち質素で身体もがっちりした方が大半でした。長靴の方も何人かいました。補聴器をつけ指の節は僕の親指程に太くそんな指でテキストを持ち朗読をされる姿には感動すら覚えました。農作業の合間に言葉を編む。生きて表現するとはこういうことなのだと教えられた一時でした。ネクタイを締めて出かけて良かったです。経費等で福井の皆さんは大変だと思いますが、また違う内容のスチルムービーを持って詩祭に参加出来たらいいなと思いました。

四万十や松山では、日程に追われてしまいましたが、松山では中高生と一緒に朗読をできたのが良かった。それに僕に作品を見て欲しいと文化祭で展示したパネルをそのまま抱えてきた学生たちの作品展示が会場側の配慮で即座にスタートしました。せっかくだから作品を見てもらえばと生徒たちの背中を押した先生。段ボール箱にパネルを入れて運んできた生徒をみて展示の場を用意してくださったフリースペースを運営する人たち。ナイスな大人たちでした。

四万十では古民家を改装した民宿に泊まりました。土間をあがると囲炉裏が切ってあり、囲炉裏を挟むようにして寝室と台所に分かれていました。お風呂は五右衛門風呂でした。畳とは無縁の生活だけに荷物を置きに寄った時、畳を見ておもわずゴロンとしてしまいました。今回は時間の関係でただ寝に帰っただけでしたが次回は囲炉裏端でゆっくりご飯を食べたいと思いました。

ハンガリーから来日されたペトラーニさんとは良い時間を持つことができました。僕は地方に出かけていたこともあり最初と最後しかお付き合いすることが出来ませんでしたが、ペトラーニさんの表情がこれまで見たこともない柔らかい表情に変わっていたのが印象的でした。立教大学以外でもレクチャーの機会を持ちたいと連絡を受けたのが、来日される20日前でした。時間が限られているなかで東京、八丁掘にある日本写真学院、そして北海道大学の関係者が尽力してくださり場を設けてくださいました。そして久保元幸さんのプラチナプリントの現場である「アマナサルトの工房」も見学されました。

3週間という限られた滞在の中で充実した時間が生まれたのは招聘元の立教大学の対応があってのことですが、ペトラーニさんを迎えてくださった日本写真学院、そして北海道の人たち一人一人の思いやりとペトラーニさんやハンガリーに対するリスペクトが交流の基本に有ったからだと思います。

ペトラーニさんは元現代美術館の館長であり、現在国立ハンガリー美術館の現代部門の責任者です。そんな要職についていらっしゃいますがハンガリーはEU圏だとはいえ経済的に困難を抱えている国です。ハンガリーが持つ文化の蓄積に関係なくペトラーニさんが置かれている状況も決して楽ではないことを立教大学には勿論ですが、日本写真学院の方や北海道の人たちに最初にお伝えしました。それを受けてペトラーニさんと向かい会ってくださった皆さんに感謝です。ハンガリーそしてペトラーニさんと立教大学、日本写真学院、そして北海道の人たちと新しい関係が生まれることを願っています。

ベルリンのホテルBOGOTAはこの11月30日をもって閉鎖しました。詳しいことは中村真人さんのベルリン中央駅というブログで読むことが出来ます。僕は直前までマイレージを使いベルリンに出かけることを迷いましたが、BOGOTAというよりオーナーのリスマンさんとはこれからの付き合いが大事でBOGOTAが消えて無くなるという現実に感傷的になってはいけないと思い留まりました。

今後の連絡先についてリスマンさんとやり取りをする中で「僕は家を失ったのでこれから探さないといけない」と有りました。クリスマス前の街が一番華やぐ中での現実だけに言葉が見つかりません。BOGOTAの危機が明らかになった後、署名活動が起こりました。ベルリンは勿論のこと世界中でBOGOTAのことを気にかける人たちが署名をしました。

日に日に増えて行く名前を読みながらいつしか会ったこともない人たちに僕は思いをはせていました。リスマンさん家族も同じ様な思いだったのではないでしょうか。署名が増えたからといってBOGOTAやリスマンさんが抱える負債が少なくなるわけではないですが、署名された名前をなぞることで人の存在というか顔が立ち上がって来ることを感じた時に小さな勇気みたいなものが湧いてきました。連帯というと大げさかもしれない。でもどこかで同じ思いを共有する人がいる。インターネットで署名全体を把握できたことで署名という行為が持つ意味を始めて体感した気がします。

ですが目的人数に達してしばらくすると無情にも署名の部屋は消えてなくなりました。署名活動はBOGOTAの状況・ベルリンの文化状況を広く知らしめたのは確かなことですがなんか腹が立ち「くそ」という思いです。




●2013.9.23


 連絡をどうもありがとうございます。あなた方はお元気ですか?
時折ボゴタの署名の数を見ながら、早く十分な署名が集まるようにと思っています。名前を見ながらどんな人でどんな顔をしているのだろうとさまざまな想像をしていますよ。


 ボゴタの問題はベルリンに限らずグローバル社会では、至るところで起きていることの一つです。特にベルリンでは目を覆うほどです。クリエイティブであるかということよりも、コマーシャルが優先されているのが現実なのです。

 もちろん、リスマンさん一家のことが心配ですが、あなたたちが東京でそうやって応援してくれているのを知るのはとても良いことです、どうもありがとうございます。

 私はまた例年通り、これから一か月間メールも何も連絡がつかない母のところに行きます。
新しい作品にとりかかっていると聞きました。また長くかかりそうですか?作品を見れる日が来ることを楽しみにしています。

                                            ベルリンより


HOTEL BOGOTAは署名活動や人々の関心が届いたことで、建物の一部は残ることになったそうです。ですがリスマンさん家族はあの建物から追われるそうです。建物の一部が保存されたとしても、魂が排除された場所にどれだけ意味があるのか。

リスマンさん家族がどんなに素晴らしい人々だったとしてもこの経済システムの中では敗者にされていく社会。この社会システムの中で生きて暮らしている以上いたしかたないことかもしれませんが、やはり悔しい。

僕が身を置くアートの世界でも、とにかく大きな流れの中に身を置こうとしている人が特に若い人たちの中に増えてきたような気がします。

この現象は若い人たちを嘆き責めれば済む問題ではないかと思います。僕が30代のころは貧乏するのは怖くなかった。貧乏が怖くないというより、異なるリズムを持った人たちの意見や声に耳を傾けて受け止めてくれていた社会が存在していたという現実があったからです。誰も知り合いのいない東京に鹿児島から上京してきた僕が自分の考え思いを写真という形にしながらなんとか生きてこれたのは、紹介や推薦がなくても電話一本で向かい合ってくださった人々がいろんな場所に居てくださったから。別な言い方をすると壁は目の前に聳えていたが、いつもどこからか風は吹いていた。

23号前の橋口便りで迫田さんみたいに新しい価値観のもと移住をして新しい場所で生きている人が増えて来ているその先に日本は変わる気がすると書きました。実は迫田さんと一緒だった福井の池田町で僕が迫田さんの存在・生き方を知ったにも関わらず最初に言葉にしたのは「日本人シリーズで日本の様々な場所で人に会えば会うほど、一人一人個人の思いと関係のないところに今の日本社会が存在している気がしてなりません。感じるのは、今の日本を包んでいる空気は好きではないがもう流れるしかないという無力感です。東北を歩いている時には、ここから日本は変わるとヒシヒシと身体に伝わるものを感じました。ですが東北から戻るとまるで何事もなかったかのような東京と日本が目の前にありました。」とまったく真逆なことを僕は喋っていました。

・知人の好意により吉祥寺で暗室を使わせてもらっています。家から自転車で5分の場所です。まだフィルム現像道具しか移していませんが、それでも随分と部屋の視界が広がりました。暗室ではジョンレノンのCDを流し躍るような感じでフィルム現像をやっています。飛んでも跳ねても平気な作りの暗室なのです。

104日に四国松山では新しいコミュニティーづくりを模索している人たちと。
105日に四国四万十で、四万十川流域に暮らす人たちと一緒にワークショップの話やスチルムービーを試みることになりました。

四万十では村人全員が対象の試みになります。対象年齢が様々というのは、2000年にインドのデカン高原で村の人々の前で初めて試みたスチルムービー以来になります。
そして四万十川の廃校になった小学校ではベトナムの子どもたちの写真展も5日から始まります。松山も四万十も参加は自由です。(迫田司氏のホームページで確認できます)

四万十では四万十の天然ウナギと鮎をご馳走してくださるそうです。実は四万十から講演依頼の電話を頂く前日、アシスタントと夜ご飯を食べるお店を探しながら歩いていたところ、ウナギ屋の看板が目に留まりました。「今年は結局ウナギを食べれなかったね・・・今年は我慢だね」と看板の前でため息交じりで言葉を交わした後の電話だっただけに、もうそれは天からの声のようでした。そのことを話すと「食べれんで良かった、食べれんで良かった、天然ウナギが待ってます」と慰められてしまいました。

1024
東京池袋にある立教大学の公開講座で元ハンガリー現代美術館の館長で現在は世界各地の大学で講演授業をなさっているZsolt Petranyi氏の講演会が開かれます。講演の後に氏と対談をすることになりました。



●立教大学の案内文より

【公開講演会+対談】
「東欧と日本の文化交流の経験:社会ドキュメンタリーの観点から」

日時:20131024日(木)18302030
会場:立教大学池袋キャンパス、マキムホール(15号館)3301教室
講師:ツォルト・ペトラーニ氏(ハンガリー国立美術館現代美術部門主任)、橋口譲二氏(写真家)
料金:無料(予約不要)

<概要>
ベルリンの壁が崩壊して20年以上が経ち、世界は大きく変貌しました。東欧諸国でも日本でも、冷戦終焉後の変動する社会はさまざまな芸術表現を生み出しています。立教大学異文化コミュニケーション学部では、ハンガリーと日本を頻繁に行き来してきたハンガリー国立美術館現代美術部門主任ツォルト・ペトラーニ氏と冷戦期から東ヨーロッパの変化を長く見つめ続けてきた写真家橋口譲二氏を講師にお招きして、公開講演会と対談を企画しました。ドキュメンタリー写真に表現された両国の社会の姿を比較、考察し、東欧諸国と日本の文化コミュニケーションの重要性を語っていただきます。ふるってご参加ください。

主催/問い合わせ:
171-8501東京都豊島区西池袋3-34-1
立教大学異文化コミュニケーション学部(電話:03-3985-4824


1110
福井県福井市で福井市在住の詩人そして小学生の詩の朗読に合わせてスチルムービーを試みることになりました。追って詳細をお知らせできると思います。

久し振りの橋口便りがとても長くなりましが、これまで管理をしてくれていた伊藤綾子さんが生活の場が東京から地方に変わることになりました。そのこともありホームページの管理がしばらく滞りそうなためにこうして纏めて報告をさせていただきました。

この夏の尋常でない暑さと更新されない橋口便りを見て心配をされたのか「今話しておかないと後で後悔しそうで電話をしてみました、元気ですか」と昔からの読者の方から電話がありました。有り難いです。

電話と言えば、僕のデビュー作「視線」に登場してくれた二人から相次いで電話がありました。二人とはそれぞれ1980年に新宿の歌舞伎町と原宿の竹下通りで知り合いました。

一人は「ジョージさん元気、携帯を壊してどうしようと思っていたら、昔の携帯が見つかって電話してみた。ジョージさんも元気かなと。私はもうババアになっちゃったよ。でも元気よ。良かった連絡がついて。またね」と。そしてもう一人から「務めが終わってしばらく何もできなかったけど明日から福島で除染の仕事をしに行きます。福島に家も借ります。今度は国の仕事ですから。落ち着いたらまた連絡をします」。除染の仕事と聞き正直複雑な気持ちになりましたが自分を弾いた社会にも拘らず、社会や人々の為に役に立てるのだと弾む声に涙が出てきそうになりました。




●2013.7.21


BOGOTAの署名について資料を補足します。

HOTEL BOGOTA署名活動のサイト
https://www.openpetition.de/petition/online/das-hotel-bogota-soll-leben

※署名活動サイト(記入欄)の翻訳
Vollständiger Name(名前(フルネーム)) 名、姓の順で入れてください。
Postleitzahl Ort (郵便番号と都市名)
Straße Hausnr. (通り名・番地。例えば、世田谷区 桜堤ぐらいで問題ありません)
Email (Eメールアドレス) ※記入しなくても大丈夫です。ただ新しい情報を必要とされる場合には必須。

<チェック欄>
Anonym unterschreiben (匿名を希望する時にはここをチェック)
Informationen zu dieser und ähnlichen Petitionen bekommen
(この請願とその他の似たような請願についての情報を得たい人はチェックする)
Adresse mit dem elektronischen Personalausweis verifizieren
(住所が電子身分証明書(おそらくドイツ国内のIDのこと)のものと同じであることを証明する) 
日本人は関係ありませんのでチェックしなくて問題ありません。

最後に、国籍を選ぶ個所が名前を記入する欄の下にありますので、
カーソルでJapan(日本)を選んでください。

友人の天野太介さんがBOGOTAを撮影していました。




























●2013.6.30

約一か月程前に、ベルリンの中村真人さんから「HOTEL BOGOTAがこの秋で閉じることになりそうです」と連絡が届いた。エッと思いつつもなんとなくどこか頭の隅で予測するものがあったのか驚きは意外に小さいものでした。その代わりに何処に向けていいのか分からない怒りみたいなものがこみ上げてきました。

