HASHIGUCHI George

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橋口便り
橋口便り 


●2012.1.30


気がついたら、もう2月がそこまで来ていました。

ベルリンから今年の冬は日中でも手袋もいらないほど暖かい冬ですと便りが届きましたが、僕の家の近所にある公園の池には薄い氷が張りついたままです。例年ならこの頃のベルリンはマイナス10度の世界なのですが、やはり世界の気候は狂い始めているようです。

狂い始めているという表現は人間中心に考えた発想で、予測出来ない動きをするそれが自然界なのかも知れないです。このところ毎日のように起きている地震にしても地球が活動期に入った証なのかもしれない。正直怖いものを感じます。自然の気まぐれで起きた災害で被害を受けてしまった大勢の人々の存在には胸が痛みます。ですが人間の英知を超えた動きをする生命体である地球に人間として居させてもらっていることに心躍る自分がいるのも確かです。


昨年末から「Woman」のポートフォリオ造りや、僕がオーガナイズしているベルリンにあるHOTEL BOGOTAの吹き抜けを使った新しい展示作品の図録の制作に追われていました。ポートフォリオは写真集や展示とはまた違う難しさに直面してしまい中断してしまいましたが、ただ図録の方は展示作家の頑張りや国内外にいる知人らの助力もあり、2月14日のオープニングには間に合わせられるところまで来ました。ポートフォリオは中断といってもテキストの英訳を残すのみです。

HOTELの吹き抜けを使った展示を始めて今年で4年目になります。これまでの3年間は展示をするということだけで精一杯でしたが、4年目にしてやっと図録として残すところまで辿りつけました。回を重ねるということはこういうことだと思います。

これからも新しい作家、作品が登場してくるでしょうが、前の人たちが手探りで場をつくり空間を維持して来たからこそ今があるということをこれから登場してくる作家には頭の隅に置いて欲しいと思います。僕が20代のころ、理想に燃え竹藪を切り開き開墾の手伝いをしていたことがありました。鍬をふるい土を掘り起す作業をしていた時に、詩人で人生の師匠的な存在の人が「ジョウジ、畑を作っているからといって、この畑で実る作物まで自分で食べようと思ってはいけない」と諭されたことの意味を最近少し理解できるようになりました。

気持ちが重たくなり、橋口便りが中断していた大きな理由がもう一つあります。
3月11日以後、「絆」「繋がり」という単語を人々は連呼し巷に溢れました。助けあうことは当たり前のことだし大切なことです。でも僕は「絆」という言葉に触れる度に、違和感を覚える自分がいます。3月11日に起きた地震と津波が起きたことで、見えてきた問題、課題、テーマを一人一人が考えることなく「絆」「繋がり」という単語に預けてしまっている印象を受けるからです。

12月のクリスマス前から新年にかけての吉祥寺の街角では買い物袋を提げた人たちが、肩をぶつけ合い、進路を阻む人をお腹で突き飛ばしている、そんな光景が僕の視界の中で繰り広げられていました。あの時に「助かって良かった」「被災して亡くなった人たちはなんて気の毒なんだろう」と日本中の皆が思ったはず。あの瞬間人々の中に芽生え浮かんだ思いは何処に飛んでいったのだろうか?

地震と津波は大勢の人々の命を奪いました。
生き残った僕らが考えなくてはいけないのはここから先です。

津波や地震は人々を選んで命を奪ったでしょうか?
津波にのみ込まれて亡くなった人たちの中には、国籍、性別、年齢に関係なく、いい人も悪人も地域やコミュニティに馴染んでいなかった人、ひきこもりや社会に排除されていた人、地域や社会に愛され大切にされていた人も、ホームレスや社会に排除され意味もなく侮蔑されていた人、詐欺や犯罪を働いていた人もお金持ちも貧しい人も属性に関係なく、津波は容赦なく命を飲み込みました。そして幸いにも「助かって良かった」と思った僕らにしても同じことが言えます。
3月11日以降に幸いにも生き残ることが出来た人たち、僕らもまた分けへだてなく「生き残れた」という幸運をもらいました。


新しい文明の利器の発達により、生活環境が変わりました。これまで文明の利器は人々の暮らしを豊かにしてきたのは確かなことです。ただこの10数年の僕らの社会環境を見る限り、新しい文明の利器は人と人の関係を阻害しているように思えてならないです。新しい文明の利器のお陰で直接人と人が向かい合わなくても暮らしが成り立つようになったその片方で、僕ら人間社会は様々な見えない壁で分断されまくっています。強いものが正しい、お金が全てという社会が蔓延してしまった日本を津波と地震が容赦なく襲いました。

誤解や非難されることを承知で触れると、津波と地震はこの10数年日本社会を閉じて覆いかぶし、日本社会を壊し人間を歪にさせていた犯人、正体をあの瞬間壊し、分断されていた人々を繋いでくれた。

「助かってよかったね」「大丈夫ですか?」とだれかれとなく自然に心から励ましあえ、疎遠になっていた人に気持ちを飛ばし、隣に居る人の顔を見合った3月11日からの数日間こそが、地震と津波が大勢の人々の命と引き換えに僕らに残し気づかせてくれた財産だと僕は思う。数日間の幸福で終わらせてはいけない。

でももう震災や福島が消費され始めていることの方が僕は津波や地震よりも怖い。

「絆」「繋がり」という言葉を僕は否定はしません。ですが僕が子どもだったころは、畑や田んぼの無い家の人には、お米や作物を届けることは普通に行われていたことでした。
今、新聞、雑誌、TVで個人の生を取り上げて特集されています。そんなメディアに1988年から評価に関係なく、日本の様々な場所で生きる人々のポートレートと言葉を記録してきたものとしてあえて傲慢を承知でこの場で伝えたいことは、どうぞ今のまま普通の人々の存在に関心を持ち続けて欲しいということです。

そして日本という狭い国土で、風土や文化を無視して、見栄えや効率を優先させた「郊外」という街造りもこの機会に立ち止って考えてみてもいいのではないでしょうか。

両親が二人とも他界をしてしまったことで、僕にとっての故郷が意識の中でかすみ始めていますが、僕が幼稚園生だった頃の先生で、橋口家の菩提寺の大奥さんでもある方から年賀状で「何時でも帰って来てください」と届きました。中学卒業後、集団就職して行った同級生からは「皆に顔を見せに戻らんと」と。故郷は有り難いです。

それだけに自分の意思に関係なく故郷を奪われてしまった福島の人々。福島の人々に負わせてしまった「何時か放射能の影響が健康に出るかもしれない」という見えない恐怖と悲しみに繋がるような文明の利器は捨てないといけない。

・「Hof ベルリンの記憶」の大阪展も無事に終えることができました。
大阪でも途中でDMが無くなったそうです。
ささやかでしたがオープニングも開きました。
大阪鶴橋でお餅屋を開いている知人が韓国風お餅や、巻物、キムチを届けてくださり豊かな一時を持つことができました。お蔭様でしばらく疎遠になっていた写真家とも会うことが出来て良かったです。


そして何人かの人に「なぜ壁や壁後を撮っていたにも関わらず、ここにその写真がないのだ」と問われました。その理由を説明していく中で、自分自身が五感で「HOf」の写真を撮っていたことを改めて思い出すことができました。そして「だから撮影年に空白があるんですね」と理解を示してくださり、ありがたかったです。

・3月に北海道札幌でベトナムの子どもたちの作品展と僕の講演会が開かれることが決まりました。


現在ベトナムの子どもたちの作品ボードを制作中ですが、基本的なフォーマットが決まりました。
日本を巡回させるボードには日本語とベトナム語、
ベトナムに持っていくボードにはベトナム語と英語のテキストをそれぞれ付けます。



お知らせです。
僕の1980年代のベルリンや作品「動物園」の作品造りを知識面からサポートしてくれていた、翻訳者の高田ゆみ子さんと筑紫さんのラジオ番組のパーソナリティーをなさっていた齋藤弘美さんの二人が企画する映画が下記で催されます。

「みえない雲」はベルリンの旅行中に本屋で見つけた近未来小説で、翻訳者の高田さんが自ら小学館に持ち込み「みえない雲」の日本語版が生まれました。同タイトルの文庫本とコミック本が小学館から発売されています。

2月19日(日)に門前仲町にある門仲天井ホールというところで「みえない雲」の上映会&お話会

http://shienmonten.blogspot.com/2011/12/201221915.html

2月25日(土)は恵比寿にあるアサンテサーナカフェで「みえない雲」の上映会&お話会があります。

http://www.p-alt.co.jp/asante/archives/cafe/



遅くなりましたが、僕だけではなく日本の文化関係者が大変お世話になっているベルリン在中の中村真人さんの本を紹介します。下記の2冊に共通しているのは、中村さんの教養の深さと知識だけで目の前のことを語らず、ベルリンの街に対する好奇心と愛情に支えられていることです。

「素顔のベルリン」
ダイヤモンド・ビッグ社刊 (1,500円+税)

「街歩きのドイツ語」
三修社刊 (1,500円+税)





●2011.12.8


家の周辺でやっと木の葉が舞い始め、窓の向こうからかさかさと耳に心地よい季節の音が聞こえてくるようになりました。でも幹線道路の街路樹、プラタナスや銀杏、楓の葉がまだ青々としていて、人工樹みたいで不気味です。

先週横田基地の近くで「Woman」を撮影した後に、そのまま秋川渓谷まで走り、峠を超えて山梨県の上野原から中央道を抜けてぐるりと関東平野を取り巻く山のすそ野を通りぬけて来ました。植林された杉の木が多いことも視界の印象に影響しているかと思いますが、木々の紅葉はまばらな感じでした。今年は秋を通りこして冬が始まりそうです。

ただ途中でみた秋川渓谷を流れる河の水が綺麗なことに驚かされました。東京の中心部から一時間余り離れるだけで河底が透けて見える程、澄んだ水が流れていることに新鮮な感動を覚えてしまいました。水が綺麗なことも関係しているかと思いますが、お昼に食べたお蕎麦も美味しかったです。