一年程前にホテルのこじんまりとした中庭でオーナーのリスマンさんとコーヒーを一緒に飲んでいた時でした。「ホテルの写真は撮ってない?」、「写真は撮っていません」と答えるとリスマンさんは、「ここはホームなんだね」、「いつMr.橋口の写真をこのホテルで見ることができる?」、「僕の展示よりも他で機会のない人を優先してあげてください」、「そうだったね」と、短いやりとりを交わしたことを思い出した。リスマンさんは椅子に腰かけたまま顔をあげて中庭に面した部屋の窓を何かを確かめるかの様にゆっくり見渡し、そのあと視線を靴先に落とされた。その時は少し疲れてられるぐらいにしか思わなかった。

リスマンさんはホテルの仕事の他に時間単位でほぼ毎日サポートや援助を求めて来る人たちとの面談に追われて忙しくされていた。僕が中庭に居ることが分かると何時もは水かコーヒーを運んで来てくださるだけで椅子に腰を降ろされる様なことは殆ど無かった。リスマンさん自身が忙しくされていることに合わせて僕の思索の時間を邪魔したくないという配慮からだった。

それだけに普段と違うリスマンさんの様子を見てどうしてあの時にリスマンさんの変化に気がつかなかったのかと悔やみます。BOGOTAと出会ってからこの20年余り、ホテルで働いている人たちは殆ど変わることがなかった。だけどこの一年半程前から、フロントで働く人や朝ごはんをサーブしてくださる人たち、ルームメーキングの人たちの顔が少しずつ変わって来ていた。今思うとその頃からホテルを取り巻く環境はじわじわと逼迫していたのだと思います。小さな変化の先にあることに気がつくべきでした。

BOGOTAを巡る詳細は何時か中村さん自身のブログやお仕事等で報告してくださるかと思いますが、大雑把に言ってしまうと89年にベルリンの壁を崩壊させてしまったグローバル革命の波がとうとうBOGOTAまで押し流そうとしているということだと思います首都機能が整備されるのに合わせて新しいホテルが次々にオープンしたことも影響しているのでしょう。

そして、ホテルの近くを走るクーダム大通りは世界の有名なブランドショップが数キロも軒をつらねる通りに変貌してしまいました。 クーダムを見ているとドイツのお金持ちを相手にというより、旧ソ連・東欧圏のお金持ちを相手にするのだろうなと勝手に想像したりしています。旧東欧圏の人たちが歴史的な意味合いからパリやロンドンではなくてベルリンを目指すというのはなんとなく分かる気がします。子どもだったころ僕の地区の人たちが、鹿児島で意識する都市は東京ではなく大阪でした。ブランドショップだけではなく、旧東ベルリン地区からC/Oベルリンを始め主だった写真ギャラリーが BOGOTAから歩いて15分のZOO駅の向かいにあるベルリン写真美術館の周辺に移り始めているそうです。しばらく前にベルリン日独センターの文化部の方からコンテンポラリーアートを扱うギャラリーと写真ギャラリーのすみ分けが始まったようですとお便りをいただいたことを思い出しました。

僕が重宝していた靴屋で、少し色あせたり表面が太陽の光で焼けたりして左右の色が絶妙に違うB級品を扱う靴屋がBOGOTAの近くにありましたが、靴屋とその両脇のお店も一緒に閉じて郊外に引っ越したそうです。そこで暮らす人々の思いに関係なくベルリンの街の再編が確実に進んでいるようです。(今日の新聞に偶然にもベルリンの不動産バブルの記事が出ていました)


アコーディオン式のドアを開けて乗り込むエレベーター。暖房が入り空気が乾燥するのに合わせてパリパリと音が鳴るフローリングの床や廊下。寒い冬の朝、食器とスプーンが擦り合う音が静かに響きあう厳かな雰囲気が漂う朝食ルーム。各フロアーに用意されている読書ルーム。僕はヨーロッパ社会が持つ簡素で上品な文化の一つをHOTEL BOGOTAで学んだ。

20年前のあの頃数か月間、僕は撮影から戻ると一台の電気コンロを使いホテルの部屋でご飯を炊き味噌汁をつくりお金を節約しながら体力と気持ちをコントロールしていました。

HOTEL BOGOTAと出会っていなければ作品「BERLIN」も「Hof ベルリンの記憶」も間違いなく質の異なる作品に仕上がったと思います。

街は生き物で移り変わることは自然なことですが、リスマンさんの家族みたいに国籍・経歴・評価に関係なく若い芸術家を応援し続け、自ら設営などで汗をかいてこられた人たち家族が資本の思惑で生活が壊されて行くのが悔しいです。

BOGOTAと日本との関係についてですが、5年程前からホテルの2階~5階にかけての吹き抜けを使わせてもらい日本人若手の作品発表の場として開放していただいています。

吹き抜けでのパフォーマンスを試みるに当たり「日本人は公の場でのマナーに欠けている人が多いので不快なことも多々ありますが、未来を夢見てみませんか」とリスマンさんに提案をしてみたところ「このHOTELが役に立つのなら喜んで」と。それ以来今日までリスマンさんとHOTEL側は設営・オープニングの費用・展示作品の管理を引き受けて来てくださっています。この2月には6年目に入るにあたり5年続けたことで見えてきた問題点や課題を基に新しい体制をつくり直しましょうとリスマンさんや中村真人さんと話したばかりでした。ただこの時のやり取りの後に、ちょっとこれまでとは違うニュアンスを受けたことを覚えています。ホテルの写真を撮ってないかと尋ねられた時のリスマンさんを思い出すべきでした。

この3月には新しいオープニングを迎えました。

中村さんが届けてくださった資料によると、この3月には債務不履行が顕在化していたようです。そんな状況にも拘わらず設営やオープニングを滞りなく開いてくださいました。ただオープニングの挨拶でリスマンさんはクーダム大通りに忍び寄る経済的な変化と吹き抜けでの展示の経緯についてしみじみとした感じで話されたそうです。

この先BOGOTAがどの様に推移して行くのか想像つきませんが、リスマンさんとはHOTELの存続に関係なく今まで通りお付き合いができればと思っています。

お金ってなんなのでしょうね?
お金は本来大切なもので僕らの暮らしの中で無くてはならない大切な存在なはず。お金は価値観や宗教の違いを超えて人々や体制の異なる国々を繋ぐことができる存在。お金を文化と置きかえてみたらどれだけ繊細で大切なものか分かると思います。

その大事な存在であるはずのお金が人間の無責任な存在として都合よく使われ始めて随分長い歳月が流れた気がします。人間の欲望を正当化する為の存在としてのお金と言いかえることもできます。

僕らが生み出したグローバル経済のうねりを修正することはもう不可能なのでしょうか。

ベルリンに行く予定のある方はBOGOTAを使ってあげてください。古いホテルなので不便な面が多々ありますがお金では買えない時間が流れているホテルです。

下記のサイトでBOGOTAの現況が報告されています。(中村さんが届けてくださいました)


HOTEL BOGOTAに関するニュース記事
http://www.bz-berlin.de/bezirk/charlottenburg/traditions-hotel-bogota-steht-vor-dem-aus-article1675338.html

HOTEL BOGOTA署名活動のサイト
https://www.openpetition.de/petition/online/das-hotel-bogota-soll-leben
↑ベルリンの文化関係者が中心になりHOTELを残す為の署名が始まりました。ノーベル文学賞を受賞されたヘルタ・ミューラーさんもBOGOTAの存続を願って署名されています。このようなHOTELが残って欲しいなと思う方は日本からも署名活動に参加できます。


良いニュースです。

・中村真人さんの「素顔のベルリン」がこの夏増刷されて3刷りが出るそうです。

・一時製造中止になっていたAGFAの印画紙とJOBOの現像機の生産が復活をしました。
JOBOの現像機ですが、最近フィルム現像の時にボンヤリすることが増えたこともあり、知人の助けを借りてフィルム現像機を手に入れました。これで6×6版のフィルムはいっぺんに8本。4×5サイズで10枚フィルム現像ができます。できるというより滞っていたフィルム現像がはかどるかと思います。

・千葉で有機農業を営んでいる知人夫婦と偶然吉祥寺の街で行き会いました。楽しかったのはたまたま3人とも同じドクターマーチンの靴を履いていて、街角でお互いの靴を褒め合ってしまいました。別れ際に思い出したかのように知人が「ゴーヤチャンプルを作る時に豆腐の水抜きをちゃんとしていますか」と。ありがたいです。

・先の橋口便りで四万十河の鮎の引っ掛けに触れました。
たまらなく釣りがしたいというか、魚がいる環境に身を起きたくなり、YouTubeで渓流釣りを検索していたところ鮎の引っ掛け漁の映像が見つかりました。鮎やウナギの裁き方の動画まであるのには驚きました。

池田町でのことは次号で。






●2013.5.25

先の連休の初め、福井県池田町に23日の日程で合宿型セミナーにパネラーとして呼ばれました。パネラーは僕の他にもう一人、四国高知県の四万十川流域にある小さな集落に住み田んぼをやりながら地域に根ざしたデザインの仕事をなさっている迫田 司さんでした。迫田さんの存在や営みは風の便りで聞いていただけに、この様な形で会えることを楽しみに池田町に向かいました。


僕は新幹線と在来線を乗り継ぎ池田町に入りましたが、迫田さんは松山―羽田―小松と飛行機を乗り継いでの移動でした。

迫田さんのプレゼンテーションは3日間とも驚きと発見の連続で楽しく充実した内容でした。地元の農産物に商品性や付加価値を見出して行く営みも興味深かったのですが、温めた左手をマムシの前にかざし、右手で横から首根っこを押さえるマムシの掴み方だとか、鮎の引っ掛け、鹿の裁き方だとか、ウナギを竹串に通さず焼くといかにウナギの身が縮むかとかいった話に心が躍りました。

迫田さんはデザイナ―としてのお仕事をなさりながら、地域と外の世界を繋いでいました。

四万十に移住をして10年目にやっとその谷の一番上にあり森に戻りかけていた休耕田を村人から貸してもらえたそうです。谷で空に一番近い田んぼだと形容されていましたが、別な言い方をすると谷で一番不便な場所だとも言えます。

迫田さんは地域の文化や暮らしに敬意を払いながらも、100%地域に迎合することなく時には村の人々に頭に来たり時には笑い飛ばしたりしながら村人を誉めおだてながら、村人が培ってきた生きる知恵を学び自分のものにされていました。迫田さんの他にも四万十川流域には日本各地から移り住んで来た人たちがいます。迫田さんはそんな仲間たちと自分たちのイズムを四万十での暮らしの中に具現化させていました。迫田さんの報告を通して若い人たちの生産性を伴ったしなやかな姿に心が躍るとともに「こういう人たちが生きた後に新しい日本が確実に生まれるな」と勇気づけられる思いでした。

迫田さんたち以外にも日本の様々な場所に移り住み自分たちの暮らしを実践している人たちの存在を僕は知っています。東京や世界の都市を見ているとグローバル社会に根ざした一つの物差しが強固に社会と生活を支配していますが、「東京」から一歩外に出ると日本は確実に「東京」と「ミニ東京」の間にある地方の隙間で変わり始めている気がします。

僕もパネラーの一人だけに、本当は迫田さんの話を聞き僕の考えを返していかないといけない立場だったのですが、迫田さんの報告の中についつい自分の20代の頃のことが重なってしまい深く考えさせられました。そしてもう一つの生き方を探し求めて日本の隅々に移り住んでいった旅仲間のことが頭をよぎりました。

当時はアメリカから飛んで来たサブカルチャーに刺激を受けて歩きだしたところまでは良かったのですが、現実は「大きく立ちふさがる日本」を目の前にして理念が先行してしまいほぼ毎日喧嘩をしていたような気がします。当時は地域や自分たちと価値観が異なる人々に寄り沿い生きるという感覚が欠落していました。欠落というよりみんな余裕がなかったのだと思います。自然体で生きたいと願いながらも自己顕示欲が先走っていたような気がします。(続く)





●2013.4.29

スーパーの地下でインスタント食品のごまあえの素を見つけた。ごまあえも簡単に作れる時代なんだと少し驚いた。そして子どもの頃、母が土間ですり鉢を使いごまを擂っていた光景を思い出した。


マニラから3時間程離れた山村で暮らす知人にごまあえの素を送ってあげようと思い、村の市場でオクラやインゲンが手に入るか尋ねてみたところ「インゲンもオクラも買うことができます。特にオクラはフィリピンから日本への輸出作物の一つです。ただ、日本で食べるオクラと違い、こちらの人はできるだけ大きくしてから収穫するせいか、とても筋張ったオクラです。日本への輸出用のものは7センチ以下で早朝に収穫しているそうです。直ぐに大きくなってしまうようで、収穫は時間との勝負というのを日系のフリーペーパーで読んだのを覚えています」と便りが届いた。

フィリピンからの便りを読みながら、僕が小学生の頃のことを思いだした。鹿児島では柔らかい産毛の生えたオクラを千切りにして醤油をかけて生で食べるのが基本で、「オクラ」をカレーやシチューに煮込んで使うと知ったのはインドでカレーを、ベルリンでトルコ料理を食べてからです。余談ですが醤油もお味噌も祖母の手によるものを食していました。前にも一度話したが僕の家の野菜畑は通学路の脇にあったこともあり、学校の行き帰りに朝晩畑の様子を見るのが僕の日課の一つだった。僕が子どもの頃は「オクラ」は今ほどポピュラーな食材でなかったことに加えて朝と夕方では目で見えるかたちで大きさが違い、成長の不思議を目の当たりにできる作物だった。クリーム色がかった黄色いオクラの花が夕闇の中で浮かんでいる様を今でもよく覚えています。

オクラの表面に生えている産毛がなくなると一晩で筋張り硬くなり食べにくくなることが分かっていたので、ある長さに育ったオクラを見つけると祖母が収穫し忘れていると思い学校帰りにもいで帰った。でもそれは「種様に残したオクラ」ということが何度かあった。祖母の晩年は視力が弱まり長年の農作業で膝も悪く杖なしでは歩けなかったが経験と知識だけは病に倒れて亡くなるまで衰えることは無く、風や雨、雲の様子、畑や田んぼの隅々まで把握していた。


畑で野菜を朝晩眺めていると野菜語が聞こえてきたりするように、海辺で暮らす人たちも朝晩肌身で感じることで天気予報から街で暮らす僕らにはキャッチできない潮や海の中の様子を掴んだり、海を見ているだけで気持ちが癒され感情の芽生えとの出会いが生まれていると思う。祖母が肉体は衰えても脳が機能し続けていたのは自然に寄り添いながら生きていたからだと思う。

実は先の橋口便りで被災地で気になったことを一度書いて大きく削除したことがあります。その理由は久しぶりの橋口便りで「偉そうに」と受け止められるのは嫌だなと思ったからです。ですが「ごまあえの素」を見つけたことで「オクラ」のあった頃の暮らしを思い出しやはり改めて触れることにしました。

被災地で次の大津波に備えるために、高台移転とより強固で高い堤防造りが復興事業として進められているのを目の当たりにしてちょっと違うなと思う自分がいます。高台移転は漁師や海辺で生まれ育った人たちから魂の源を切り離すことだし、強固な堤防は自然と人間界の気を分断してしまう。多くの人の命や暮らしが奪われて無くなっただけに死や悲しみを無駄にしないためにも、もう少し自然の中で活かされている自分らの暮らしの有り様を見つめ直しても良かったのではと思う自分がいます。安全をとるのか自然との関係を考えるのか難しい問題です。でもどう努力工夫しても自然にはあらがえないことを先の震災と津波は教えてくれた気がします。かといって何もしないわけにはいかないので難しい。

北海道の礼文島で中学を卒業すると同時に漁師になった17歳が「春が来て何時も思うのはよしここからまた今年もやり直せる。季節の中で春が一番好きです。去年一年間どんなに漁が悪くても、春が来て氷が融ければまた新しくスタートできる。春はどんな人にも平等に来るから好きです」このような季節の感じ方を特に福島の人たちは持てなくなったのですよね。僕は地震が起きる度にまた原発にヒビが入るんじゃないかと心配でしかたがない。

・先の橋口便りで山形のお蕎麦屋さんが一月末でお店を閉じることをお知らせしましたが、複数の人たちから「このような社会情勢だから、お店が回らなくなったのですね」という質問が届きました。実は僕も案内をいただいた時に同じように受け止め「これは行かないといけない」とかけつけたのですが、知人いわく「自分で定年を決めたのです。これから写真を撮ります」と大きな三脚に僕が日本人シリーズで使っているペンタックス6×7と同じカメラを2台も買ったと見せてくださいました。そして僕のプリントには「ゴミの跡がないけどどうやっているのか」と質問も受けました。本気で暗室作業にもトライされるようです。僕はフィルム乾燥は空気中の埃を避けるために洋服を収納するためのファンシーケースをフィルム乾燥専用に使っています。

・二人の方が新しくAPOCCの会員になってくださいました。一人の方はベルリンで暮らす方で知人を介して鶴の折り紙と一緒に30ユーロを届けてくださいました。もう一人の方は「社会人一年目が終わり、自分が稼いだお金で少しでも身近にお役に立てればいいなと思い、会員になることを決めました」とメモが添えてありました。この先どうしようかと思い悩んでいると必ずこういう人が手を挙げて下さるのですよね。自分の作品に集中したいのでAPOCCを閉じますと言っても誰も怒らないと思うのですが、新しい人たちにAPOCCを手渡せるまでもう少し頑張ってみたいと思います。頑張るというか継続できる方法を模索してみたいと思います。APOCCもミトローパも仕切り直すつもりです。そして本当に食えなくなったら友だちのカフェで働かせてもらうことになっています。その友だちが楽しいのは僕が働く時には余計なものはいっさい出さずにコーヒーだけにするとか、あと僕の時給をどうするかと今から悩んでくれているところです。友だちは有り難いです。

・作品集「BELRIN」と「Hof ベルリンの記憶」の切っ掛けというか、ベルリンで活動する機会を準備してくださった文芸春秋の編集者の方と、TBSで僕の番組を30本余り、映像化してくださったカメラマンの方がこの3月で退職と配置換えがあり、久しぶりに四谷と新橋で食事をする機会を得ました。退職というのは真面目に生きた人の証なようで僕には眩しい言葉でした。TBSで当時一緒に悩みながら戦った皆さんそれぞれがとても責任ある立場に就いてられて、ついつい自分の今を返り見てしまいました。



四国松山から届いた甘夏で作りました





●2013.3.17

長いこと橋口便りが滞ってしまいました。

昨年夏が始まる前から今日までのこの数か月間というもの、あの日の出来事を東日本でただ大きな自然災害が起きてしまったということだけで片づけてはいけないと思い、時間の許す限り被災地を車で行ったり来たりしていました。

タイヤも冬タイヤに変え、女川で壊れてしまった靴の代わりにこれからまた30年近く履けそうなワークブーツも新しく手にいれました。手に入れたというよりサンタさんが届けてくれたのですが。ただせっかく冬タイヤに履き替えたのに、僕が被災地に入る度に雪はどこかに消えて無い。あるとき余りの雪の無さにスパイクタイヤに雪の感触をと思い、休息もかねて蔵王温泉を目指しました。カーナビに宿の情報を入力してナビの案内通りに車を走らせていたところ、気がついたらスキー場のゲレンデに出てしまいスキーを履いた人たちに車を囲まれてちょっと焦りました。

あの日、大勢の人たちの命と様々な暮らしと引き換えに津波と自然は私たちに何を伝えたかったのだろうかと、瓦礫が片づけられた更地を歩きながら考え続けて来ましたが、幸いにもなんとか一つの気づきを得ることができた気がします。気づきを普遍化することで、あの311日に起きた出来事を地球の様々な場所で生きる人たちと共有できるのではと思い始めています。

ただ福島の相馬・南相馬・飯館村と僕でも入れるところには足を運んでいますが、他の被災地の足元で感じることができた息吹や鼓動とか、何にも音が聞こえてこないんですよね。福島は時間が止まってしまいましたが、他の被災地は復興が動き始めたこともあり撮影をここで止めた。これからは作品を纏める作業に入ります。

雑誌「世界」のグラビアについて報告が遅くなりました。

前に触れた様に世界のグラビアを公募制に切り替えて10 年の時間が流れました。10年という歳月は止める切っ掛けはともかくとして区切りをつけ新しい価値観、視座を持った方にバトンタッチして行くにはいい塩時だと思いました。

いろいろと思うことは沢山ありますが、先のグラビアについて報告を述べてから随分と時間が経ってしまったことに加えて現実に今もグラビアは新しい人々と新しい作品を迎え着実に新たな「世界」が生まれ始めています。その現実を踏まえてこの様な場で触れることは止めにしたいと思います。スミマセン。

一度ドイツの高校生に「貴男はドン・キホーテだ」と言われたことがありましたが、そうかもしれないなと思う自分が居る片隅にエゴイスティックな利害や権威におもねる様な生き方を選ぶよりはドン・キホーテだと思われる方がまだましかなと思う自分の方が強いです。僕は作品をセレクションするだけで、応募作家に会うことありません。一度「HOF ベルリンの記憶」の写真展会場で背の高い30代の男性に声をかけられたことがありました。名前を名乗られて話かけられたのですが、僕の目の前の男性がどういう人か分からずちょっと戸惑いました。彼に自分は写真家を目指していることと、作品の内容を告げられてそこで初めて僕の中で目の前の男性がシンクロしました。

彼は僕の顔を見ておもむろに話し始めました。「作品を選んでいただいて本当に有難うございました。世界に応募した頃は結婚を控えていたこともあり、写真を続けるかどうか迷っていた時期でした。でも選んでいただいたことで、もう少し頑張ってみようと続けることにしました。でもあれから随分と時間が過ぎたんですけど、選んでいただいた作品を超えられるものが作れていないのが今の僕の現状です。」彼が僕に何を伝えようとしているのか、そのことの重さと温かい気持ちはすーと僕の身体の中に入ってきました。

僕は座らないかと会場のソファーを勧めました。僕が腰をかけると彼はその横に座り、大きく一つため息をつきました。何か長年の宿題をやっと終えた後みたいな感じでホッとしたらしく、みるみる彼の顔の表情が柔らかくなって行くのが伝わってきました。腰かけた後は、僕らは殆ど言葉を交わしませんでしたが、僕らの周りにはずっと遠い昔から知り合いだった様だと錯覚するぐらい自然で柔らかな空気が流れていたような気がしました。

ベルリンやケルンで性差別や民族差別を受けながらも、工場で働きながら今も作品を作り続けているポーランド人写真家がいます。見るからに日々節約に節約を積み重ねながら作品を作っていることが伝わってくる彼女にある日一度、「どうして写真活動が続けられる?」と尋ねたことがありました。すると彼女は「貴方が私を見つけてくれたから」と横に置いたカメラバックの中から布に包んだ「世界」2冊を取り出して見せてくれました。

彼女は僕と出会う前にすでにハンガリーやポーランドの公の美術館で写真展を開いている程の作家です。そんなキャリアの持ち主の彼女ですが、作品が招待作品として2号に渡り掲載されたことが彼女のアイデンティティーの一つで、生きる上で大きな支えになっているようです。(応募作家とは会いませんが招待作家とは彼女に限らず面談の場を持って来ました)

彼女は「世界」に作品を発表するまでは8×10という大型カメラを使っていました。
「世界」からいただいた原稿料で日本製の中盤フィルムカメラを買ったと見せてくれました。

ヨーロッパには中盤カメラでハッセルブラッドやローライフレックスという世界の名機がある中であえて日本製カメラを選んでくれた心使いが嬉しいです。

写真展会場に自分の思いを伝えに来てくれた青年や、掲載誌を布に包んで持ち歩いているポーランド人写真家の両脇からいろいろな人々の声が聞こえて来る様な気がします。

僕自身を含めて5年後10年後にみんなが写真を通して社会と関わっていられるかと想像すると、かなり厳しいものがあります。それだけにたとえ一瞬一時期だとはいえ、個々の作家のキラキラした時間に立ち会えたことはとても幸福だったと僕は受け止めています。

ベルリンのHOTEL BOGOTAの吹き抜けを使い、若手日本人作家の作品を発表する試みも今年で5年目を迎えました。この3月にまた新しい作品が披露されます。近いうちにベルリンから新しい作品が届くかと思います。6年目からは新しい体制で臨むつもりです。




僕にポラロイドカメラで撮ることの楽しさを教えてくださった、
山形県新庄市のお蕎麦屋さんから閉店の連絡があり、被災地に行く途中に立ち寄りました。
お蕎麦を食べた後、蕎麦屋のご主人特性の「プリン」が出てきました。



営業最後の夜にポラロイド写真を使った作品スチルムービー「17歳」を
関係者だけを前に朗読上映させてもらいました。

ただ朗読する「
17歳」に登場するお父さんが見えていたために、
その方の思いを意識しすぎたのか感情がこみ上げてきてしまい朗読が途中で中断してしまいました。



                                          写真 柿崎卓美






●2012.12.2

先の連休を使い、福島に出かけてきました。強制非難が解除された飯館村から南相馬に入りました。山間の小さな村 飯館村は、山は色づき何事もないかのような佇まいでした。紅葉に彩られた山々は本当に綺麗でした。

この村で1988年に二人の17歳を撮影しています。その時「将来は酪農家になりたい」と農業高校に通う彼ら二人は話ってくれましたが、この村の何処かに彼らの夢の場所があるはずなんですよね。

南相馬の原町の海辺で、もしかしたらと思い田んぼの用水路を覗きこんだ時でした。僕が田んぼの畔に立った瞬間、水の中でさっと動くものを見つけました。黒い影は一目で鮭だと分かりました。先の津波で壊れた水門から田んぼの用水路に入り込んでいたのです。僕は鮭の姿を見た瞬間もう嬉しくなり、田んぼの土手を人間の陰から逃げる鮭を追いかけるようにして一緒に走ってしまいました。卵を産み付ける場所を探していた鮭にとってはいい迷惑だったと思います。でも間違いなく、用水路も田んぼの土手も汚染されているのですよね。

何にも知らないまま汚染地域に子孫を残しに戻ってきた鮭がとても愛しく感じました。そしてそんな鮭が不憫でなりませんでした。

福島で出会った13歳の少年が「僕は早く選挙権が欲しいです」と強い口調で通りがかりの僕に自分の意思をぶつけて来ました。日本の隅々にきっと同じような思いでいる少年少女が大勢いる気がします。新しく「日本未来の党」ができて良かった。

「世界」のグラビアについて触れるよりも、福島の13歳の少年の言葉を先に届けないといけないと思いグラビアについては先延ばしにしました





●2012.11.24

このところ東北の被災地に出かけることが多くなっていたために、橋口便りが延び延びになってしまいました。被災地に入るまでの移動費(高速料金+ガソリン代)がもったいないために、気力かフィルムのどちらかが無くなるまでは被災地で過ごすようにしています。


今回は途中で一瞬気が抜けてしまい、フィルムの交換作業中にフィルムを感光させてしまうという失態を犯してしまいました。幸いというか仙台市が近いところにいたために、仙台市のカメラ量販店で4×5のフィルムを手に入れることができ、ことなきをえました。(東北の写真愛好家の方にフィルムが置いてあるお店を電話で探してもらいました)。そして街に出たついでにシアトル系のカフェで気分転換もかねて一休みしましたが、水が違うのか吉祥寺で飲むコーヒーに比べて味に濁りもなくストレート感があり美味しかったです。