僕は昔から森を歩く人でしたが、地震や津波、福島で起きた原発事故が起きてからというもの、今までになく森や身近な自然に気持ちや意識が飛ぶようになって来ている自分がいます。上野原を目指したのは、暗室や作品を保管する場所を探しているためです。

先の橋口便りで、原発事故が起きた後だけに、阿武隈山地にキノコを採りに入る人はいないのではといった内容のことに触れましたが、そのことは僕の考え違いなような気がします。暮らしの中に森がある人たちにとっては、森に入りキノコや山菜を探すのは散歩の延長みたいなものであって、食べる食べないはともかくとして、今年もキノコが出ているかどうか山の様子を見に確かめに森に入る営みは変わらない気がします。たぶん想像ですが放射能のことを気にしつつも、恐る恐るの思いで山の恵みを口にしている人もいる気がします。

どうしてそう思うかというと僕の子どもの頃、祖母は80過ぎても毎日田んぼや畑に杖を頼りに出かけていました。畑や田んぼで特に何をするというわけではなかったと思いますが、田んぼや畑の様子を眺めて一日一日を過ごしていました。祖母は自分が生きた時間を畑の中に見ていたのだと思います。学校から戻り祖母の姿が見えないと、田んぼに続いている川沿いの土手を走って迎えに行くのが僕の仕事でした。走っていたのは急いでいたのではなく、時々足元にでる蛇をみたくなかったからです。宵闇がせまる土手の上で僕の姿を見つけた時の祖母の笑顔を今でも良く覚えています。亡くなる前日まで畑に出かけていた祖母のことを思うと、先の地震と津波で海辺から遠ざけられた人々の暮らしのことが気になります。福島原発の事故で移住を余儀なくされた人々のことは勿論です。福島の人たちにはかける言葉も見つからないですが、津波の被災地で進められている高台移転の集落造り以外に何かいい方法は無いものかと畑に居る時の祖母のことを思い出しながら思う今日この頃です。

愛媛県でベトナムの子どもたちが撮った写真の巡回展の中心になってくださっている高校の先生とお会いしました。他府県の先生たちともやりとりが始まりました。

今月発売の「すばる」で写真集、写真展で中断をしていた「旅の始まり」の中編を書き上げて載せています。「3月11日前に収穫したお茶です」と知人から静岡のお茶をもらいましたが、これからずっと放射能のことを気にしながら生きて行かないといけないのかと思いました。

8日から大阪で写真展が始まりますが、11日までは大阪に滞在する予定です。





●2011.11.13


先日、新潟を流れる河に鮭の遡上を見に出かけてきました。時期的に少し早かったことや、自然災害が続いていただけに「もしかしたら今年は戻ってこないのではないか」と心配でしたが、ちゃんと鮭の姿を見ることができました。河原に降りて行くと、鮭は危険を察して深場に逃げて行きますが、気配を消してしばらく静かに佇んでいると、すぐにまた戻ってきて、まじかで見ることがでました。

泳ぐ鮭に癒された後、しばらく新潟の海岸線を車で走りましたが今年は温暖化の影響で、青物の魚、ワラサやサワラの戻りが遅いと行く先々で耳にしました。釣り客の姿を大勢見かけましたが、誰一人魚を釣り上げている様子もなく、釣りの好きな僕は、魚が釣れていないことが分かると安心する自分がいて可笑しくなります。

乗鞍高原では、やはり温暖化のせいでマイタケが今年は全然採れないと、嘆いている方と会いました。その人いわく「キノコの根が土の中で腐ったんじゃないか」ということでした。ただちょうど山葡萄の収穫期で、絞りたてで香りもこくもあるブドウジュースをご馳走になりました。美味しいと思いながらも、放射能のことが頭をよぎります。ブナ林を見下ろす露天風呂を見つけ、久しぶりに温泉らしい温泉に入ることができて幸福でした。山を下りて行く途中に、林の中から出てきた籠を手にした人と出くわしました。籠の中には沢山のキノコが。やはり地元の人には敵わない。でも籠を持った人が出てきた林の場所はしっかり頭に入れました。

以前、福島の阿武隈山地にキノコ採りに連れて行ってもらったことがあります。
森の中で腰の曲がったキノコ採りのお婆さんや、落ち葉の中のミミズを探しているイノシシの子どもウリボウ3匹とも行き会い、キノコは短時間でたくさん見つけることができて幸福でした。原発事故が起きたことで、もう阿武隈山地にキノコ採りに入る人は居ないでしょうが、何も知らずに森の恵みを食べている動物たちは本当に気の毒です。

・プリント感覚を忘れないうちに、印画紙をそろえて「HOF」のプリントをもう1セット作るのと、ベルリンの延長で撮りためていた東京のプリント作業に入ります。

・ベトナムに届ける子どもたちの作品の形態、方向性がやっと僕の中で絞れてきました。

ベルリンのHOTEL BOGOTAの吹き抜けを使った展示についても、作家のスケジュールがやっと固まり、1月末から2月にかけての制作、展示になりました。僕もこの時期に合わせて打ち合わせにベルリンに行ければと考えています。

・最近、遺影の撮影や家族写真の撮影を依頼されることが増えて来ました。作品を作ることとは違う喜びを感じています。




長野県乗鞍



無料の露天風呂






●2011.10.10


お蔭さまで、写真展を無事に終えることができました。
写真展は多くの方に好意的に受け止めてもらえたようです。良かったです。

久しぶりの展示ということもあり、誰も見に来ないのではないかと心配でしたが、会場の立地の良さに加えて新聞各紙やネット媒体での告知の助けがあったこともあり、多くの方が足を運んでくださいました。会場に用意してあったDMも4日で無くなり他の会場から取り寄せてもすぐ無くなることの繰り返しでした。台風の日以外は古い知人や読者が訪ねて来ると思い毎日午後から会場につめていました。沖縄、鹿児島、宮崎、岡山、大阪、金沢、長野、青森、北海道と本当に遠くから足を運んでくださいました。


恐縮しつつも僕を支えてくださっている人たちの存在を改めて確認できた思いです。芳名帳に残された名前を確認しながら、これからも今まで通り気持ちに沿った仕事を続けている限り、この方たちは僕を見続けてくださるなと思いました。有り難いです。

ただ思いの他、若い人たちの来場が少なかったのと、来てくれたとしても足早に出て行く人が多かったです。おそらく僕がこの数年、写真メディアから離れていたことに加えて、若い人たちが日常的に触れている写真と僕の写真世界が、なじみが薄い世界だったのでしょう。ですが殆どの方が本当に一点一点じっくり見てくださいました。中には2、3時間も会場に居る方を何人も見かけました。写真を見るというより、一枚一枚の写真が重なり合い醸し出し生まれる空気の中に身を置いていたいのだなと僕には映りました。僕が「HOF」の撮影中にミッテ地区とプレンツラウアー・ベルグ地区の二つの地区でいつも感じていたことと同じ様な感覚な気がします。「ベルリンやドイツに行ったことはないけど、どこか懐かしい感じがする」という感想を残してくださった美術家の方や、写真を見ながら少なくない人が目を潤ませている光景も目の当たりにすることが出来ました。たぶん感情を共有しあえたのだと思います。

ただ、久しぶりの展示ということもあり、僕が照明まで気がまわらなかったことで、映り込みが酷いという指摘も複数受けました。照明も含めて作家の責任ですが、設営者とのコミュニケーション不足と役割の確認が僕の中でできていなかったのが、大きな原因だったと思います。それに設営が終わり戻ろうとしたときに、会場の係りの方に「芳名帳はどうしますか」と問われました。個人で応募して展覧会を開くということは、こういうことかと慌てさせられてしまいました。

初日にレセプションも開きました。レセプションを開くにあたり、お酒の飲めない僕は、知人にどんな種類を飲んでいるか尋ねるところから始めましたが「発泡酒」という答えが戻ってきて、でもその「発砲酒」が分からないから困りました。最後は有名な銘柄のビールを3種類用意しました。ワインは時々食事を一緒にする知人の編集者に相談するつもりでしたが、彼はいつも上等なワインしか飲んでいなかったことを思いだし、ワインは星野に頼むことにしました。僕はチリ産かスペイン産の安いワインをリクエストしましたが、飲み物の中でワインが最初に無くなったことを後で知りました。星野は上等なワインを用意してくれたようです。軽食のサンドイッチや巻物は吉祥寺の普段使っているパン屋さんと魚屋さんにお願いをしました。馴染みのお店ということもあり、時間に合わせて鮮度のいい素材を準備してくださいました。顔見知りの世界は優しいです。コカコーラが安かったので、コーラも用意するつもりでしたが「価値観が問われるよ」と言われで止めにしました。僕らの世代は飲み物とはいえ、選択の一つ一つが大変です。

レセプションのサーブを手伝ってくれた人たちの中に僕のワークショップに参加した、今は社会人でかつて学生だった二人がいました。「分からないでしょうが、ワークショップに参加した○○です」とレセプションに駆けつけてくれた人もいました。何かの縁で出会い、数日間とはいえ濃密な時間を共有した僕らの間には気持ちの重なりというか、形容しがたい不思議な関係が生まれるのが喜びです。会期中に「成長期の大変な時期に娘がワークショップでお世話になりました」と近況を含めて報告に来てくださったお母さんも。1981年頃から僕を助けてくれたり、苦しい時間を一緒に克服して来たアシスタントだった皆が元気な顔を見せてくれたのも嬉しかったです。


レセプションも自分で用意したことで、デビューしてから今日まで、周りの人たちに写真展にかぎらず何かと過分な好意を受けて来ていたことを、改めて確かめられたことも良かったです。

レセプションを開いた理由はもう一つあります。僕がこうしていられる背後や周りには僕を支えてくれている大勢の人たちがいます。そんな人たちを僕との点の関係から横に広げ繋ぎたかった。ただ来場者が多くて思うようには行きませんでしたが、少しは紹介しあえた気がします。いろいろなことを自分で確かめたことで出費は嵩みましたが、たぶんですがこの先も表現の世界で生きていけそうな気がします。