宮城県の女川で33年間履き続けてきた撮影用の靴底が完全に剥がれてしまいました。45年前から何度となく接着剤で補修を重ねて履き続けてきましたがとうとう寿命が尽きてしまったようです。これでまた出費がかさむのかと気分が滅入りそうになりましたが、靴底が割れて剥がれてしまったちょうどその時は、瓦礫が片づけられ運動場みたいに広々とした海辺の更地を「誰かに会えるかもしれない」と歩いていた少年二人と知り合い、一緒に歩いている時でした。二人とも先の震災で複数の家族を亡くしていました。

中学2年だという二人は僕の意思と少しずれた感じでパタパタと音を鳴らしている足元に遠慮がちにチラチラと視線を送りながら、肩をぶつけあうようにしてクスクス笑っていました。その姿は津波で家族3人を亡くした14歳ではなく、どこにでもいる14歳の少年でした。

グラビアについては今月中にUPしたいと思います。





●2012.9.23

ベルリン日独センターから下記の案内が届きましたのでお知らせします。
ベルリンにおける写真文化の中心の一つであるC/O Berlinで写真のコンペが開かれます。
応募資格は国籍に関係なく年齢が35歳まで。締切は10月19日。

コンペの詳細

(ドイツ語)
http://www.vattenfall.de/de/fotopreis.htm

(英語)
http://www.vattenfall.de/de/file/Application_Photography_Award_2012.pdf_21870483.pdf

ギャラリーでは日本人の写真家に興味を持っているが、現在まで日本からの参加は少なく、毎年開かれているコンペなのでぜひ新しい人たちの応募を待っていますとのことです。大学の先生や興味を持っていそうな方に上記の情報を教えてあげてください。

なお同じ日にベルリンから嬉しいニュースが届きました。
94日に知人を案内して本屋(美術書専門書店、 ビュッヒャー・ボーゲン)さんに行ったところ、「Berlin」の本の位置と価格が変わっていました。 ベルリンコーナーの台の上から、鍵のかかった奥のガラスケースへと。本に説明書きもついていて、価格は190ユーロになっていました。

「世界」グラビアについては、次回に。




●2012.9.2


この夏は宮崎と長野を車で走る機会があった。宮崎ではすでに稲刈りが始まっていたこともあり、さほど感じなかったが、作付から刈入れ時まで、風の影響を受けてない稲穂が実る田んぼを見るのは本当に久しぶりな気がした。長野の伊奈から駒ヶ根にかけて、中央アルプスの山麓と高速道路と並行して走る農道の両脇の田んぼや畑は例年になく青々としていて、自分とは関係のない田んぼや畑なのになぜかうれしくなってくる。目は喜び、身体は窓を全開にして走る車の中に流れ込んでくる空気の中の草いきれを吸い込む。

トウモロコシにしても葉先もちぎれてなく、実を包む葉も変色することなく青々としてしゃんとした姿勢のトウモロコシをみるのも久しぶりだった。乱れていない蕎麦畑を見るのも初めてな気がした。田舎で育ったこともあり農業は自然の影響を受けるものだと分かっているだけに、作付から収穫まで風雨の影響を受けてない田んぼや畑を目の当たりにするのは奇跡に近い。豪雨の被害が列島各地から届けられているが、暑い夏をもたらした、強い高気圧が日本列島に張り付いてくれていたために低気圧の侵入を防ぎ、田んぼや畑の上を風が吹かなかった。今年は日本各地から大豊作の歓声が聞こえてきそうだ。農業も漁業も10年に一度でも豊作、大漁の年があれば、不作が9年続いたとしても「あの年は良かった」と気持ちが折れないのが僕が子どもだったころの農業・漁業だった気がする。

農道脇の農産物直売所でもぎたての梨の幸水を10500円で買った。あと一袋100円のオクラとミニトマトにスイカ。カボチャも買いたかったが機材の積み下ろしの邪魔になりそうなので我慢をした。撮影の間、駒ケ岳から流れ出る河の畔に小石で小さな関をつくり梨を流れないようにして冷やして食べた。梨の糖分で口のまわりをベタベタさせながら、福島の人たちや畑や田んぼの無念を思った。

宮崎に出かける前に雑誌「世界」のグラビアの選考を済ませました。
311日の震災以後、応募作品の中に被災地をテーマにした作品が数多くあった。でもテレビや新聞、震災直後に発表されたグラフ雑誌を超えた作品が無く、選考には残らなかった。今回初めて震災以後の作品が採用された。作品は福島をテーマにした作品です。原発反対、容認に関係なく自分たちが享受している豊かで快適な暮らしの正体や僕ら人間が犯した罪を冷静に写し出した作品でした。88日発売の号に掲載されました。そして98日発売の号では、先のブタペスト滞在で出会った作家・作品を招待作品として紹介します。ハンガリーの農村部で暮らす人々のポートレート作品ですが、どの写真にも作家自身が登場する不思議な写真です。彼が撮影ノートの最後に「作品「背後」を纏めたことで私が学んで感じたことの一つに自分は良い環境に恵まれたことを大事に有り難く受け止めるとともに、恵まれた社会環境の中で生きる責任を感じました。」と結んでいる言葉に胸を打たれました。撮影ノートを読み、自分を写し込んだ意図を少し掴めたような気がする。

「世界」のグラビアの公募を始めてから今日まで100人以上の作家・作品を紹介してきた。88日発売の号でちょうど110人目になります。僕が海外で見つけてきた作品、作家を合わせるとゆうに130人は越していると思います。数字で110人と表示すると大したことはない気がするが、単純に原稿料換算すると、岩波書店の「世界」編集部はこれまでの10年間で総額27,500,000円の金額を若い作家に提供してきたことになる。(110人換算)。この先どう生きるのか何時作品造りを投げ出すか分からない人たちに対してこの金額はある覚悟+新しい人たちを育てるという、社会貢献としての意思を強く示しているかと思います。

そんな意義あるグラビア選考の責任ディレクターとして10年余り関わって来ましたが、まだ編集長には伝えていませんが、年内を持って辞めることにしました。その理由をネット媒体というこの様な場でつまびらやかにはできないが、「僕自身が戦かわなくなった」ということが大きい。

少しここで「世界」のグラビアについて述べさせてください。グラビアのシステムを長年続いて来た持ち込みから公募に切り替えたことで、「世界」のグラビアは必然的に公の場という位置づけになりました。公募規定は未発表作品で性別に関係なく45歳まで。45歳という年齢を定めたのは45歳まで作品造りを続けて来た人はたぶんこの先も続けられるだろうという理由からです。未発表作品と規定したのは、権威主義ではなく写真を発表する媒体が限られている中で、出来るだけ多くの人にチャンスを用意したかったからです。媒体を分かち合うと言い換えることもできます。


少し話がそれるかも知れませんが、僕は「世界」の表紙を撮り始めてからは他の媒体(カメラ雑誌等)で作品を発表して来ていません。その理由は上記の理由と同じで帝国主義的な発想で、出来るからといってあちこちの媒体でやってはいけないという個人的な思いからです。結果この10年余りの間にカメラ雑誌との繋がりも切れてしまい未発表の作品がたまりまくりですが、またこれから新たな関係を一から構築していきたいと思っているところです。

作品を選んで行く過程でなにより大切にしてきたのは、オリジナリティーな語り口と公正な判断でした。写真は存在そのものがコピーだけに重要なのはスタイルや方法論ではなく語り口が重要になってきます。そして写真やアートの世界はスポーツと違い勝ち負けがはっきりしない世界だけに、恣意的なことに左右されがちです。それだけに誰かの推薦、紹介と分かった作品はその場で選考から除外してきました。写真の世界に知り合いがいようがいまいが、スタートラインは同じくしたいと、このことはグラビア公募の生命線だと僕は強く念じて今日を迎えて来ています。

作品さえあれば、東京にいなくてもだれでも応募できるという姿勢で臨んでいるのは、写真展会場のニコンサロンと今はなくなりましたが、かつて平凡社が主催していた「太陽賞」がそうでした。19歳の時に鹿児島から誰も知らない東京に上京して来て、「自分の中にあるぐちゅぐちゃした思いを持ちつつ、時の権力や権威におもねることなく社会と繋がりたい」という思いだけで今日を迎えられているのは紹介や知り合いに関係なく電話一本で作品を見てくださった人たちと環境が存在していたからでした。

現在僕はプライベートで若い作家の作品を見て助言するという営みを続けて来ていますが、彼らは誰一人として「世界」のグラビアに応募して来ません。それは僕が選考する時に困ると分かっているからです。

これまで100人以上の作品作家を紹介してきたということは、選考に落ちた作品、作家は1,000人以上に及ぶかと思います。それにこれから日本の隅々で「世界」のグラビアに何時かは応募したいと密かに努力をしている人たちは数えきれないほどいるでしょう。

そんな彼らは注意深く「世界」や「カメラ雑誌」の動向を見ているのです。見ているのは若い作家志望の人たちだけではなく、公募形式をとる前まで、「世界」のグラビアを発表の場として来ていたベテラン作家たちはまた異なる視線を注いでいるはずです。(続く)

先日、民放連でのCM等の審査が終わりました。エントリー作品を見るのも楽しいのですが(実は体力勝負なのです)分野の異なる他の審査員の講評を聞くのが非常に毎回勉強になっています

作品造りを手伝っている宮崎県の写真家 小河孝浩さんが作品が纏まったお礼にと宮崎に招待してくださいました。



                                          (C)Ogawa Takahiro
宮崎県と熊本県の県境で念願の釣りをする橋口



左からドキュメンタリーフォトフェスティバル宮崎の実行委員長の永友啓一郎さん、
この7月に写真集・写真展「結いの村」を発表した小河孝浩さん、
写真家の芥川仁さん、そしてビールを二口飲んでトロンとしている橋口




                                        (C)Nagatomo Keiichiro
日南海岸の堀切峠

この場所は小学6年生の時に、修学旅行で訪れたことがあります。この時初めて太平洋を目にして地球は丸いということを実感したことを思い出しました。海の向こうの世界を意識したのは確かこの時だった。そんな懐かしい場所でベンチに座り、海を眺めながら永友さんと二人でマンゴーソフトクリームを食べました。





●2012.7.16

東北の被災地から戻りました。

東北は震災前に何度も撮影で尋ねていて岩手までの距離は身体で分かっていたはずなのですが想像以上に辿り着くのに時間もかかり、とにかく広かった。当初は北上して海岸線沿いに8日間かけて南下する予定でしたが、岩手県の小元海岸から釜石までの間で時間は使い切ってしまいました。小元地区をスタート地点に選んだのは以前自分の撮影ではなくテレビの仕事で一日歩いた地区だったからです。小元~釜石の間は瓦礫が片づけられていたこともあり、網膜がオドオドすることもなく、一年四か月前にここで何が起きたのか目の前に残された風景を頼りにゆっくり想像しながらの撮影・移動でした。小元では気がつかなかったことが隣の田老地区に足を踏み入れたことで、「そうだったのか」と思うことがあり、また小元に戻る。小元―田老―宮古―山田町―大槌町―釜石、この区間を行ったり来たりですから宮城県は勿論のこと、岩手県内すら走破できなかったです。

何時何処で夜が来てもいいように、車に毛布や炊事道具から食料を積み込み出かけましたが、寝る場所はともかくとして食べ物に関しては、被災地にコンビニが出来ていて助かりました。復興市場やマーケットで刺身を買い、コンビニでご飯を温めてもらい海辺で食べる。そして携帯コンロでお湯を沸かしコーヒーを入れる。ある意味とても贅沢な時間でした。ご飯を食べている目の前には、大勢の人や家を飲み込んだというのが信じられない程青くおだやかな海が広がっていました。

途中に木造の仮設住宅を設計、プランニングされている方から電話で節目節目に助言をもらい、そして被災地のNPOで活動なさっている人や被災した町の人たちをあの日から今日まで、そしてこの先もだと思いますがお世話なさって来たお寺さんの住職さんとも話をする機会も持てました。被災をまぬがれた幸福に浸ることもなく、お寺さんという公の場であるがゆえに、逃げ出すことも一息つきに離れることもなく、助かった人々のお世話でもう疲れ切ってらっしゃるにも拘わらず僕らに気を使ってくださり恐縮してしまいました。

井上ひさしさんの「ひょっこりひょうたん島」のモデルになった吉里吉里地区では津波で流れ着いた流木を使い、津波で流された自宅後にカフェを開いていた30代の兄弟とも会うことが出来ました。流木を使った掘立小屋カフェ「Cafe Bar Ape」は自分の20代の頃を思いだしてしまい懐かしい感じでした。掘立小屋からは「ここから新しく始めるのだ」という意思がビンビン伝わってきました。でもカフェをやっている人たちは僕の勝手な思いとは関係なく、いい意味でゆるく柔らかい人たちでした。東京に戻る時にカフェに立ち寄った際には、ライブの準備がされている横で、バーベキューをしている人たちがいて楽しい光景でした。それに初めてこのカフェに立ち寄ったとき、昔、旅していたころの感覚でコーヒー代を払わないでサヨナラしかけた自分がいて面白かったです。カフェの人も特にお金を請求される感じもなかった。また8月に東北に出かける準備をしていますが、津波が縁で生まれた新しい人間関係を大切にしていきたいです。そして被災地に必要なことは物やお金ではなく「生きる喜び」だということを自分で確かめることができてよかった。


雑誌「世界」でこれまで3回にわたり作品を紹介してきた写真家・安世鴻さん(アンセホン)の写真展が一時中止と判断されましたが、さまざまな立場の人たちの努力(ここには会場側のニコンも含みます)のお陰で無事に開催されて良かったです。安さんの写真展が中止にというニュースを耳にした時に、ニコンがどうのこうのではなく、この問題で日本の写真家集団、写真文化人はどう動き発言するのだろうかということでした。安さんの写真展開催に向けて動かれた写真人の一人が「ニコンサロンは私にとって憧れの場所であり目標の会場でした、それだけにニコンサロンにはこれからもそうであってほしい」というコメントをだされていました。いたずらにニコンを批判されるのでもなく、見識高い言葉には頭がさがりました。安さんの写真展の問題が起きたことで、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会という存在を知ることが出来たのも良かったです。今月号の「世界」には安さんの作品を紹介するとともに写真展を巡る問題を受けて作家、赤川次郎さんが「表現の自由」について寄稿してくださっています。














●2012.6.16


新緑の草いきれに混ざり梅雨まえのしっとりした空気を深呼吸しながら楽しんでいます。

日本に帰国早々、四国から届いた有機野菜の中にズッキーニがあり、ブタペストで覚えたズッキーニとアスパラ、パプリカ、人参、ニンニクを使った料理を早速試してみました。オリーブオイルを控えめにしたことや、胡椒を控えめにして四国の自然塩を使ったこともあり、ブタペストで食したものより美味しくできた気がします。

有機野菜と一緒に巨大な甘夏が12個も届きました。これで年内のジャムは賄えそうです。実は朝はパン食なために、ベルリンから戻る人にひんしゅくを承知でいつもジャムを買ってきてもらっていました。お蔭さまでというか3年程前からジャム作りを覚えたこともあり、この数年はジャムもひんしゅくも買わずに済むようになりました。ただジャム作りを始めてからというもの、近所の庭先に実ったまま放置してある甘夏が気になってしかたがないです。鹿児島で子どもの頃サツマイモ以外におやつらしいものが無かった時代に遊び半分、かつ切実な思いで近所の友だち数人と人の家の軒先の果物や干物を盗んでいたときの気分というか感情を抑えるのに苦労する自分がいて面白いです。

先日、原発再稼働に関する野田首相の演説をTVで聞き新聞で読み感じたことは「日本人は個人で考えて工夫することを放棄したな」ということでした。

東日本の大震災以前、バブル崩壊やリーマンショックで僕らは永遠の成長はあり得ないということを肌身で学んだはず。無理に無理を重ねた結果の一つが今福島で起きていることだと僕は思います。福島の原発事故がこの先どの様に推移していくのか分からないですが、少なくともこの機会に生活そのものを見直すというか、日本という国の立脚点を問い直すとてもいい機会だと僕は思っていました。そしてもしあの時、風が関東地方に向って吹いていたとしたら、今の日本は無いかもしれない。

原発推進とか反原発というとついつい政治的なイデオロギーとして聞こえがちですがこのことは生存権の問題です。僕は電力不足が起きるのであれば、この機会に個々のイデオロギーに関係なく、今を生きる一人一人が暮らしそのものを問い試すというスタート元年になればいいと思っていました。国土も狭く資源のない日本が存続していくための道筋を探す元年になれば福島で故郷を失った人たちも許してくださる様な気がします。原発にたよらないで新しい国の有り様を探して行く過程で、倒産する企業も出てくるでしょうし、この夏熱中症で亡くなる方も増えるかもしれない。生活苦で自殺をする人も増えるかもしれない。僕自身も生活破綻者となりうるかもしれない。でもそれは社会が変革していく過程では負の側面が生じるのは避けて通れない。避けて通れないと思いつつも生活弱者にまず最初に影響が及ぶことが想像できるだけに正直なところ悔しいですが。

東日本での震災直後に関東で起きた極端な節電ではなく、もっと根本的なところで経済を基軸に考えるのではなく哲学、宗教感に根差した生活、生きかた暮らしの有り様を模索していきたい。僕は、日本人は新しい価値観、生き方を世界に示す力、能力は持っていると確信しております。今後数年というか、10数年日本経済が立ち行かなくなって行くことを想像すると恐ろしいものがありますが、今のままの文化、国家の形を維持したまま日本が崩壊して沈むよりは、倒れるなら個人でできることを積み重ねながら僕は死んで行きたい。

そんなことを思いつつも、作品造りを優先させるために普段から節約を心がけているだけに、僕にできることは、駅のエスカレーターは出来るだけ使わないで、自動販売機で飲料水を買うことは控えたいことと、遅くまで開いているお店やデパートは利用しない、冷蔵庫の中のものを腐らせないことぐらいしか思いつかないことが情けないです。

今週東北に行ってきます。先の震災が起きてから初めての東北行きになります。




●2012.5.20


ブタペストはベルリンの街が味気なくなるほど艶やかな街でした。今度の来訪で4度目ですが、これまでとは目に留まるものが違いました。「Hof」を纏め終わったことで気持ちに余裕と街を見る感覚の蓄積が生まれたことと、HOTELをユダヤ人街にとったことで、街の人の流れや劇場(芝居小屋)、教会、オペラハウスなど19世紀末に出来上がった街の形の中で朝晩過ごせたことが大きかった気がします。次回は建築の歴史をキチンと勉強をして訪れようと思います。

ブタペストでは言葉に言いつくせない程のたくさんの親切を受けながら、ブタペストというかハンガリーの美術関係者に自分の作品をプレゼンしてきました。公の会場での展示を目指しているために簡単に答えや結論は出ない訳ですが、短い滞在の中で勇気をもらい希望を見いだせた気がします。現代美術の関係者の方とは7年前からの知り合いです。ただ彼がハンガリーだけではなく、中東欧は勿論アジア地域でのコンペの審査をされている方だとは知らなかった、単純に忙しい人という認識でしたが、なぜ忙しいのかこの度の滞在で少し理解ができた気がします。

写真美術館の方も現代美術関係者も写真集を手にされている時は淡々とされた感じでしたが、プリントを広げた瞬間、二人とも一瞬息を呑まれたのが気配で伝わって来ました。僕の写真のスタイルがどうのとかではなく、プリントの中に写しこまれている時間や僕の気持ちや感情と対話されていることが瞬時に伝わって来ました。別々の場所でプレゼンをしたにも拘わらずプリントを前にされた時の対応というか反応は同じような感じでした。「ギャラリーの助けもなくこんなことを一人でやっているのか」、「とにかく預からせてほしい」、「ギャラリストとも会っていってほしい」、「貴方が大切にしていることが分かるよ」と、この先に繋がる対応をしてくださいました。後ちょっと鋭く「動物園はまだ終わってないだろう」とも。

実はブタペストのホテルを探すに当たって希望、要望価格でブタペストの皆さんにさんざん迷惑をかけてしまいました。携帯電話を持ってないこともあり、40ユーロ前後でインターネットが使えてしかもユダヤ人街という街の中心のHOTELを希望した訳ですからちょっと乱暴だったかもしれない。でも僕の現状を知ってもらえて良かった。というか僕に限らずコマーシャルとは関係ない生き方をしている人間はみな似たような経済状況だと僕は思うのですが、ただ見栄を張るか張らないかの違いだけな気がします。実は海外で仕事をしている時にはどのHOTELを利用するかでその人の社会的な地位が分かるだけに、何処に泊まっているかということがとても重要なことだとこれまでの経験の中で学び知っています。一度ジャカルタに滞在をした折に、僕の宿泊先を
知ったジャカルタ在住の経済人に「私が支払いますからホテルを移ってほしい」と頼まれたことがありました。

ブタペストでは皆さんに迷惑をかけましたが現代美術の関係者には親近感を持ってもらえた様な気がしました。ただ次回からは携帯電話を持たないといけない。そしてブタペストで公の美術関係者に直接プレゼンをする機会を持てたということは、僕サイドというか日本側で協力、働きかけがあったということです。僕を助け支えてくださっている方たちの存在を何時か紹介できるよう慎重にかつ自信を持って進めて行くつもりです。

ハンガリーは写真家のAndre KerteszBrassaiRobert Capaを輩出した国です。そんな国で自分の手で自分の作品をプレゼンできたことはこれから先の自分の人生において大きな力になっていく様な気がします。相手のスケジュールの関係でベルリンではなくブタペストでのプレゼンが先になったことは偶然なのですが、ハンガリーがAndre KerteszBrassaiが生まれた国だと思うと必然の流れだった気がします。


この度の渡欧はこの先の自分の人生というか、これまでの作家活動を意味づけるとても大切なプレゼンだっただけに、そのことが身体に目に見えない大きな負荷をかけていたらしく、ブタペストでの最後のプレゼンが終わりHOTELに戻ると、ほっとしたのか靴を脱ぐまもなくそのままベッドに倒れ込んでしまいました。でもこの夜も僕の身体を気遣ってくださる方から電話があり、ユダヤ人街にあるユダヤレストランで食事をとることが出来ました。

膝の手術の為に戻ってきたという鷲鼻でずんぐりと太った体を爽やかな薄い水色のジャケットに身を包んだ初老の3人組の横でベーコンを使っていないオムレツを食べました。3人組に隠れて気がつかなかったのですが、彼らが立ち去った後、レストランの雰囲気にはにつかわしくない着古した赤いヤッケをはおり一人サンドイッチをほおばっている女性の姿がありました。西に移動する旅の途中なのか、この街のこの地区を目指して来たのか分かりませんが、長い時間をかけてここに辿りついたらしく肩にかかる髪の毛は絡まりパサパサで顔も日に焼け食事をしているにもかかわらず表情にも険しさが滲みでていました。

膝の手術の為にこの町に来た3人組もそうですが、さまざまなルーツを持った人たちが故郷や同胞の香りを嗅ぎに戻り始めているようです。食事の後、ウエイトレスさんがレストランの奥にある30ほど椅子が並んだ劇場を案内してくださいました。毎週なんらかの催しがあり使われているとのことです。30ほどの椅子やステージ横のベルベットの横断幕を見たら僕も何時かここで朗読をしてみたくなりました。通りから見たらただのカフェレストランですが、オーナーが消費や効率だけではない場としての役割を自覚的に代々守り続けてこられたことが良く伝わって来ていい夜になりました。


ベルリンに戻ってもブタペストでの疲れは抜けきってないです。ベルリンでもプレゼンが残っているのと、先の講演会を聞いてくださった人たちから、面談の希望が届いているので気合いを入れ直さないといけない。でも身体は疲れていますがとても心地よい緊張感と沢山の人の善意の中にいて、この時期にしか食べれない美味しいアスパラも食べれているので安心をしてください。それに講演会に来て下さった方の助けでベルリンの美術書専門店「Buecherbogen」にベルリンの写真集を正当な価格で買い取ってもらい店頭に並べてもらえることも出来ました。この正当な価格ということは自分の価値を定める為にもとても大切なことだと最近気がついたことの一つです。滞在が延びるのに合わせて日増しに身体は重くなっていきますが、クリエイティブな毎日なだけに気持ちは晴れやかになり前向きになれている自分がいて嬉しいです。




●2012.4.29

一週間程前からベルリンに来ていますが、街並みの変化に加えて観光客の人混み、トラムや地下鉄の工事によるバスへの乗り換えの多さにオロオロしています。

今までならどんなレストランやカフェでも一人で入るのも平気な人でしたが、お腹が空いても立ち食いのピザやヌードルで済ませている毎日です。たぶん街の空気を掴めかねているために、レストランやカフェに入れないのだと思います。

宿泊しているHOTEL BOGOTAは吹き抜けの末宗君の絵が変わったこと以外、フロントで働いている人も20年来変わらず迎えてくださっていることもあり、気持ちが落ち着いていられます。
部屋もいつも使っている中庭に面した奥まった静かな部屋です。僕が使っている部屋は余程でない限り普段は使用されていないようです。

講演会も無事に終えることができ、ほっとしています。拍手の長さや講演会が終了してもなかなか会場を去ろうとしない人たちの姿を見て、たぶん講演会は好意的に受け入れられた気がします。美術館の方から思いもよらないテーマで写真展のお話を具体的にいただきました。

来週からブタペストとベルリンで写真展に向けた話し合いが始まります。東京を立つ前までは、ただ時間とお金を無駄に使うだけではないのかとか、どんな感じで落ち着くのか不安もありましたが、予定をしていたミーティングの前に具体的な提案を一ついただいたことで気持ちが楽になっている自分がいます。そして写真家としての人生が本当にこれから始まることを実感し始めているところです。




●2012.4.22


またたく間に時間が過ぎて行っています。北海道に出かける前はつぼみだった近所の桜は鹿児島から戻ると葉桜になっていました。

鹿児島に戻り桜島を正面に眺めた瞬間足が止まりしばらく見入ってしまい動けませんでした。田舎を早く出たせいだと思いますが、一般社会の常識をまったくと言っていいぐらい身につけていなく、幼稚園時代の僕の先生で今はお寺さんの大奥さんや親せきの人たちにいろいろ教わりながら、今後のことを学び両親の供養を済ますことが出来ました。良かったです。少しほっとしました。この半年というもの毎晩の様に母や祖母が夢に出てくるのです。たぶん呼んでいたのだと思います。

東京に戻る前日、小学校時代の同級生の何人かが声をかけてくれ、ご飯を一緒に食べました。仕事がら不義理を重ねているにも拘わらず皆おおらかな笑いで僕を迎えてくれました。「ジョージ君あの頃は貧乏やった」と中学を卒業と同時に働き始めた友だちが過ぎた時間を噛みしめるように呟いていました。同級生が話す言葉の三分の一も理解できなくなっている自分がとても恥ずかしかったですが、皆のお陰で何事にも代えがたい一時を過ごすことができました。桜島も同級生も大切な心の財産です。