それに写真展を僕が自分で試みようとしていることを知った知人の何人かが、決して安くはないオリジナルプリントの購入を申し出てくれました。主体的に動いたことで、新たに動き出し生まれる関係。有り難いです。ただ多くの写真家は自分で全てまかなうことは当たり前のことなので、これまで僕がいかに恵まれた環境にいたかということだと思います。作品「Hof ベルリンの記憶」の展覧会はこれから複数個所で開かれていくかと思いますが、写真集、展覧会と区切りがつけられたことで、中断をしていたアートワークに軸足を移すことが出来ます。とりあえずは、ベトナムの皆に、日本の同世代の学生たちが彼らの作品に触れたことで、感じた思いや紡ぎだした言葉を届けに行くつもりです。

そうすることで、僕がこれまで目指してきた巡廻型のアートワークが初めて成立する気がします。でもまたそこで課題が生まれるかもしれないですが。それとインドにも様子を見に出かけてみるつもりです。

余談ですが、搬出が終わり駐車場の車の中で一息つきたくて、選んだのは冷たいコカコーラでした。座席に寄りかかりながら飲んだコーラは脳がしびれるほど美味しかったです。

最後になりますが、僕は久しぶりの展示と書きましたが、それは日本国内でのことであり、そして写真メディアや写真界から離れていたのは、けして創作を中断していたわけでもなく、僕としてはよりクリエイティブなところに身を置いていたつもりです。作品を創作することと、日本社会の中に居場所を探すことはまったく別なエネルギーを必要とします。社会の中で自分の居場所を作る過程において、時として打算的なものも生まれるでしょうし、創作をするエネルギーとは異なる種類の欲望と向かわざるをえなくなります。僕はワークショップを試みるようになってから、限られた時間はよりクリエイティブなところで使いたいという思いを、いっそう強く持つようになりました。僕は自分の現場は自分で生み出していきたいのと、物事の中心は世間の中にあるのではなく、自分の中に有ると思っています。




作品を60点展示しました


レセプション





カタリーナ・ハウゼルさんの解説文を読む人たち






●2011.9.13


一週間程前にやっと展示作品のプリントが終わりました。良かったです。一時はベルリンの黒が見つからず、このままだと展示スペースに掛ける作品が出来ないのではという不安が日増しに増殖し、気が狂いそうな日が何日間も続きました。ただこの2か月苦しんだことで身体感覚を大切にした写真表現を見つけられた気がします。

実はプリントが上手くいかず、一か月程前に日程を考え一度自分でプリントをするのを諦め、プロラボにお願いに上りました。プロラボにプリントを依頼しつつも、これで良かったのかなという心の声が聞こえて来るのです。自分自身の今の感情を確かめる。写真展を開くことだけが目的ではないだろうという思いが自分の中にあったからです。プロラボにプリントを依頼したことを伝え聞いた知人は「AGFAの紙がもったいないですね」と。その呟きを聞き、ラボにお願いに上がったその夜、自分自身を納得させるために再び暗室作業を試みてみました。そこで印画紙には問題はなく、問題なのは僕の技術と今の能力だということが分かりました。気をとりなおし二日後に、ラボに断りに上りネガを引き取ってきました。その時点でもう逃げ場は無くなり、その夜から残り枚数の印画紙を計算しながら神経が磨り減るような時間が始まりました。

そんな夜が続いていたある日「現像液はどうされていますか」との問いが、ほぼ同時期にプリンターの久保さんと若い写真家から出てきました。実はドイツ製のAGFAに拘ったことで、印画紙だけではなく、現像液もAGFAの古い薬品を使っていました。印画紙だけではなく薬品にも有効期限があることを初めて知りました。自分の基礎知識の無さを嘆く前にとにかく展示作品を完成させないといけない。薬品の問題が解決したからと言ってすぐすぐプリントが変わるものではなく、残りの印画紙と展示作品の点数に赤信号がついた夜、もう本当に頭が狂いそうになり久保さんに一度プリントの方向性を見てもらうことになりました。そして「ベルリンの気配を思い出すことです」「もっと感情を大切に」というアドバイスを久保さんにいただきました。メールでは技術的なことが中心でしたが、僕のプリントを見た後の久保さんの意見は、根源的な問いでした。

久保さんと別れた後、ベルリンで嗅いでいたコーククスの匂い、一日中日が当たらない中庭の隅で、かび臭い湿った空気を毎日嗅ぎながら撮影していたことを思いだしました。足を止めシャッターを押した時の感覚が身体の中によみがえってきたのです。不思議なことにその夜からプリントが見違える様な仕上がりに変わり、なんとかベルリンの気配を捕まえることが出来た気がします。たくさんの無駄をしたこともあり、AGFAの紙は使い切りましたが、悔いは無いです。プリント作業に追われていたこともあり、写真関係者にはほとんど、展覧会のDMを送ることはできませんでした。ただ季節のやりとりをしている知人たちには、DMは発送できたので安堵しています。


8月に、故郷鹿児島の新聞で、太鼓を使ったインスタレーションの作品を4回にわたり発表する機会を得ました。方法論は見つけることは出来ましたが、まだ太鼓との距離をつかめあぐねています。紀伊半島の豪雨の災害に触れ、東北で起きた地震や津波の災害もそうですが、改めて自然の驚異を知らしめられた気がします。グローバル革命が進んだことで社会環境が変わりましたが、日本の国土が持つ地政学的な危険度は変わってない。文明の選択が問われている原発問題とは異なり、日本はもともと災害が多い国だということを忘れてはいけないなと思いました。とにかく今は目の前の困難を日本全体で耐え忍び、克服して行く時期なのだと自分に言い聞かせているところです。

紳助さんが自らの問題で引退されましたが、20年程前に僕は作品「Father」で紳助さんを撮らせてもらっています。撮影の時に許された時間は20分でした。マネージャーさんが「もう時間です」と僕らの間に割って入ってきたとき、紳助さんは「何ゆうてんねん、この人まじめやないか、時間は気にせんでいいですよ」と対応してくださったことを今でもよく覚えています。ヤンキー時代の紳助さんらが主役の「狂い咲きサンダーロード」という題名の映画を見て感じるものがあったのと、紳助さんは大勢いる芸能人の中で、いい意味で違う輝きをあの頃の紳助さんから感じ受けたので声をかけさせてもらいました。できることなら何時かどこかで紳助さんと、ゆっくりお茶を飲みたいなと思っていますが、無理かな。





●2011.8.14


数日前から9月の写真展で展示するプリント作業に入りました。久しぶりに身体が喜んでいて、夜にも拘わらずプリントが一枚仕上がるたびに雄叫びを上げています。

展示作品をプリントするにあたり、プリントを知人に頼むか、どの印画紙を使うか今回はいろいろ悩みました。最終的に自分でプリントすることにしました。今の自分の中にある感情を確かめ残しておきたいとの思いからです。印画紙については、プリントのうまい知人や、モノクロプリントで作品を制作している人たちに相談をしました。通販でアメリカから取り寄せることも考えましたが、最終的には手元にあるドイツのAGFAの古い印画紙とAGFAの現像液を使うことにしました。

AGFAの印画紙は6年前に製造中止になっています。ニュースを知り、ベルリンの写真材料店で並んでいるのを見つけ、買い置きしていたものです。おそらくAGFAの会社には資料として冷蔵保存されていると思いますが、個人が所有するAGFAの印画紙はおそらく僕の手元にある印画紙が最後の紙かもしれません。印画紙は生き物ですから当然有効期限があります。僕の手元にある印画紙は6年前に買った印画紙なので、とっくに有効期限は切れているはずです。食料品などの生ものは賞味期限が切れると腐りますが、印画紙の場合はぼんやりして黒のしまりが悪くなります。

「Hof ベルリンの記憶」に収められた写真は19世紀末から20世紀初頭に生まれた中庭や街並みです。今は再開発が進み、見ることも撮ることも出来ない歴史の中の風景になってしまいました。そんな写真世界だけに、ベルリンの文化の一つであるAGFAの紙に定着させる営みは、ぼんやりした仕上がりも含めて表現だと思い、あえて古いAGFAの印画紙を使うことにしました。

手元に印画紙があるといっても、16×20in100枚だけですから、失敗が許されないので気合いが入ります。でも失敗していますが。先に身体が喜んでいると書きましたが、この感覚はプリント作業の経験のある人なら、多くの人が知っている喜びだと思います。デジタル革命が進み、好む好まざるに関係なく、家族や生活のためにデジタルを選択せざるを得なかった、多くの人たちの無念も想像しながら作業にとりかかっています。ただ人前に出せないレベルな場合には、時間の問題もありますが、そこで改めてプリントをどうするか考えたいと思います。でも正直怖いので、AGFAでいくのか、印画紙を切り替えるのか、あと二日で判断したいと思います。


インドのワークショップでお世話になったヴァラナシの知人が来日しました。宗教的にベジタリアンの彼との食事は、店探しが難儀でしたがそれもまた楽しかったです。結婚相手も同じ宗派のベジタリアンだそうです。生まれた子どもも必然的にベジタリアンになる訳ですが、そんな彼が持つ文化もまたいいなと思いました。ただ駅ビルの食品売り場を通り抜けた時です、「売れ残った食べ物はどうなりますか」と驚きともつかない素朴な質問が飛び出しました。そうなんですよね。

ベルリンから来日している方とは、僕のベルリンでの展示についての課題、ベルリンで活動をしているポーランド人写真家と旧東ドイツ生まれの写真家の作品展を日本で進めている準備の話、これからの活動の話が中心でしたが、時期が時期だけに、福島の原発事故の話題になりました。日本に伝えられている海外メディアの反応は「我慢強く規律正しい日本人」ですが、その片方で「放射能に無知で関心が薄い」という報道も少なくなかったそうです。無知というより声を上げない日本人が政治も含めて軽視されているということだと思いました。

3年前からスタートさせたベルリンにある、HOTEL BOGOTAの吹き抜けを使った試みについて、ホテルのオーナーのリスマンさんと向こう3年間、大枠ですが、作家を含めて合意をしました。これまではホテル内だけの試みでしたが、外に広げて行くことでも一致をしました。経済行為とは無縁の試みにも関わらず、リスマンさんの「このようなプログラムに関われることを誇りに思います」という言葉に胸をうたれました。