話が前後しますが北海道ではとてもいい時間を持つことが出来ました。今回は生徒たちというより関わってくださった先生たちといい時間を共有できた気がします。先生たちは気になさっていましたが、講演会場の椅子並べを一緒にしたり、展示ボードの並べかえの作業や、スチルムービーの流れや音選びをいろいろ試して納得をしてもらいながら決めていったりと、ある意味小さなワークショップみたいな時間でした。決めたことをそのままやるのも一つですが、状況や場に応じて作り変えていく、物づくりの現場にいるものにとってはもっとも楽しい時間です。大まかなことを確認し合った後に、「明日最後に生徒たち自身に朗読をしてもらいませんか」と僕が提案をすると先生の一人が「それはいい」と早速台本のコピーに走られました。翌日は朝から猛吹雪でしたが、山の上の学校にも関わらず、遠くの方から110人余りの人が足を運んでくださいました。

後で知りましたが札幌在中の写真関係者が新聞社と交渉してくださり告知の記事を書いてもらえたそうです。助けてくださった写真関係者とは最後の日に北海道の古い写真を見せてもらったり、この先に繋がる話をしましたが気がついたら6時間近くも話してました。講演会は不思議なほど時間通り流れて行き、最後に生徒4人が壇上に登り、それぞれ自分が気になった17歳のテキストを読んでくれました。読み終わった後に「どうしてその人を選んだ」と僕は檀上の生徒たちに問いました。生徒たちは一瞬とまどった様子でしたが、しっかりと自分の意見を述べてくれました。講演会の翌日も学校に行き展示の片づけや先生や生徒の何人かと言葉を交わしました。そして最後は関わってくださった生徒、先生らと記念写真を撮りました。記念写真は何時かここで紹介できるかと思います。


僕は月曜日から講演会と写真展の打ち合わせのためにベルリンとブタペストに出かけますが、札幌でのベトナムの子どもらの作品世界の展示と講演会の実現のために中心になって進めてくださった絵描きでもあり学校の先生でもある方と最初に出会ったのは2006年にベルリンでです。

●http://www.smb.museum/smb/sammlungen/details.php?objID=7191

●http://berlinhbf.exblog.jp/




●2012.3.4


2週間程前から、318日に札幌で、426日にベルリンで試みるスチルムービーの朗読の練習を始めた。台本もポラロイド写真で撮った心象風景を加え、新たに作り直しました。

スチルムービー「あなたは今どこにいますか」という試みは、写真集や写真展とは違う写真と朗読、音楽を組み合わせた新たな表現として20年前から手探りで始めた試みです。これまでインドの3都市。韓国の2都市。ドイツの4都市。ベトナムのホーチミン。キューバの青年の島で、それぞれの国の言語やその土地の固有の言葉で試みてきている。日本では大阪のお寺さんや地方の高校、恵比寿の写真美術館、江東区の現代美術館で昨年は立教大学と四国愛媛県の高校と県立美術館で試みました。

演劇や音楽、映画、踊りなどの表現は何かを発したその瞬間に消えてしまい、最後に残ったその時の感情を僕らは持ち帰る訳ですが、写真や絵画は何度も自分の意思で立ち止り確認できる表現です。演劇や音楽、映画のようにその場で消えていく美学をとりいれた新たな写真表現を創作できないだろうかというのがそもそもの出発点でした。

30年程前に有楽町で見た篠山紀信さんの韓国をテーマにしたスライドショーと一時期熱心に見ていた小演劇がスチルムービーの起点の一つになっています。スライドショーは「ああこういう見せ方もあるのか」と思ったのと、小演劇では「間」のとり方を学び、スチルムービーの表現に生かせていると思います。

そしてNHKのTV番組の収録でキューバに行くことになり、番組制作に合わせて日本の今をキューバの人々に伝え、そしてキューバの人たちと何かを共有し合いたいという個人的な思いを番組内に持ち込んでしまい、粗削りながらもエイヤーで試みてしまった。その時はスペイン語の字幕をつけたのか、だれかにスペイン語で読んでもらったのかあるいは写真だけだったのか思い出せない。でもスペイン語の台本が残っているので、誰かに読んでもらったのかもしれない。

初めて自分で試みるドイツ語での朗読はアルファベットを追うのが精一杯で、つかえつかえなだけに17歳の彼ら彼女たちの心象まで触るところまでまだまだ時間がかかりそうですが、日本語だと何度読んでも途中で感情がこみ上げてきて読み切れない。

自分の部屋だと涙があふれ出て来て止まらなくなり練習にならないので、今は昼間公園で練習をするようにしています。昨年、立教大学で試みた時も朗読そのものは、授業の勢いのまま読むことはできましたが、翌週の授業で解説をするにあたり、200人もの学生の前で無様にも感情がこみ上げて来てしまい言葉に詰まってしまいました。

朗読という2文字の単語にしてしまうと簡単なことですが、言葉の中に込められている17歳の彼ら彼女らが見ている光景、彼らの背後に広がる風景が浮かびあがって来た時や、日々の暮らしや学校や社会生活の中から紡ぎだされてきた言葉に込められている思いに近づけば近づく程胸が苦しくなり読めなくなります。自分で始めた試みですが朗読とはなんて恐ろしくしんどい表現なのかと日々かみしめているところです。ドイツ語での朗読も練習をしていますが、日本語が持つ言葉の感情をドイツ語の中に見つけられない或いは寄り添えないことも考えドイツ語の字幕作りをTBSの知人に頼むことにしました。


札幌での写真展・講演会

「ベトナムワークショップ2007写真展-少年少女の心の世界」

会期:3月12(月)~3月19日()
会場:北海道札幌旭丘高等学校
0648535 札幌市中央区旭ヶ丘6丁目518
TEL011-561-1221

<講演会
「橋口譲二~写真で対話する・ベトナムワークショップと日本の17歳」

日時:318() 午前10時~12
会場:北海道札幌旭丘高等学校 講堂
(講演会は学校関係者以外も参加は可能)


ベルリンでの講演会

「カメラがとらえた日本が幸福だった時代と17歳の今」
日時:426() 19時~2030
会場:ベルリン写真美術館

38日~6月中旬まで同美術館で国際交流基金の巡回展「日本の 自画像:写真が描く戦後1945-1964」が開催されます。僕の講演はこの展示作品を受ける形になります。


お知らせ
星野博美の「コンニャク屋漂流記」が読売文学賞を受賞し、その表彰式が224日にありました。授賞式の会場で星野のお父さんと映画監督の崔洋一さんがお互いの肩を抱き合う姿がとても印象深かったです。思えば高校でテニス部を卒業して以来、僕は人と肩を組んだことは無いなと思い出してしまいました。



2月29日





●2012.2.12

先日やっと、HOTEL  BOGOTAの吹き抜けを使った作品のコンセプト文の翻訳が仕上がりました。作品図録の方はすでに完成をし、作家作品ともどもベルリンに着いています。ベルリンに限らず西洋社会では作品以上にコンセプトが重要視されます。末宗君もこれまで自覚的に使ってこなかった脳を絞る思いでコンセプト文と格闘していただけに、なんとか14日のオープニングに間に合いそうで良かったです。


これからコンセプト文の印刷、図録への挟み込み。横1.3m×長さ15mの布2枚に作家の末宗君が想像する人間の物語を描いた作品を吹き抜けの天井から吊るす作業。ホテルオーナーのリスマンさんや施設等を管理しているマイスター、ベルリン在中で以前同じ空間に写真作品を展示した安河内さんがサポートしてくださっているとはいえ、末宗君の気力が持てばいいのですが。

オープニングは2月14日午後19時からです。
14日はHOTELの朝食ルームでベルリン在中の日本人ピアニストによる演奏も準備されているそうです。作品の展示期間は約一年を予定しています。

HOTEL  BOGOTAは古いホテルだけに不便な面もありますが、フロントや朝食をサーブする人、ハウスキーピングの人たちの顔が20年前から変わらないほど居心地の良いホテルです。フロントに一声かければ末宗君の作品は勿論のことホテルの散策も自由にできます。どうぞ覗いて見てあげてください。

この426日にベルリン写真美術館で講演することになりました。
実は僕もBOGOTAでの作品入れ替えに合わせて「Hof ベルリンの記憶」のプリントを持ちベルリンに居る予定でしたが、いろいろと経済面や時間的なことを悩み考えた結果この度の渡欧を中止し、4月の講演に合わせてプリントを持って出かけることにしました。仕事の相談や友人の何人かとベルリンや他の都市で会う約束をしていただけに申し訳ない思いです。


これまでベルリンの日本大使館や日独センターで講演並びにスチルムービーを催して来ています。緊張は場所がどこであれ必ずつきものですが、4月の講演会場は僕の憧れの場所の一つであることに加えて、美術館の斜め向かいのZOO駅から僕のベルリンが始まっただけに感慨深いものがあります。

HOTEL  BOGOTAでの展示もそうですが、ベルリン写真美術館での講演にしても大勢の人たちの気持ちと善意の積み重ねが場を生んでいることを忘れないように自分に言い聞かせているところです。




写真の黒い塊は四国から届いた「ヤム芋」です。ベトナムでのワークショップの折に食べたヤム芋スープのことを知人に話をしたところ有機農法で育てた野菜やローズマリーと一緒に巨大なヤム芋を送ってくれました。ヤム芋はもともと南の作物だけに、思わぬところに温暖化の恩恵が実ったようです。

ヤム芋は最近凝っているバーレーン産ワタリ蟹でだし汁をとり、塩+胡椒だけで美味しくいただきました。同じワタリ蟹のだし汁で、中国の雲南で覚えた油菜と木綿豆腐のスープを塩+胡椒だけで食べています。ワタリ蟹+野菜+豆腐+塩+胡椒の組み合わせはなかなかのものです。一度試してみてください。出汁はともかくとして豆腐も野菜も湯煎するぐらいで煮すぎないことが美味しく召し上がるコツです。塩は高知県で若い人たちが作っている天日干しの自然塩を使っています。自然塩は舐めると甘いですよ。蟹はお鍋に入れて3日~4日続けて出汁がとれます。

吉祥寺の駅ビルの魚屋で中東産のワタリ蟹が買えるなんてドキドキしてしまいますが1キロ598円の値札に、ついついバーレーンの漁師さんらの稼ぎや生活を想像してしまいました。余談ですが有機栽培でとれた野菜は日持ちもよく、一枚一枚の葉にまるで背骨がついているみたいに、シャンとしているのが特徴です。それに葉物の野菜はそれぞれが独自の香りを放っていて、野菜も生き物だということが良く分かります。




●お知らせ
文化庁主催 第9回文化庁「文化交流使」活動報告会が開かれます。

<会場>
3月1日(木) 増上寺・三縁ホール

★プレスリリース資料:http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/bunkakyoryu_240203.pdf
★専用HP:https://apollon.nta.co.jp/bunka-koryushi9


興味のある方は覗いてみてください。





●2012.1.30


気がついたら、もう2月がそこまで来ていました。

ベルリンから今年の冬は日中でも手袋もいらないほど暖かい冬ですと便りが届きましたが、僕の家の近所にある公園の池には薄い氷が張りついたままです。例年ならこの頃のベルリンはマイナス10度の世界なのですが、やはり世界の気候は狂い始めているようです。

狂い始めているという表現は人間中心に考えた発想で、予測出来ない動きをするそれが自然界なのかも知れないです。このところ毎日のように起きている地震にしても地球が活動期に入った証なのかもしれない。正直怖いものを感じます。自然の気まぐれで起きた災害で被害を受けてしまった大勢の人々の存在には胸が痛みます。ですが人間の英知を超えた動きをする生命体である地球に人間として居させてもらっていることに心躍る自分がいるのも確かです。


昨年末から「Woman」のポートフォリオ造りや、僕がオーガナイズしているベルリンにあるHOTEL BOGOTAの吹き抜けを使った新しい展示作品の図録の制作に追われていました。ポートフォリオは写真集や展示とはまた違う難しさに直面してしまい中断してしまいましたが、ただ図録の方は展示作家の頑張りや国内外にいる知人らの助力もあり、2月14日のオープニングには間に合わせられるところまで来ました。ポートフォリオは中断といってもテキストの英訳を残すのみです。

HOTELの吹き抜けを使った展示を始めて今年で4年目になります。これまでの3年間は展示をするということだけで精一杯でしたが、4年目にしてやっと図録として残すところまで辿りつけました。回を重ねるということはこういうことだと思います。

これからも新しい作家、作品が登場してくるでしょうが、前の人たちが手探りで場をつくり空間を維持して来たからこそ今があるということをこれから登場してくる作家には頭の隅に置いて欲しいと思います。僕が20代のころ、理想に燃え竹藪を切り開き開墾の手伝いをしていたことがありました。鍬をふるい土を掘り起す作業をしていた時に、詩人で人生の師匠的な存在の人が「ジョウジ、畑を作っているからといって、この畑で実る作物まで自分で食べようと思ってはいけない」と諭されたことの意味を最近少し理解できるようになりました。

気持ちが重たくなり、橋口便りが中断していた大きな理由がもう一つあります。
3月11日以後、「絆」「繋がり」という単語を人々は連呼し巷に溢れました。助けあうことは当たり前のことだし大切なことです。でも僕は「絆」という言葉に触れる度に、違和感を覚える自分がいます。3月11日に起きた地震と津波が起きたことで、見えてきた問題、課題、テーマを一人一人が考えることなく「絆」「繋がり」という単語に預けてしまっている印象を受けるからです。

12月のクリスマス前から新年にかけての吉祥寺の街角では買い物袋を提げた人たちが、肩をぶつけ合い、進路を阻む人をお腹で突き飛ばしている、そんな光景が僕の視界の中で繰り広げられていました。あの時に「助かって良かった」「被災して亡くなった人たちはなんて気の毒なんだろう」と日本中の皆が思ったはず。あの瞬間人々の中に芽生え浮かんだ思いは何処に飛んでいったのだろうか?