数年前から引き受けている、民放連が主催する、ラジオ、TVCMの審査が先日終わりました。100本近いCMを一日で判断するのは体力のいる仕事ですが、賞を決めていく過程が楽しく勉強になっています。審査員5人で、一作品それぞれ持ち点10点をもとに投票します。そして集計された後に、上位15作品ぐらいから、討議、再選考が始まります。ここからの僕らの発言、呟きはすべて録音されます。

上位からもれた作品についても、一人でも高い得票を入れた人がいた場合には、なぜ高得点をいれたのかその理由の説明を求められます。その逆に総合得点が高くても一人低い点数を入れた人がいた場合にも、その理由を求められます。そして意見が出そろったところで、最後は挙手により選びます。時々「寝返ったな」という発言が飛び出したりするから面白いです。個々の感じ方や受け止めかたもいろいろで、その意見を聞くのも楽しいのですが、審査員でもあり議長役の大学の先生の裁き方というか、民主的な進行がすばらしく、社会感も含めて毎年勉強になっています。

時々やらかすのですが、先日財布をもたずに、カフェに出かけてしまいました。財布が無いことに気が付いて「水だけください」と言うと、だまって水が出てくるのが吉祥寺の楽しいところです。

展覧会の準備をしながら、東京での展示が終わった後に、ベトナムのワークショップで出会った皆に、彼らの作品を見た日本の学生たちの感想と大伸ばしにした彼らの作品を届けに行く準備も始めました。展覧会が終わった後といいましたが、プリント作業に追われ、他の作業が進んでいないのを感じとった若い知人が、「できることはやりますので、分担しましょう。それに皆にも声掛けします」と声をかけてくれました。DMの配布に地図やキャプションまわりをお願いすることにしました。知人の申し出を聞き、展覧会は何とかなるような気がしてきました。知人に背中を押されて飲み物だけですが、オープニングもやることにしました。

前回の橋口便りで草間彌生さんについて触れましたが、彼女が素晴らしいのは、現代美術が認知されていない社会環境下で、批判されることを承知で、一人で挑んでいた生きる姿勢です。その生き方には魅かれるものがあります。




銀座ニコンサロン
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         ニコンプラザ大阪内
TEL06-6348‐9698


●地図はこちら





知人が池袋の本屋で見かけたと、送ってくれました。





●2011.7.18


暑い日が続いていますね。

福島原発事故の影響で、放射能による生活破壊がジワジワと進み、原発の正体が明らかになっている中、TVのニュースで野良牛や野良豚の群れを確認できて少し安心しました。野良豚の向こうには餓死した仲間の姿も見えていました。家畜から生き物としての牛や豚に戻った彼らが、この先もずっと生き延びてくれることを祈ります。放射能に汚染されているでしょうが、逃げて逃げて生き延びて野良家族を増やしてほしいと思いました。

現代美術家の草間彌生さんのTVドキュメンタリーを見ました。80を過ぎた草間さんが100枚の連作に挑んでいる姿にいろんなことを教えられました。

普段の日常生活すらままならない中で、創作に向かう姿にどこか神々しいものすら感じてしまいました。ベンツでアトリエに通い、作品に何千万という値段がついている人のお昼ご飯が、誰も居ない部屋で一人おにぎり2個におでんというのも印象的でした。45歳の時に精神のバランスを崩した草間さんが精神病院に入院されて、病院の中で創作を続けられたことも知りました。


世界の美術マーケットの実態というか、仕組みみたいなものの一面も番組では描がいていました。美術マーケットを支えている人たちの思惑というか本音は良く分からないですが、作品が評価されようがされまいが関係ないところで、規制の概念に挑み、戦い続けてこられた草間さんの軌跡を知ることができて良かったです。

話は飛びます。
9月に「Hof ベルリンの記憶」の写真展を開くことになりました。写真展を試みるにあたり、僕は30年ぶりに一般公募に応募をしました。応募したのはいいけど、写真展の審査の結果が届くまではハラハラドキドキしてしまいました。一般応募ですからDM代から全て自分持ちになります。

展示作品のプリント作業に展示に向けての雑事。正直なところこんなに沢山あったのかと万歳したくなるほどです。でも鹿児島から上京してきた時にも、だれも知りあいの居ない写真や芸術の世界で、一つ一つドアをノックすることから始めたことを思うと、仕組みが分かっている分まだ楽ですが。複数の企業の方が協力したいと、有り難い気持ちを届けてくださったり、日本の外で僕の展覧会の為に動いてくださっている方もいらっしゃいますが、これから生きる時間のことを考え、とりあえず自分でできることにトライすることを選びました。詳細は追って報告できると思います。


先日、母の葬儀のお礼もかねて、昔の仕事仲間と食事をする場を持ちました。その席で「政治同様に私たちTVメディアも権力です」と吐露した知人の言葉が心に残りました。知人みたいな意識を自覚している人は少数派だと思います。

少なくない方がいろいろ僕のことを心配してくださっていますが、山奥の名もない河で岩魚やヤマメをさがしたり、森の中でご飯を炊いたり、山梨に草取りに出かけたり、三浦半島の油壺や剣崎に海を眺めに出かけたりと、気持ちの余裕は持てているので安心してください。


ここは山中湖に面した友達が所有する場所です。
ここにフローリングの野外ステージを作る計画を立てているところです。






●2011.6.3


いつの間にか梅雨が始まってしまいました。

雨の中を歩きながら僕が小学生だった頃、雨が降るたびに放射能に気をつけなさいと、先生に言われていたことを思い出してしまいました。子どもの頃アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を繰り返していたからです。

福島の原発事故がどのように終結していくのか想像はつかないですが、確かなのは僕等はこの先何年も放射能の恐怖と一緒に過ごさなくてはいけないということです。たぶん一生でしょう。

僕等は今日まで快適な暮らしを享受してきたわけですが、福島の原発事故はそんな快適な暮らしの背後に潜んでいた問題と真面目に対峙して来なかったことを気づかさせてくれました。責任は僕等全員に有ると思います。

放射能から逃げ惑っている福島の人たちや牛さんや犬さんや猫さんたちが一方的に生活や生存を奪われている現実を目の当たりにしても、まだ原発は必要だと唱えている人たちの根拠が僕には分からない。日本は確かに資源の無い国ですが、人間の手で制御できない、コントロールできないのが原子力だということを突き付けられた今、原子力を使わなくて済む生活のあり方を模索するのが普通の感覚の有り様だと僕は思うのですが。


それにアメリカや中国、ロシアみたいに広い国土を持った国々ならともかく、こんなに狭い日本で僕等はどこに逃げればいいのか。経済は大切なことですが、それ以上に大切なのは命ではないのか。僕は都知事の石原さんには一度も投票をしたことはないですが「東京が貧乏になったっていいじゃないですか」「パチンコ屋や自動販売機の使い方を考えないと」と、その発言を聞いたときには正直参りました。石原さんの言う通りだからです。できれば石原さんより先に他の人に言ってほしかった。

東北で地震や津波の被害を受けた人たちの我慢強さには頭が下がります。震災の被害を受けた人たちは今はまだある種の高揚感の中にあるかと思います。残酷なものいいですが、新しい生活が落ち着いたころに、言葉に言いつくせない喪失感が襲ってくるかもしれない。それだけに被災地の人たちの心が折れる前に、政治にはしっかりしてほしいと思います。被災地の人々がなんとか気持ちで自分等を支えている間に修正してほしいものです。

話は飛びますが、僕は今までいろんな仕事をして来ています。単発の仕事はともかくとして写真集や連載、ワークショップ等で何時も助けてもらっている人たちやテレビの仕事にしても分野や表現方法は違えど「この人たちとなら失敗してもいいかな」という人たちと組んで仕事を続けてきました。仕事に関わって来る人たちは皆大人で自我を持った人たちばかりです。長い仕事の途中で当然ですが齟齬も生まれることもあるし、疎遠になったりしたりもしますがキッチリ組んだ人たちとはたとえ仕事でぎくしゃくしたとしても20年30年と関係が続いています。仕事をしなくなった今でもなんだかんだと理由を作り僕を街に連れ出してくれます。有難いです。

僕の個人的な仕事と政治という大きな仕事を比べるのは失礼かもしれないですが、話を今の政治に戻すと、これだけの大きな災害に加えて、原発事故という人間がたちうち出来ない事故が起きてしまいました。日本がこの先何処に向かうのか分からない状態だけに、結果はともかくとして真摯に取り組んでくださる政府を僕は望みます。万が一予期せぬ状態に日本が立ち入ったとしても、納得して僕は倒れたい。

今日か明日で大きく政治が動くようですが、ニュースを見る限り「こんな大事な時に何をやっているのだ」という意見が大多数です。僕はその逆で中途半端な状態で復興に向かうよりは、地震や津波や原発事故で被災した人たちの気持ちが保てている今の間に、政治に関わる人たちは自分らの本来の仕事は何なのか早く気づいてほしいものです。

地震や津波、原発事故に関係なく、この一年余りの政治や社会を見て感じたことは、一見リベラルを唱えている人は周りの人々とあまり対話をしていない気がします。普通に暮らしている人たちに通じる日本語を持ち合わせていない気がします。打算や自己顕示だけが目について仕方がない。

昔、経済人でもあり政治家の渋沢栄一さんは民族学者の宮本常一さんと一緒に時間を見つけて日本の隅々を歩かれて、人々の暮らしや思い、土地土地の文化を身体の中に蓄積されて政治の場に立ってられた方です。もう渋沢さんのような政治家は出てこないのだろうか。

スポーツ選手や経済的に力のある人たちみたいな力がない僕は、地震と津波が起きてから、毎日何か一つ我慢をするようにしています。ただ写真家として被災地の人々と喜びを共有できる試みを2、3年以内に具現化していきたいと思い、国内外の人々と連絡を取り始めました。

写真集を発表してまもなくして地震が起きたために、どこか宙ぶらりんになってしまいましたが、先日やっと風呂付きの生活が始まりましたという農業を営んでいる夫婦から「写真集を購入しました」と涙が出てきそうな葉書をもらいました。長野に住む90歳近い方から「エライたいしたことをなさったものだ」という言葉をいただきました。有難いです。

写真で思い出しましたが、震災を特集した朝日グラフの別冊で、久しぶりにフォトジャーナリズムが持つ写真の強さを見させてもらいました。僕が朝日グラフを飾ったカメラマンの仕事を知らないだけかもしれませんが無名のカメラマンの人たちが、情緒に流されることなくことさら陽動的でもなく目の前の現実と対峙された仕事には圧倒されてしまいました。普段からしっかり日常を見て来ている人たちだからこそ見えて、撮れる仕事だと思いました。


そして原発関連の仕事では写真家の広河隆一さんがチェルノブイリを見続けてこられていることも知り、その持続力に感心させられました。

今、愛光学園の生徒さんらの感想文をホームページで紹介をしていますが、5月に3回程立教大学で学生さんらと対話をする時間を頂きました。その授業の後、リアクションペーパーが僕の手元に300通ぐらい届いています。愛光学園の皆さん同様に隣にいる人や見知らぬ世界のことを考える手掛かりに繋がる思いが込められているだけに、何時かホームページ上で紹介できないかと考えているところです。







ベルリン在住の彫刻家、和田礼治郎さんの影響で石に興味を持ち始めました。長野県駒ヶ根にて





●2011.3.26

昨夜、怖い夢を見てしまった。河の水を使いフィルム現像をすることなんてありえないことなのだが、水辺でそんなありえないフィルム現像をしている最中に突然濁流に呑み込まれてしまい押し流されていく夢でした。夢の中には僕の写真集の完成を心待ちにしていた山形の知人二人の顔が見えました。

たぶん地震と津波の映像を発生直後から一週間近く朝から晩まで見続けていたからだと思います。テレビを通じて津波と地震の恐怖を疑似体験した僕ですら夢にうなされるぐらいだから実際今度の地震や津波で家族や知人、田畑やこれまで積み上げてきた暮らしをいっさいがっさい押し流され失った人たちの心や身体に残る傷跡を想像するだけで胸が痛みます。それにかつて阪神淡路や新潟の十日町で地震にあった人たちの中にも心的動揺が蘇っていないことを願うばかりです。

話は飛びますが、アメリカでベトナム戦争や中東戦争などの戦場から戻った少なくない元兵士たちが精神のバランスを崩していることは、こういうことかと自ら体感させられた思いです。津波の映像を見続けていたことにより、神経がおかしくなりかけていることに気づいた5日程前から僕はテレビを見ないことにした。福島の原発で起きていることも気がかりというか恐ろしいことですが、有事の際には知人に電話で知らせてもらうことにしてテレビの前から離れることにした。

今回被災にあった地域は、写真を始める前にも東北の文化に魅かれて良く歩きまわったことがあります。そして日本と日本人を記録する旅では、何人もの人たちを津波が襲った街角や海辺で写真を撮らせてもらったそんな経緯もあり、安否が気がかりだったことと、もしかしたら縁あった人たちがニュース画面に出てくるのではないかとテレビを見続けていた結果が悪夢に繋がったのだと思います。

もう少し被災地が落ち着いたら、縁あった人を訊ねてみるつもりでいます。そして自分に何ができるか考えたいと思っています。

被災された東北の人たちの心中を想像しつつも、改めて自然が持つ脅威を認識させられた思いです。恐ろしいということ以上に、個人の思いとは関係ないところで人生が断ち切られてしまう現実を目の当たりにさせられてしまうと、日々の暮らしを問う自分がいました。

今度の地震と津波で失なわれた人たちの命と助かった人たちの悲しみに寄り添いながらも、地震が起きたことで明らかになった「原発」に象徴されている、便利な暮らしの裏に潜んでいる新しい文明の利器の正体とこれからどう付き合うのか、社会全体で考えていかないといけないなと僕は思います。言いかえると新しい文明の利器をどこまで生活や社会に取り入れて捨てるのかということにつきます。何ごとにも遅いということは無いだけにどんなに新しい文明の利器が発達したとしても最後は「人間が大事」の世の中、社会に戻るスタートに切り替えていくきっかけにしていきたいです。

僕自身のことに戻ると、ストックルームに納めていた作品が地震の揺れにより棚から殆ど床に飛びだしてしまいました。幸いにもケースからプリントが飛び出していなかったのが救いでしたが、水や泥をかぶったわけではないのに、片づけないといけないという気持ちが起きてくるのに一週間もかかってしまいました。

そして地震が起きて2日目から5日間程、お米のない生活になってしまいました。スーパーに買い物に出かけても人の波についていけなかった結果が招いた現実でした。ただ仕事柄、耐えることには慣れていることもありなんとかなるわいと思い、冷蔵庫にあった小麦粉でインド風のパンを焼いてすましました。カレーなしのチャパティに少し飽きかけていた矢先に大阪の知人が「お米はありますか」と電話をかけてきてくれて助かりました。有りがたいです。

有りがたいといえば、海外の友人、美術関係者から「何時も彼方や日本のことを考えています。私たちの心は何時も日本と一緒です」という暖かい励ましの声が複数届けられています。それに原発事故のことを気遣ってだと思いますが、何時でも我が家に来てくださいと、ドイツのブランデンブルグ州の知人から疎開を進めるメールも届きました。チェルノブイリ原発事故を経験しているだけに放射能に対してとても敏感なのだと思います。放射能に関しては他のどの国々よりも日本は被害を受けているはずなのですが。

耐えることには慣れていると言いましたが、それは僕の手元に自身で確かめられるものがあるからだと思います。たとえば地震の前に発表した「Hof ベルリンの記憶」を未発表のまま20年近く手元に置き、必ず「その時」が来ることを信じ「その時」を待ち続けることが出来た背景には、自分自身がベルリンで感じたことや、それまでの感情をプリントという形で一枚の紙に定着させたものが手元にあったからだと僕はそう認識しています。

それらのことから、この度の地震や津波で被災した人たち、家族や友人知人、知らない人々も含めて、生活の場そのものを根こそぎ壊された人たちのことを思うと、どう向き合って行けばいいのか分からないというのが本当のところです。ですが、災害を受けた人々や土地を思い想像することを何時も頭の隅に置いて自分自身の日々の暮らしを大事にしていきたいと思います。

地震が起きる前日に、新しい作品集の案内葉書を印刷しましたが、時期が時期だけに送れないままになっています。窓の外では鶯が鳴きコブシの花が咲き始めました。鶯の鳴き声が被災地の人々にも届くといいのですが。













●2011.3.5

少なくない人に心配をかけてしまいましたが、先週やっと写真集が完成をしました。

写真集『Hof ベルリンの記憶』(発行:岩波書店)

【版元の紹介文】
帝政時代から二つの世界大戦と旧東独時代を生き延びてきた旧東ベルリンの一角。
そこにはかつていくつもの中庭(Hof)のある集合住宅がひしめき、貧しい人々や東方系ユダヤ人たちが暮らしていた。

壁崩壊後の20年間、歴史が消滅していく現場に立ち会いながら撮り続けた歴史的写真集。


【解説文より】
橋口の写真は、途切れることなく続いてきた多様なベルリンの写真史に確実に位置づけられるものである。彼がまっすぐに人々に向き合った1992年の『BERLIN』に引き続き、この中庭の写真集では、彼は建築物とその周辺の風景に意識を集中している。一枚一枚の写真に写る情景からは、果てしなく続く重層的なベルリンの歴史の夢や悪夢が見てとれる。
今までの写真家や文学者とは異なる驚くべき洞察力を通して、二度と戻ることのないこの街の一端を、写真集『Hof』は鮮明に表現している。
                               Dr.カタリーナ・ハウゼル(写真歴史家)



なお、3月5日発売の月刊誌「すばる」に旧東ドイツ生まれで壁崩壊と東西ドイツ統一をカザフスタンで迎えた人の物語を書いています。興味のある方は読んでみてください。







●2011.2.12

国の人には申し訳ないのですが、今年初めての雪をわくわくした気分で迎えております。

いくつか報告があります。10年以上続けてきた雑誌「世界」の表紙を今月発売の3月号で終わることになりました。「Woman」の撮影そのものはまだ僕の中で終わっていないために個人的には続けますが、与えられた責任を全うすることができて少しホッとしています。

10年以上続いた連載の中で犯した表記ミスが3回ありました。3回もあったと受け取るのか、3回で済んで良かったと受け取るべきか判断が難しいですが、長い期間のことを考えると、良い担当編集者に恵まれたからこそ3回で済んだと考えるべきかなと自分に言い聞かせているところです。

昨日、世界の編集部の人たちと話をする機会を持ちましたが、雑誌「世界」の表紙をやらせてもらえたことは誇りには違いないのですが、そのこと以上に何かの縁で出会い撮影させていただいた人全員を、誰一人セレクトすることなく「世界」で紹介できたことを誇りに思っています。ただこの間四国で撮らせていただいた一人の方のフィルム現像(たぶん撮影時の失敗かと思います)を失敗してしまい、最後の号に間に合いませんでした。ですが再度四国に足を運び撮り直し、そして写真集には必ず納めるつもりです。


「世界」の編集長とは30年ほど前に、編集長が岩波書店に入社してまもない頃初めて出会いました。そしてしばらく関係が途絶えていましたが、彼が編集長になりしばらく経ったある日、再び僕の前に現れ、そこから表紙の連載が始まりました。

巡り合わせの有難さを感じつつも、行き来が途絶えていた長い期間の間、お互いが自分の場所で信じるものをコツコツと積み上げて来たからこそ生まれた表紙、仕事だったと僕は受け止めています。4月号から新しい写真家により新しい表紙が始まりますが、嬉しいことにかつてグラビア作品に公募してきた作家、作品が選ばれたようで編集部の健康な意識の流れを感じます。

グラビア作品の公募を始めてまもなく100回目を迎えようとしています。事務作業が遅れがちになっていますが、世間の流れや空気に関係なく、真面目に対象に向かい合ってきている作家にはチャンスを与えるという基本姿勢は変わっておりません。