地震と津波は大勢の人々の命を奪いました。
生き残った僕らが考えなくてはいけないのはここから先です。

津波や地震は人々を選んで命を奪ったでしょうか?
津波にのみ込まれて亡くなった人たちの中には、国籍、性別、年齢に関係なく、いい人も悪人も地域やコミュニティに馴染んでいなかった人、ひきこもりや社会に排除されていた人、地域や社会に愛され大切にされていた人も、ホームレスや社会に排除され意味もなく侮蔑されていた人、詐欺や犯罪を働いていた人もお金持ちも貧しい人も属性に関係なく、津波は容赦なく命を飲み込みました。そして幸いにも「助かって良かった」と思った僕らにしても同じことが言えます。
3月11日以降に幸いにも生き残ることが出来た人たち、僕らもまた分けへだてなく「生き残れた」という幸運をもらいました。


新しい文明の利器の発達により、生活環境が変わりました。これまで文明の利器は人々の暮らしを豊かにしてきたのは確かなことです。ただこの10数年の僕らの社会環境を見る限り、新しい文明の利器は人と人の関係を阻害しているように思えてならないです。新しい文明の利器のお陰で直接人と人が向かい合わなくても暮らしが成り立つようになったその片方で、僕ら人間社会は様々な見えない壁で分断されまくっています。強いものが正しい、お金が全てという社会が蔓延してしまった日本を津波と地震が容赦なく襲いました。

誤解や非難されることを承知で触れると、津波と地震はこの10数年日本社会を閉じて覆いかぶし、日本社会を壊し人間を歪にさせていた犯人、正体をあの瞬間壊し、分断されていた人々を繋いでくれた。

「助かってよかったね」「大丈夫ですか?」とだれかれとなく自然に心から励ましあえ、疎遠になっていた人に気持ちを飛ばし、隣に居る人の顔を見合った3月11日からの数日間こそが、地震と津波が大勢の人々の命と引き換えに僕らに残し気づかせてくれた財産だと僕は思う。数日間の幸福で終わらせてはいけない。

でももう震災や福島が消費され始めていることの方が僕は津波や地震よりも怖い。

「絆」「繋がり」という言葉を僕は否定はしません。ですが僕が子どもだったころは、畑や田んぼの無い家の人には、お米や作物を届けることは普通に行われていたことでした。
今、新聞、雑誌、TVで個人の生を取り上げて特集されています。そんなメディアに1988年から評価に関係なく、日本の様々な場所で生きる人々のポートレートと言葉を記録してきたものとしてあえて傲慢を承知でこの場で伝えたいことは、どうぞ今のまま普通の人々の存在に関心を持ち続けて欲しいということです。

そして日本という狭い国土で、風土や文化を無視して、見栄えや効率を優先させた「郊外」という街造りもこの機会に立ち止って考えてみてもいいのではないでしょうか。

両親が二人とも他界をしてしまったことで、僕にとっての故郷が意識の中でかすみ始めていますが、僕が幼稚園生だった頃の先生で、橋口家の菩提寺の大奥さんでもある方から年賀状で「何時でも帰って来てください」と届きました。中学卒業後、集団就職して行った同級生からは「皆に顔を見せに戻らんと」と。故郷は有り難いです。

それだけに自分の意思に関係なく故郷を奪われてしまった福島の人々。福島の人々に負わせてしまった「何時か放射能の影響が健康に出るかもしれない」という見えない恐怖と悲しみに繋がるような文明の利器は捨てないといけない。

・「Hof ベルリンの記憶」の大阪展も無事に終えることができました。
大阪でも途中でDMが無くなったそうです。ささやかでしたがオープニングも開きました。
大阪鶴橋でお餅屋を開いている知人が韓国風お餅や、巻物、キムチを届けてくださり豊かな一時を持つことができました。お蔭様でしばらく疎遠になっていた写真家とも会うことが出来て良かったです。


そして何人かの人に「なぜ壁や壁後を撮っていたにも関わらず、ここにその写真がないのだ」と問われました。その理由を説明していく中で、自分自身が五感で「HOf」の写真を撮っていたことを改めて思い出すことができました。そして「だから撮影年に空白があるんですね」と理解を示してくださり、ありがたかったです。

・3月に北海道札幌でベトナムの子どもたちの作品展と僕の講演会が開かれることが決まりました。


現在ベトナムの子どもたちの作品ボードを制作中ですが、基本的なフォーマットが決まりました。
日本を巡回させるボードには日本語とベトナム語、
ベトナムに持っていくボードにはベトナム語と英語のテキストをそれぞれ付けます。



お知らせです。
僕の1980年代のベルリンや作品「動物園」の作品造りを知識面からサポートしてくれていた、翻訳者の高田ゆみ子さんと筑紫さんのラジオ番組のパーソナリティーをなさっていた齋藤弘美さんの二人が企画する映画が下記で催されます。

「みえない雲」はベルリンの旅行中に本屋で見つけた近未来小説で、翻訳者の高田さんが自ら小学館に持ち込み「みえない雲」の日本語版が生まれました。同タイトルの文庫本とコミック本が小学館から発売されています。

2月19日(日)に門前仲町にある門仲天井ホールというところで「みえない雲」の上映会&お話会

http://shienmonten.blogspot.com/2011/12/201221915.html

2月25日(土)は恵比寿にあるアサンテサーナカフェで「みえない雲」の上映会&お話会があります。

http://www.p-alt.co.jp/asante/archives/cafe/



遅くなりましたが、僕だけではなく日本の文化関係者が大変お世話になっているベルリン在中の中村真人さんの本を紹介します。下記の2冊に共通しているのは、中村さんの教養の深さと知識だけで目の前のことを語らず、ベルリンの街に対する好奇心と愛情に支えられていることです。

「素顔のベルリン」
ダイヤモンド・ビッグ社刊 (1,500円+税)

「街歩きのドイツ語」
三修社刊 (1,500円+税)





●2011.12.8


家の周辺でやっと木の葉が舞い始め、窓の向こうからかさかさと耳に心地よい季節の音が聞こえてくるようになりました。でも幹線道路の街路樹、プラタナスや銀杏、楓の葉がまだ青々としていて、人工樹みたいで不気味です。

先週横田基地の近くで「Woman」を撮影した後に、そのまま秋川渓谷まで走り、峠を超えて山梨県の上野原から中央道を抜けてぐるりと関東平野を取り巻く山のすそ野を通りぬけて来ました。植林された杉の木が多いことも視界の印象に影響しているかと思いますが、木々の紅葉はまばらな感じでした。今年は秋を通りこして冬が始まりそうです。

ただ途中でみた秋川渓谷を流れる河の水が綺麗なことに驚かされました。東京の中心部から一時間余り離れるだけで河底が透けて見える程、澄んだ水が流れていることに新鮮な感動を覚えてしまいました。水が綺麗なことも関係しているかと思いますが、お昼に食べたお蕎麦も美味しかったです。

僕は昔から森を歩く人でしたが、地震や津波、福島で起きた原発事故が起きてからというもの、今までになく森や身近な自然に気持ちや意識が飛ぶようになって来ている自分がいます。上野原を目指したのは、暗室や作品を保管する場所を探しているためです。

先の橋口便りで、原発事故が起きた後だけに、阿武隈山地にキノコを採りに入る人はいないのではといった内容のことに触れましたが、そのことは僕の考え違いなような気がします。暮らしの中に森がある人たちにとっては、森に入りキノコや山菜を探すのは散歩の延長みたいなものであって、食べる食べないはともかくとして、今年もキノコが出ているかどうか山の様子を見に確かめに森に入る営みは変わらない気がします。たぶん想像ですが放射能のことを気にしつつも、恐る恐るの思いで山の恵みを口にしている人もいる気がします。

どうしてそう思うかというと僕の子どもの頃、祖母は80過ぎても毎日田んぼや畑に杖を頼りに出かけていました。畑や田んぼで特に何をするというわけではなかったと思いますが、田んぼや畑の様子を眺めて一日一日を過ごしていました。祖母は自分が生きた時間を畑の中に見ていたのだと思います。学校から戻り祖母の姿が見えないと、田んぼに続いている川沿いの土手を走って迎えに行くのが僕の仕事でした。走っていたのは急いでいたのではなく、時々足元にでる蛇をみたくなかったからです。宵闇がせまる土手の上で僕の姿を見つけた時の祖母の笑顔を今でも良く覚えています。亡くなる前日まで畑に出かけていた祖母のことを思うと、先の地震と津波で海辺から遠ざけられた人々の暮らしのことが気になります。福島原発の事故で移住を余儀なくされた人々のことは勿論です。福島の人たちにはかける言葉も見つからないですが、津波の被災地で進められている高台移転の集落造り以外に何かいい方法は無いものかと畑に居る時の祖母のことを思い出しながら思う今日この頃です。

愛媛県でベトナムの子どもたちが撮った写真の巡回展の中心になってくださっている高校の先生とお会いしました。他府県の先生たちともやりとりが始まりました。

今月発売の「すばる」で写真集、写真展で中断をしていた「旅の始まり」の中編を書き上げて載せています。「3月11日前に収穫したお茶です」と知人から静岡のお茶をもらいましたが、これからずっと放射能のことを気にしながら生きて行かないといけないのかと思いました。

8日から大阪で写真展が始まりますが、11日までは大阪に滞在する予定です。





●2011.11.13


先日、新潟を流れる河に鮭の遡上を見に出かけてきました。時期的に少し早かったことや、自然災害が続いていただけに「もしかしたら今年は戻ってこないのではないか」と心配でしたが、ちゃんと鮭の姿を見ることができました。河原に降りて行くと、鮭は危険を察して深場に逃げて行きますが、気配を消してしばらく静かに佇んでいると、すぐにまた戻ってきて、まじかで見ることがでました。

泳ぐ鮭に癒された後、しばらく新潟の海岸線を車で走りましたが今年は温暖化の影響で、青物の魚、ワラサやサワラの戻りが遅いと行く先々で耳にしました。釣り客の姿を大勢見かけましたが、誰一人魚を釣り上げている様子もなく、釣りの好きな僕は、魚が釣れていないことが分かると安心する自分がいて可笑しくなります。

乗鞍高原では、やはり温暖化のせいでマイタケが今年は全然採れないと、嘆いている方と会いました。その人いわく「キノコの根が土の中で腐ったんじゃないか」ということでした。ただちょうど山葡萄の収穫期で、絞りたてで香りもこくもあるブドウジュースをご馳走になりました。美味しいと思いながらも、放射能のことが頭をよぎります。ブナ林を見下ろす露天風呂を見つけ、久しぶりに温泉らしい温泉に入ることができて幸福でした。山を下りて行く途中に、林の中から出てきた籠を手にした人と出くわしました。籠の中には沢山のキノコが。やはり地元の人には敵わない。でも籠を持った人が出てきた林の場所はしっかり頭に入れました。

以前、福島の阿武隈山地にキノコ採りに連れて行ってもらったことがあります。
森の中で腰の曲がったキノコ採りのお婆さんや、落ち葉の中のミミズを探しているイノシシの子どもウリボウ3匹とも行き会い、キノコは短時間でたくさん見つけることができて幸福でした。原発事故が起きたことで、もう阿武隈山地にキノコ採りに入る人は居ないでしょうが、何も知らずに森の恵みを食べている動物たちは本当に気の毒です。

・プリント感覚を忘れないうちに、印画紙をそろえて「HOF」のプリントをもう1セット作るのと、ベルリンの延長で撮りためていた東京のプリント作業に入ります。

・ベトナムに届ける子どもたちの作品の形態、方向性がやっと僕の中で絞れてきました。

ベルリンのHOTEL BOGOTAの吹き抜けを使った展示についても、作家のスケジュールがやっと固まり、1月末から2月にかけての制作、展示になりました。僕もこの時期に合わせて打ち合わせにベルリンに行ければと考えています。

・最近、遺影の撮影や家族写真の撮影を依頼されることが増えて来ました。作品を作ることとは違う喜びを感じています。




長野県乗鞍



無料の露天風呂






●2011.10.10


お蔭さまで、写真展を無事に終えることができました。
写真展は多くの方に好意的に受け止めてもらえたようです。良かったです。

久しぶりの展示ということもあり、誰も見に来ないのではないかと心配でしたが、会場の立地の良さに加えて新聞各紙やネット媒体での告知の助けがあったこともあり、多くの方が足を運んでくださいました。会場に用意してあったDMも4日で無くなり他の会場から取り寄せてもすぐ無くなることの繰り返しでした。台風の日以外は古い知人や読者が訪ねて来ると思い毎日午後から会場につめていました。沖縄、鹿児島、宮崎、岡山、大阪、金沢、長野、青森、北海道と本当に遠くから足を運んでくださいました。


恐縮しつつも僕を支えてくださっている人たちの存在を改めて確認できた思いです。芳名帳に残された名前を確認しながら、これからも今まで通り気持ちに沿った仕事を続けている限り、この方たちは僕を見続けてくださるなと思いました。有り難いです。

ただ思いの他、若い人たちの来場が少なかったのと、来てくれたとしても足早に出て行く人が多かったです。おそらく僕がこの数年、写真メディアから離れていたことに加えて、若い人たちが日常的に触れている写真と僕の写真世界が、なじみが薄い世界だったのでしょう。ですが殆どの方が本当に一点一点じっくり見てくださいました。中には2、3時間も会場に居る方を何人も見かけました。写真を見るというより、一枚一枚の写真が重なり合い醸し出し生まれる空気の中に身を置いていたいのだなと僕には映りました。僕が「HOF」の撮影中にミッテ地区とプレンツラウアー・ベルグ地区の二つの地区でいつも感じていたことと同じ様な感覚な気がします。「ベルリンやドイツに行ったことはないけど、どこか懐かしい感じがする」という感想を残してくださった美術家の方や、写真を見ながら少なくない人が目を潤ませている光景も目の当たりにすることが出来ました。たぶん感情を共有しあえたのだと思います。