写真界やメディアに縁が無い人、有る人関係なく、僕等はドアを開けて待っています。むしろ誰かの紹介という作家、作品にはものすごく厳しい目で僕は判断をして来ました。ある意味日本的なものを排除して来たところに「世界」のグラビアがあるからこそ、持続できている場だと僕らは認識をしています。表紙の仕事は今月号で終わりますがグラビアのディレクターとしての仕事、役割は続けますのでどうぞ宜しくお願いします。

そして遅れに遅れていた写真集「HOf ベルリンの記憶」がやっと今月20日に完成をします。発売は3月4日になります。僕の写真集で初めて人間が一人も出てこない作品集です。思いもよらないほど完成が遅れたことで、僕の流れだけではなく、昨年、夏のバカンスに入る前に解説文を書き上げてくださったベルリン在住の写真歴史家の方にも目に見えない迷惑をかけてしまっているのではと想像します。流れの分断は自分の年齢を考えると焦るものがありますが、そのことを含めて表現だと自分に言い聞かせているところです。

前回の橋口便りで、ベルリンのHOTEL BOGOTAでの末宗美香子さんの展示オープニングのことをお伝えしましたが、素敵で心のこもったオープニング、作品もさることながら、画家の末宗さんはオープニングの後、ベルリンの湖の近くにある日本人学校で3度に渡り、生徒さんらと一緒に絵を描く時間を持ったそうです。そのことを伝え聞き本当に嬉しくなりました。いろんな人がいろんなところで拘ってきて出来上がり生まれる何か。本当に少しずつですがBOGOTAでの試みが広がっていることを感じます。




●2011.1.6


四国松山にある「愛光学園」での展示、講演会も無事に終わりました。そしてベトナム少年少女の世界展は、新春から同じ愛媛県の「西条農業高校」に引き継がれることになりました。

講演会の前半はベトナムでのワークショップの様子をスクリーンに映しながら、「何故このような試みをするようになったのか」「ワークショップを続けることでの迷いや揺らぎ」「異なる社会環境、文化、価値観を持った人たちと、どのようにして接点を探していくのか」「日本の文化交流の現実、問題点」などを織り交ぜながら話を進めました。後半は僕の日本人シリーズ17歳2001~2006から構成した写真とモノローグの朗読を試みました。詰め込み過ぎの面もありましたが、「他者の存在を知り、自分の今とその環境、社会を考える」という意味においては共通するテーマです。

正直最初の方は、気持ちが落ちつかずしどろもどろでしたが、手元に届いた200人余りの生徒たちの感想文を読み、彼らなりに自分たちの今に重ね合わせて受け止めてもらえたようで安堵しました。僕の話が届いたというより皆の感受性の豊かさだと思います。

皆の感想文を読ませてもらい、こうして人と人を繋いでいく営みをもう少し頑張って続けてみようと思い始めています。そして日本の高校生が感じ考えたことをベトナムの皆に届ける責任が僕に生まれたなと、いま自分にそう言い聞かせているところです。

感想文もそうですが、愛光学園での展示、愛媛県美術館での展示作業は心温まる一時でした。高文祭では場を用意してくださった先生たちの気持ちに答えるために僕は設営日に伺いましたが、美術館の展示は二人の男子学生が手伝ってくれました。展示ボードの平行や間隔を調整するために何度となく一度掛けたものを外して調整を試みましたが、二人は納得がいくまで何度も何度も展示ボードを掛けたり外したりして壁面を完成させてくれました。

愛光学園では写真部の生徒さんたちが設営してくださったそうです。図書館の展示風景を見て、写真部の皆さんが想像力を働かせ、気持ちを込めてくださったことが、ひしひしと伝わってくる空間ができあがっていました。

美術館で助けてくれた男子生徒二人、愛光学園の写真部の皆さんとベトナムの少年たちとは、当たり前のことですが面識は無いです。面識の無い人たちの作品にも拘らず丁寧に心を込めて設営をしてくれた日本の同世代の人たちの存在をベトナムの皆に話してあげたいと思います。

ベルリンのHOTEL BOGOTAで、末宗美香子さんの展示が始まりましたが、少なくない人が末宗君の展示の手伝いやオープニングに向けて助け動いてくださったそうです。設営はホテルで働く人たちの手で設営されたそうですが、オーナーのリスマンさんは、吹き抜けの模型を作り展示構成を一緒に考えてくださったそうです。模型を手にしたリスマンさんの嬉々とした顔が目に浮かびます。いつか模型もここで紹介できるかと思います。

慣れないというか末宗君にとっては見知らぬベルリンで完成したDM配りを手伝ってくださった人。広報を助けてくださったジャーナリストであり、ブロガーである中村真人さん。オープニングをサポートしてくださった日独協会の方たち。近いうちに中村さんがオープニングの様子をレポートしてくださると思いますが、100人以上の人たちが集まり末宗君の作品とBOGOTAを祝福してくださったそうです。そしてベルリンの日本大使館の文化担当官の方がわざわざオープニングで挨拶をしてくださったそうです。

本当に有り難いことです。

世知辛い世の中ですが、愛媛県での展示もそうですが、ベルリンと松山と場所は違えどこうして気持ちで動いてくださる人たちの存在は希望であり勇気です。

僕の写真集「Hof」はとうとう年をまたいでしまいました。12月末に僕の手元に届いた文字校済みの解説文や後書きの日付は9月22日でした。奥づけの発行日は1月25日となっていますが、今月中に完成することを願うばかりです。

正直、完成が遅れたことにより、さまざまなところで支障が生じ始めていますが、それら支障も遅れに遅れた時間も含めて、表現であり僕自身が引き受けていかないといけないなと自分に言い聞かせているところです。

写真集はまだ完成をしていませんが、「Hof」が手を離れたことで、次に移れる余裕が少しだけ生まれたこともあり、和太鼓を使ったインスタレーションを試み始めました。現場は和太鼓屋さんで働く方たちや、演奏家、昔僕を助けてくれていた龍野と東京でのワークショップに参加し、今写真を勉強している田中尚君に助けてもらっての試みでした。

新年の挨拶は差し控えますが、今年もひとつずつ積み上げていきたいと考えています。

ちょうどベルリンのBOGOTAから新年の風景と中村さんから末宗さんのオープニングの報告が届きました。報告を読ませてもらい、知的な時間が長年に渡り蓄積された空間ならではのオープニングだったことが伝わってきて羨ましくなりました。

大星純一君、安河内直子さん、そして末宗美香子さんと新しい人たちが繋いで積み上げていく中で、応援してくださる人たちが増えていく、素敵なことだと思います。尚、末宗さんの展示はこの秋ごろまでは続けられるようリスマンさんと話すつもりでいます。


●ベルリン在住のライター中村真人さんのブログ「ベルリン中央駅」







●2010.12.4


ベルリンのHOTEL BOGOTAから末宗美香子さんのオープニングの案内とDMが届きました。もうベルリンはマイナス14度だそうです。







●2010.11.16


やっとやっと写真集が動きだしました。本当にやっとです。一時、完成は来年かなと覚悟した時期もありましたが、なんとか年内に完成しそうです。本当にここまで来るのに長かった。20年かけた作品だからこの数カ月の遅れはたいしたことは無いと自分を鼓舞させながらの毎日でしたが、正直ゴールが見えかけての立ち止まりは穏やかじゃなかったです。

いま写真集は紙選びとインクの選びが終わり、印刷所での作業に移りました。テストで8種類の刷りを出していただきました。僕の元プリントを印刷現場の人たちがどう解釈するのか、様々な解釈を試す為のテスト印刷です。僕が感じる「良い感じ」の意味を通訳するためのテスト印刷でもあります。そしてプリントの解釈だけでは無く作品が持つ世界観をどの方向に定めるのか大事な大事な工程になります。

実はプリントが僕の手を離れた後、ADの町口さんのところで作業が止まってしまいました。僕の作品と格闘というか構成に随分と苦労されたようです。当初よりも完成が伸びに伸びてしまいましたが、真摯に僕の作品と対話をしてくださっていることが伝わって来ていただけに安心する停滞でした。構成を見せていただいた時に初めてADの町口さんと感情を共有できた気がしました。テスト印刷の上がりを前にして、今度の作品集に初めて編集補助として本作りに参加した一人が「写真集作りはオーケストラみたいなものですね」と呟いていました。オーケストラとは良い例えだと思います。

写真集「Hof ベルリンの記憶」は、岩波書店のホームページ(新刊紹介のページ)や新聞広告(12月に入ってですが)で確認していただけると有難いです。

ベルリンのHOTEL BOGOTAで次の展示の準備が始まりました。今回は日本で作家活動をしている末宗美香子さんという画家さんの登場です。これまでの展示は手元にある作品でBOGOTAの空間を埋めて行く試みでしたが、末宗君はベルリンの空気を吸い、BOGOTAの吹き抜けに身をおいて、身体に降りて来た何かをキャンバスに残す作業を今HOTELの吹き抜けで続けています。「どんどんBOGOTAの住人化してきています」と制作中の末宗君から便りが届きました。楽しいです。

実は末宗君は東京とソウルのオフィスビルに壁画を描いた実績の持ち主です。僕も東京のビルでの作業を一度見せてもらったことがありますが、狙い考えて描いていくというより、天から降りてきたものを身体感覚で描いていくタイプだと僕は彼女の世界を受け止めています。そのこともありBOGOTAでの制作展示を呼び掛けた次第です。HOTELの吹き抜けというある種特殊な空間で生みだされる作品がどんな風にあの空間を埋めて造りあげて行くのか楽しみです。詳しいことはベルリン在中のブロガー中村真人さんのブログやベルリンの日本大使館の文化広報サイトで情報を得ることが出来ると思います。

実は末宗君の前の安河内直子さんの展示作品「Nachtgarten」と題した桜をテーマにした作品についてですが、僕が彼女の作品を選らんだ理由の一つとして挙げた一言が少なくない人に不快な思いをさせてしまったようでここで謝りたいと思います。