ただ、久しぶりの展示ということもあり、僕が照明まで気がまわらなかったことで、映り込みが酷いという指摘も複数受けました。照明も含めて作家の責任ですが、設営者とのコミュニケーション不足と役割の確認が僕の中でできていなかったのが、大きな原因だったと思います。それに設営が終わり戻ろうとしたときに、会場の係りの方に「芳名帳はどうしますか」と問われました。個人で応募して展覧会を開くということは、こういうことかと慌てさせられてしまいました。

初日にレセプションも開きました。レセプションを開くにあたり、お酒の飲めない僕は、知人にどんな種類を飲んでいるか尋ねるところから始めましたが「発泡酒」という答えが戻ってきて、でもその「発砲酒」が分からないから困りました。最後は有名な銘柄のビールを3種類用意しました。ワインは時々食事を一緒にする知人の編集者に相談するつもりでしたが、彼はいつも上等なワインしか飲んでいなかったことを思いだし、ワインは星野に頼むことにしました。僕はチリ産かスペイン産の安いワインをリクエストしましたが、飲み物の中でワインが最初に無くなったことを後で知りました。星野は上等なワインを用意してくれたようです。軽食のサンドイッチや巻物は吉祥寺の普段使っているパン屋さんと魚屋さんにお願いをしました。馴染みのお店ということもあり、時間に合わせて鮮度のいい素材を準備してくださいました。顔見知りの世界は優しいです。コカコーラが安かったので、コーラも用意するつもりでしたが「価値観が問われるよ」と言われで止めにしました。僕らの世代は飲み物とはいえ、選択の一つ一つが大変です。

レセプションのサーブを手伝ってくれた人たちの中に僕のワークショップに参加した、今は社会人でかつて学生だった二人がいました。「分からないでしょうが、ワークショップに参加した○○です」とレセプションに駆けつけてくれた人もいました。何かの縁で出会い、数日間とはいえ濃密な時間を共有した僕らの間には気持ちの重なりというか、形容しがたい不思議な関係が生まれるのが喜びです。会期中に「成長期の大変な時期に娘がワークショップでお世話になりました」と近況を含めて報告に来てくださったお母さんも。1981年頃から僕を助けてくれたり、苦しい時間を一緒に克服して来たアシスタントだった皆が元気な顔を見せてくれたのも嬉しかったです。


レセプションも自分で用意したことで、デビューしてから今日まで、周りの人たちに写真展にかぎらず何かと過分な好意を受けて来ていたことを、改めて確かめられたことも良かったです。

レセプションを開いた理由はもう一つあります。僕がこうしていられる背後や周りには僕を支えてくれている大勢の人たちがいます。そんな人たちを僕との点の関係から横に広げ繋ぎたかった。ただ来場者が多くて思うようには行きませんでしたが、少しは紹介しあえた気がします。いろいろなことを自分で確かめたことで出費は嵩みましたが、たぶんですがこの先も表現の世界で生きていけそうな気がします。

それに写真展を僕が自分で試みようとしていることを知った知人の何人かが、決して安くはないオリジナルプリントの購入を申し出てくれました。主体的に動いたことで、新たに動き出し生まれる関係。有り難いです。ただ多くの写真家は自分で全てまかなうことは当たり前のことなので、これまで僕がいかに恵まれた環境にいたかということだと思います。作品「Hof ベルリンの記憶」の展覧会はこれから複数個所で開かれていくかと思いますが、写真集、展覧会と区切りがつけられたことで、中断をしていたアートワークに軸足を移すことが出来ます。とりあえずは、ベトナムの皆に、日本の同世代の学生たちが彼らの作品に触れたことで、感じた思いや紡ぎだした言葉を届けに行くつもりです。

そうすることで、僕がこれまで目指してきた巡廻型のアートワークが初めて成立する気がします。でもまたそこで課題が生まれるかもしれないですが。それとインドにも様子を見に出かけてみるつもりです。

余談ですが、搬出が終わり駐車場の車の中で一息つきたくて、選んだのは冷たいコカコーラでした。座席に寄りかかりながら飲んだコーラは脳がしびれるほど美味しかったです。

最後になりますが、僕は久しぶりの展示と書きましたが、それは日本国内でのことであり、そして写真メディアや写真界から離れていたのは、けして創作を中断していたわけでもなく、僕としてはよりクリエイティブなところに身を置いていたつもりです。作品を創作することと、日本社会の中に居場所を探すことはまったく別なエネルギーを必要とします。社会の中で自分の居場所を作る過程において、時として打算的なものも生まれるでしょうし、創作をするエネルギーとは異なる種類の欲望と向かわざるをえなくなります。僕はワークショップを試みるようになってから、限られた時間はよりクリエイティブなところで使いたいという思いを、いっそう強く持つようになりました。僕は自分の現場は自分で生み出していきたいのと、物事の中心は世間の中にあるのではなく、自分の中に有ると思っています。




作品を60点展示しました


レセプション





カタリーナ・ハウゼルさんの解説文を読む人たち






●2011.9.13


一週間程前にやっと展示作品のプリントが終わりました。良かったです。一時はベルリンの黒が見つからず、このままだと展示スペースに掛ける作品が出来ないのではという不安が日増しに増殖し、気が狂いそうな日が何日間も続きました。ただこの2か月苦しんだことで身体感覚を大切にした写真表現を見つけられた気がします。

実はプリントが上手くいかず、一か月程前に日程を考え一度自分でプリントをするのを諦め、プロラボにお願いに上りました。プロラボにプリントを依頼しつつも、これで良かったのかなという心の声が聞こえて来るのです。自分自身の今の感情を確かめる。写真展を開くことだけが目的ではないだろうという思いが自分の中にあったからです。プロラボにプリントを依頼したことを伝え聞いた知人は「AGFAの紙がもったいないですね」と。その呟きを聞き、ラボにお願いに上がったその夜、自分自身を納得させるために再び暗室作業を試みてみました。そこで印画紙には問題はなく、問題なのは僕の技術と今の能力だということが分かりました。気をとりなおし二日後に、ラボに断りに上りネガを引き取ってきました。その時点でもう逃げ場は無くなり、その夜から残り枚数の印画紙を計算しながら神経が磨り減るような時間が始まりました。

そんな夜が続いていたある日「現像液はどうされていますか」との問いが、ほぼ同時期にプリンターの久保さんと若い写真家から出てきました。実はドイツ製のAGFAに拘ったことで、印画紙だけではなく、現像液もAGFAの古い薬品を使っていました。印画紙だけではなく薬品にも有効期限があることを初めて知りました。自分の基礎知識の無さを嘆く前にとにかく展示作品を完成させないといけない。薬品の問題が解決したからと言ってすぐすぐプリントが変わるものではなく、残りの印画紙と展示作品の点数に赤信号がついた夜、もう本当に頭が狂いそうになり久保さんに一度プリントの方向性を見てもらうことになりました。そして「ベルリンの気配を思い出すことです」「もっと感情を大切に」というアドバイスを久保さんにいただきました。メールでは技術的なことが中心でしたが、僕のプリントを見た後の久保さんの意見は、根源的な問いでした。

久保さんと別れた後、ベルリンで嗅いでいたコーククスの匂い、一日中日が当たらない中庭の隅で、かび臭い湿った空気を毎日嗅ぎながら撮影していたことを思いだしました。足を止めシャッターを押した時の感覚が身体の中によみがえってきたのです。不思議なことにその夜からプリントが見違える様な仕上がりに変わり、なんとかベルリンの気配を捕まえることが出来た気がします。たくさんの無駄をしたこともあり、AGFAの紙は使い切りましたが、悔いは無いです。プリント作業に追われていたこともあり、写真関係者にはほとんど、展覧会のDMを送ることはできませんでした。ただ季節のやりとりをしている知人たちには、DMは発送できたので安堵しています。


8月に、故郷鹿児島の新聞で、太鼓を使ったインスタレーションの作品を4回にわたり発表する機会を得ました。方法論は見つけることは出来ましたが、まだ太鼓との距離をつかめあぐねています。紀伊半島の豪雨の災害に触れ、東北で起きた地震や津波の災害もそうですが、改めて自然の驚異を知らしめられた気がします。グローバル革命が進んだことで社会環境が変わりましたが、日本の国土が持つ地政学的な危険度は変わってない。文明の選択が問われている原発問題とは異なり、日本はもともと災害が多い国だということを忘れてはいけないなと思いました。とにかく今は目の前の困難を日本全体で耐え忍び、克服して行く時期なのだと自分に言い聞かせているところです。

紳助さんが自らの問題で引退されましたが、20年程前に僕は作品「Father」で紳助さんを撮らせてもらっています。撮影の時に許された時間は20分でした。マネージャーさんが「もう時間です」と僕らの間に割って入ってきたとき、紳助さんは「何ゆうてんねん、この人まじめやないか、時間は気にせんでいいですよ」と対応してくださったことを今でもよく覚えています。ヤンキー時代の紳助さんらが主役の「狂い咲きサンダーロード」という題名の映画を見て感じるものがあったのと、紳助さんは大勢いる芸能人の中で、いい意味で違う輝きをあの頃の紳助さんから感じ受けたので声をかけさせてもらいました。できることなら何時かどこかで紳助さんと、ゆっくりお茶を飲みたいなと思っていますが、無理かな。





●2011.8.14


数日前から9月の写真展で展示するプリント作業に入りました。久しぶりに身体が喜んでいて、夜にも拘わらずプリントが一枚仕上がるたびに雄叫びを上げています。

展示作品をプリントするにあたり、プリントを知人に頼むか、どの印画紙を使うか今回はいろいろ悩みました。最終的に自分でプリントすることにしました。今の自分の中にある感情を確かめ残しておきたいとの思いからです。印画紙については、プリントのうまい知人や、モノクロプリントで作品を制作している人たちに相談をしました。通販でアメリカから取り寄せることも考えましたが、最終的には手元にあるドイツのAGFAの古い印画紙とAGFAの現像液を使うことにしました。

AGFAの印画紙は6年前に製造中止になっています。ニュースを知り、ベルリンの写真材料店で並んでいるのを見つけ、買い置きしていたものです。おそらくAGFAの会社には資料として冷蔵保存されていると思いますが、個人が所有するAGFAの印画紙はおそらく僕の手元にある印画紙が最後の紙かもしれません。印画紙は生き物ですから当然有効期限があります。僕の手元にある印画紙は6年前に買った印画紙なので、とっくに有効期限は切れているはずです。食料品などの生ものは賞味期限が切れると腐りますが、印画紙の場合はぼんやりして黒のしまりが悪くなります。

「Hof ベルリンの記憶」に収められた写真は19世紀末から20世紀初頭に生まれた中庭や街並みです。今は再開発が進み、見ることも撮ることも出来ない歴史の中の風景になってしまいました。そんな写真世界だけに、ベルリンの文化の一つであるAGFAの紙に定着させる営みは、ぼんやりした仕上がりも含めて表現だと思い、あえて古いAGFAの印画紙を使うことにしました。

手元に印画紙があるといっても、16×20in100枚だけですから、失敗が許されないので気合いが入ります。でも失敗していますが。先に身体が喜んでいると書きましたが、この感覚はプリント作業の経験のある人なら、多くの人が知っている喜びだと思います。デジタル革命が進み、好む好まざるに関係なく、家族や生活のためにデジタルを選択せざるを得なかった、多くの人たちの無念も想像しながら作業にとりかかっています。ただ人前に出せないレベルな場合には、時間の問題もありますが、そこで改めてプリントをどうするか考えたいと思います。でも正直怖いので、AGFAでいくのか、印画紙を切り替えるのか、あと二日で判断したいと思います。


インドのワークショップでお世話になったヴァラナシの知人が来日しました。宗教的にベジタリアンの彼との食事は、店探しが難儀でしたがそれもまた楽しかったです。結婚相手も同じ宗派のベジタリアンだそうです。生まれた子どもも必然的にベジタリアンになる訳ですが、そんな彼が持つ文化もまたいいなと思いました。ただ駅ビルの食品売り場を通り抜けた時です、「売れ残った食べ物はどうなりますか」と驚きともつかない素朴な質問が飛び出しました。そうなんですよね。

ベルリンから来日している方とは、僕のベルリンでの展示についての課題、ベルリンで活動をしているポーランド人写真家と旧東ドイツ生まれの写真家の作品展を日本で進めている準備の話、これからの活動の話が中心でしたが、時期が時期だけに、福島の原発事故の話題になりました。日本に伝えられている海外メディアの反応は「我慢強く規律正しい日本人」ですが、その片方で「放射能に無知で関心が薄い」という報道も少なくなかったそうです。無知というより声を上げない日本人が政治も含めて軽視されているということだと思いました。

3年前からスタートさせたベルリンにある、HOTEL BOGOTAの吹き抜けを使った試みについて、ホテルのオーナーのリスマンさんと向こう3年間、大枠ですが、作家を含めて合意をしました。これまではホテル内だけの試みでしたが、外に広げて行くことでも一致をしました。経済行為とは無縁の試みにも関わらず、リスマンさんの「このようなプログラムに関われることを誇りに思います」という言葉に胸をうたれました。

数年前から引き受けている、民放連が主催する、ラジオ、TVCMの審査が先日終わりました。100本近いCMを一日で判断するのは体力のいる仕事ですが、賞を決めていく過程が楽しく勉強になっています。審査員5人で、一作品それぞれ持ち点10点をもとに投票します。そして集計された後に、上位15作品ぐらいから、討議、再選考