その一言とは「バイト代が全部プリント代で吹き飛んでしまいました」ということです。実は僕は今回の作家である末宗君や一回目に登場してきた大星純一君とは何度も面識がありますが、安河内さんとは今まで3回しかありません。2度目に会った時に作品を見せてもらい、その場で彼女の作品が持っている気配に心魅かれてしまいました。それはある種直感的なものです。桜というありふれたテーマでしたが、見る人の心をぐさっと掴む何かを持っている作品でした。

ただこれは他の表現には無い写真の特性でもありますが、写真には本人の意識に関係なく映ってしまうという事実があります。それだけに安河内さんが提出した世界感は普遍的なものを備え持っていると確信したとはいえ、どこか表現に真摯に向かい合っているのかという心配もあったのは事実です。そんな矢先にアルバイト代の使い道を知り、安堵の思いから無防備にこの場で書いてしまいました。ただ作品を創りたいと言いつつ、作品創り以外に気を振りまいている若い人を大勢見て来ているだけに僕の心配を払拭させる一言だったことは事実です。

そしてHOTELオーナーのリスマンさんからオープニングの直後「彼女は大きな成功を収めた」とメッセージを受け取りましたが、その時にはあまり良く理解できませんでしたが、先日ベルリンから届いた便りに、安河内さんのオープニングでスピーチしてくださったヘルムート・ニュートン美術館の学芸員であるマティアス・ハンダー氏が、ドイツのカメラ雑誌「SCHWARZWEISS 77」に彼女の作品を推薦してくださり、テキストを書いてくださったそうです。ドイツというより西洋の美術館の学芸員は自分の言動の意味を重々承知されているだけに、マティアスさんが彼女の作品を4ページに渡り取り上げてくださり、テキストを書いてくださったということは、とても大きな意味を持つことだと僕は思います。


オーナーのリスマンさんやHOTEL BOGOTAの皆さんの好意で吹き抜けという空間を解放してくださったことによって若い日本人アーチストたちが新たに挑戦する機会が生まれ、従来の回路とは違うところで、ヨーローッパへの入り口ができ始めている事実を本当にありがたく受け止めています。これから始まる末宗美香子さんの世界がどう広がって行くのか楽しみです。そしてベルリンに出かける人は是非HOTEL BOGOTAを使ってあげてください。















                    BOGOTAの吹き抜けでキャンパスに向かう末宗君









●2010.10.9


いつのまにか虫の音が聞こえ始めて秋が始まったようです。

写真集のゴールは見えてきたとはいえ、この夏は何をしていたのだろうと思える程、目指した仕事の完成がずれ込んでいます。ベルリンの原稿も十月発売の号に間に合わなかった。

体調管理の為に冷房を意識的に遠ざけていたために、今思えば僕も熱中症の一歩手前だったかもしれない。たぶん大事に至らなかったのは梅干しを毎日一つ食べていたからかも。季節は移り変わっていますが、この夏熱中症で亡くなった人たちの存在や背景が政権のバタバタや検察問題や尖閣諸島の問題ですっかり聞こえてこなくなったのが、気がかりでしょうがない。

市井の人たちの死は簡単に忘れられてしまうのが悔しい。

9月14日の東京新聞の夕刊に、作家の辺見 庸さんが「ツユクサの想い出・直腸熱三十九度の孤独」というタイトルで寄稿されていた。その原稿を読み進めて行く途中に涙があふれ出てきて困った。困ると同時に文学が持つ力というか、意思を持って社会や文学の現場に立っている人の凄さを改めて学ばさせてもらった。(図書館で読めると思います。)

内容は病気で働けない息子との二人暮らしをしていた、北海道から上京してきた元大工で年金生活者の老人の話だった。

老人は年金だけでは生活が成り立たないために、十年程前に一度生活保護を申請に役所に行ったが断られてしまう。国や他人を頼らず年金だけで生きて行くことを覚悟する。

公共料金を全て払い終わった後、自らの意思で電気、ガスをストップさせ携帯コンロと懐中電灯だけで暮らし始めた。辺見さんは懐中電灯の灯りの下で親子がぼそぼそと何を話し何を食べて、頭を垂れて祈ることもあったのだろうかと想像する。

老人はこの夏の尋常じゃない暑さのなかで、熱中症で亡くなった。
元大工さんの最後の言葉は「暑い」「熱い」だったそうだ。

公共料金を全て支払ってまで、自分の誇りを守った老人の死に納得できない辺見さんの先に見えたのが、軽井沢で涼風で風邪などひかぬよう上着をつけて冷えたビールを飲みながら鳩山さんたちが「キアイダーキアイダー」と、気勢を上げている風景だった。実は僕も軽井沢での光景をニュースで見ながら、自然災害が日本各地で多発し、熱中症による死が毎日のように報じられていた時期だっただけに強い違和感をもった。

借り物の借り物の言葉だとはいえ「ガンジー」の生き方を言葉にされた鳩山さんには期待していたものがあっただけに残念な思いでニュースの映像を眺めていた。実は今でも何不自由なく育った鳩山さんだからこそ出来る何かが有るはずと、期待をしている自分がいます。 

辺見さんは「老人が熱中症で死んだ部屋と軽井沢の涼しい風景のつなぎ目がどこか探しても結局は見えはしない」。と本来地続きであるべきものが分断され、分断が当たり前になっている日本社会の異常さを指摘されている。

そして研修の名の元に集まった議員たちは貧者の暮らしに役立つ何を研修したのだろうと、問いを投げられていた。

最後に辺見さんは「老人が死んだ日の熱い夜、シャモの黄卵みたいに赤黄色い弦月がぼかっとあがった。ツユクサはみんなで合掌した。老人の腹はあの時、いくらか冷えていたのだろうか。」と結んでられた。

「老人の腹はあの時、いくらか冷えていたのだろうか」とこの表現に触れた瞬間どっと涙があふれ出てきてしまった。なんて優しく深い表現なんだろうか。救いようのない社会環境が生まれているにも拘わらず、辺見さんは人間が持つかすかな可能性をまだ信じてられると思った。そして老人が死んだことで、一人残された病弱な息子さんの今が気になって仕方がない。

辺見さんが語られていた「つなぎ目が見えない」分断された社会や人々を繋ぐのがアートや表現の現場に居る僕らの責任だと思うのだが、辺見さんの言葉は痛い。

季節が移る時に降った大雨の後、散歩の途中で見つけたキノコです。





普通の写真家は採る前に写真を撮るのでしょうが、僕は見つけた瞬間脳が猟師になってしまい、採ってから「あ、写真だ」と気づいたとこです。

キノコは大根おろしとみそ汁で四日に渡って美味しく食べました。




二日後にまた見つけました。





●2010.9.11

昨日やっとベルリンのプリントが一息つきました。

制作期間が20年に渡っていたこともあり、大量のプリントだったことに加えて、この夏の暑さの影響もあるかと思ますが途中で集中力が途切れてしまい、結果、写真集の制作進行に迷惑をかけてしまいました。

実は今日発売の雑誌「世界」に1ページを使い新作の写真集の告知が一足先に出てしまいました。ですが発売は予定より一カ月遅れの10月末になりました。
(10月末は動かないと思います)


こんどの作品では6×6サイズと4×5サイズの2種類のフィルムを使っていますが、サイズの違いもプリントに時間がかかってしまった原因の一つだと思います。

伸ばし機は同じ機種を使いますが、フィルムサイズに合わせて使うレンズも変えるのと、途中で気づきましたが、ピント合わせの方法も違うのです。

細かいところは龍野(前の僕のアシスタント)に注意すべき点を教えてもらいながらの作業になりました。プリント作業は普段使っていない身体感覚と対話しながらの作業になります。それに印画紙代もカメラが一台買えるほどかかってしまいました。これから黒の調子をそろえる作業が出てくるので、印画紙代はもっと出て行くかと思います。ですが時間と費用はかかってしまいましたが次のステージに移る為には必要な営みだと受け止めています。

それに面白いことに、20年前にプリントに求めた調子と今の感覚が変わって来ているのと、撮影当時は気にならなかったカットが新鮮な輝きを放って僕の中に入って来ました。

その時々の勢いで発表して行くのも表現の有り方だと思いますが、自分自身の内面の熟成を待つことの大切さも作業を通して学ばさせてもらいました。

作業の途中に時々弱気が顔をのぞかせる時がありましたが、20年もの間、作品を外に出さずに今日まで手元に置いて来たことを思えば、たいがいのことは乗り越えられると自分を鼓舞させながらの作業でした。

実は昨年秋と今年の6月にベルリンで撮影したフィルムは、僕等の東京でのワークショップに参加した、かつて高校生だった一人が助けてくれました。彼は現在芸術系の大学院で写真を勉強しています。

彼は基本をしっかりと身につけているからか、20年前と同じ現像方法でプリントし易いネガを造ってくれました。

そして前の便りで機材のことをいろいろ書きましたが、その意図は機材の所有をひけらかした訳ではなく、消費が当たり前になっている今の時代で、25年前の機材でも充分対応できることを僕は言いたかったのです。むしろ昔の機材の方が頑丈で正確なような気がします。

ただ一年程前に印画紙を自然乾燥させる棚を半分知人の写真家にあげてしまいましたが、そのことは作業の途中で後悔してしまいました。あげたことが惜しいのではなく、前のスタッフが揃えてくれた数量には意味があったことを作業の途中で気づかされてしまいました。情けないです。

8月のある日、僕がベルリンと出会うきっかけになった、「われら動物園駅前の子どもたち」を書いたクリスチアーネFとの面談に尽力してくださった映画会社の方が亡くなられました。

その方の葬儀からまもなくして、クリスチアーネについて僕が書いた文章を引用させて欲しいとの連絡をベルリンからもらいました。ベルリンのプリントをしている最中だっただけに縁みたいなものを感じてしまいました。

2日程仕事で広島に出かけてきました。山陽とは良く言ったもので刺す様な日差しの強さが印象的でした。それに瀬戸内海は本当に青々として綺麗でした。実は釣り竿を隠し持っていったんですが、残念なことに釣りをする時間はなかったです。でも作品「職」でお世話になった200年も続いている酒蔵を守る杜氏の方と連絡がついて、わざわざ帰りの便の30分前に飛行場まで来てくださり短い再会を果たすことができました。

スイッチ一つで繋がったり切れたりする社会環境ですが、機材にしても、龍野やフィルム現像を助けてくれたかつての高校生や、クリスチアーネや杜氏の知人と僕の周りの人間の営みのリズムは変わらなく同じなのが有りがたいです。







●2010.8.13

先月初めから、この秋に発表するベルリンの写真集のプリント作業にとりかかっている。


暗室作業といっても、以前みたいに昼夜に関係なく作業が出来る完全暗室が無いので、昼間は原稿を書いたりして過ごし、プリント作業は太陽が落ちてからになる。

リビングに大小7つある窓は、大きな窓には黒い布を張り、小さな窓には冬物コートをかけて外光を遮断しての作業である。実は暗室作業は完全に光を遮断しないと出来ないと思い込んでいたが、カメラメーカーで働く知人が遊びに来た折に、「直接印画紙に光が当たらなければ大丈夫だよ」と助言をしてくれたことで、リビング暗室が実現した。

セーフライトは吹き抜けを支えている大きな梁にくくりつけている。

幸い伸ばし機や暗室作業に必要な道具は、25年程前に間違ってお金があった頃に買いそろえていたために、リビング暗室にしてはやたら立派な機材が揃っている。

伸ばし機はアメリカ製で、伸ばしレンズはドイツ製のレンズを使い、印画紙を置くイーゼルも水洗器も乾燥棚も印画紙の皺というか平面を出すためのプレス機もアメリカ製である。たぶんこれらの道具類は外からの圧力を加えないかぎり永遠に使えそうな気がする。

ただプリント作業に集中出来る時間は年齢もあると思うがせいぜい3時間~4時間で一日3カットか4カットしか出来ないが、撮影では味わうことの出来ない身体感覚というか体の奥の方から湧きあがってくる喜びの感情と久々に対面している。印画紙代がどんどん出ていく毎日だが、イメージする黒が出せて良い具合に仕上がった時など、「エイ」と思わず声を発してしまう自分がいて楽しい。

先日催事の後、桜新町の近くで古くからの知り合いの編集者たちと食事をしたが、その帰りにプリント作業の楽しさを話したところ、今の雑誌の写真にまつわる現状を話してくださった。

簡単に書くとデジタルシステムが定着した今、クライアントは必要な写真だけじゃなく、データー全部をもらう方向に向かっているそうである。すなわちカメラマンの手元には何も残らないことになる。その現実を知り自分がとても恵まれた状況にあることと、デジタルカメラの良し悪しや好き嫌いに関係なく、そしてデーター保存に問題があることを承知しつつも、家族や生活の為にデジタルカメラを選択しなくてはならない40代~50代のカメラマンの心中を思うとなんと言っていいか分からない。

分野やスタイルに関係なく多くのカメラマンの中には、それぞれの喜びや達成感があったはず。にも拘わらず、どうしてカメラマンが画像の運び屋のような写真環境が生まれてしまったんだろう。写真表現の現場が様変わりした今、個々の思いが落ち着く先が見つかることを願うばかりです。

このところ韓国にまつわるニュースが続いているが、相互理解という言葉を聞くたびに、ソウルに住む友達の写真家と協力しあい、僕の日本人シリーズを纏めたスチルムービー「日本と日本人を知る旅」と題した朗読会をソウルの美術館のホールで試みた時のことを良く思いだす。
(あくる日ソウル郊外にある高校で同じ内容のものを試みた)

日本人のモノローグをハングルに翻訳して朗読を試みた訳だが、朗読会の後、日本の新聞記者が来場者に求めた感想の中に「日本人も涙を流したり、悩んだりするんだ。日本人は私たちの国にやってきて、火をつけて帰り、戦争の後は経済を掻きまわして出て行った。だから感情なんて日本人の中には無いと思っていた」とソウル大学の学生が言っていたことが今でも強く印象に残っている。

少し話がそれますが、以前から気になっていますが、日本発で届けられる文化を享受する人たちの層が固定化していることの事実に目を向けてもいい時期だと思いますが。


6月の初めに、「子供たちの時間」に登場してくれた、吉澤真人君の個展のオープニングに行ってきました。その時の写真が届いたのでここに紹介します。

真人君が撮影の時に「お母さん笑うな」と言っていたことを今でも良く覚えています。写真の中央が真人君とその隣は「17歳2001~2006」に登場してくれた千野真広君です。千野君は今スーパーで働いていることもあり、手が僕よりも大きく立派でした。





左から橋口、吉澤真人君、千野正広君



東北道を車で走っていた時に、道路から見えた農作業をしている家族に声をかけたことから知り合いになった農家の方から朝捥ぎのトウモロコシが届きました。皮をむくたびに甘い香りが台所に漂い作物は鮮度が命ということを改めて実感させられました。

実はトウモロコシには懐かしい思い出があります。20代の後半、写真を初めて間もない頃の極貧時代にカメラを提げて北海道を旅していた頃、運搬車から道端に落ちた飼料用のトウモロコシを拾い集めて、川縁や森の中で携帯コンロで湯がいてご飯変わりに食べていた時期がありました。さすがに毎日は飽きるのと、トウモロコシだけだと直ぐにお腹がすいてしまうのと、なにより力が出ない。でも戦後満州から引き揚げて来た人たちは途中そのトウモロコシすら食べれなかったんですよね。

ベルリンから写真集「HOF」の解説文が届きました。プリント作業を頑張らないといけない。

作品「視線」で出会った昔の番長から20数年ぶりに連絡が届きました。プリント作業が手を離れ次第、会う約束をしました。


この夏、父の50回忌を迎えます。思えば母は女手一つで本当に僕を自由に育ててくれたものだと、心からそう思います。




●2010.7.10

ベルリンからは戻っています。

お陰様で体調は特には問題ないのですが、梅雨時の日本の湿気がこんなにしつこかったかと思うほどベタベタと重たいものがまとわりついてきて身体がだるいのと、ベルリンは夏が始まったとはいえ朝晩は厚手の長袖が必要な程寒暖の差が有る為に、そんな気候環境の変化も身体にこたえている気がします。やはりどこか身体の芯が疲れているのかもしれません。

ただ今度のベルリンは3週間と滞在が短かったこともありますが、ベルリンの関係者が滞在3日目に写真展に向けた話し合いを準備しておいてくださったことで、早めに大きな課題が片付き、いつもみたいに鉛が身体に溜まるような疲労感を感じずにすみました。

具体的に何かが確定している訳では有りませんが先が少し見えた分、気持ちが楽になり、次に移れるという無意識の安堵感が身体の中に生まれたからかなと思います。それ以外にも打ち合わせが複数有りましたが、創作とは関係ない活動についての話し合いだったことと、この秋に発表する写真集「HOF」の撮影場所の確認が主だったために、創作に脳と身体を使わなかった分、体力を消耗しなくて済んだのかなと想像します。

たぶん、身体の疲労と繋がることですが、今までは11食、お米を身体が要求してきていましたが、今回は気がつくと3、4日パンとミューズリーだけだという日が数回有りました。気持ちの状態がこれ程敏感に食に影響するものなのかと改めてそう思いました。

HOTEL BOGOTAのオーナーのリスマンさんとは、HOTELの吹き抜けを使った展示について意見をだしあったりもしました。2度目の話し合いの時に、リスマンさんがふと黙りこんだ瞬間が有りました。リスマンさんの視線の先を追うとそこには、以前の展示の時にとりつけた複数の大きなちょうつがいと、ペンキが剥がれた壁面が目に入ってきました。

絵を展示するために一緒に勢いで付けた金具だとはいえ、有る意味リスマンさんたち家族と従業員が長い歳月をかけて守り続けて来たホテルを傷つけたことは確かなことです。リスマンさんの思いと、この場に展示した人たちの思いは立場が異なるだけに、違って当たり前のことですが、自分等の財産を傷つけてまで場を用意してくださったリスマンさんとHOTELの人たちの思いは大切にしないといけないなと思います。

そしてBOGOTAは文化的に歴史のあるホテルだけに、長きに渡り様々なアーチストを見てこられているからか、リスマンさんは作家の姿勢についても触れられました。僕自身も若手に場を用意することの是非をこの10年余り考え続けて来ていることもあり、なんとなくリスマンさんの言わんとする気持ちは分かる気がしました。「あと2、3年、頑張ってみませんか」と僕はリスマンさんに声をかけましたが、気長に新しい人との出会いを待ちたいと思います。

べルリンに出かける方は是非BOGOTAを使ってあげてください。





HOTEL BOGOTA
SchluterstraBe 45, 10707 Berlin
www.bogota.de


ここで朝ごはんを食べます。

僕がこの前使った部屋で、朝食付きで44ユーロです。


ベルリンを立つ前日にベトナム料理屋に立ち寄ったところ、従業員の一人が「新聞を見たよ、コーラでもなんでもごちそうするから」と話かけてくださいました。ベトナムのワークショップから時間が経っているので、少し驚きましたが自分等の意思で母国を出たとはいえ、離れて生きる分、ベトナムに対する思いが強いのだと思います。写真集を纏め終わった後にワークショップの準備に入るつもりです。

ベルリンから戻って2日後、宮崎県延岡市の美術展の審査に出かけました。

審査が終わった後、一人の市民の方が僕の写真集を手にして話しかけて来ました。そして「彼方の写真は全然分からない、だけど後書きがここに来た」と拳で胸を叩くのです。「新しいベルリンもちゃんと買うから」と。ぶっきらぼうなものいいでしたが、疲れも何もかも吹き飛んでしまうほど嬉しい一言でした。

審査の翌日僕は、宮崎市内の温泉付きの宮崎観光ホテルに2泊しました。
時差ボケと身体の疲れをとる為です。

このホテルを選んだのは温泉がついているということ以上に、前回審査に訪れた時に小学6年生の時の修学旅行で泊まったホテルだったことを思いだしたからでした。あの頃は皆等しく貧しく宿泊費を補足するために僕ら皆一人ずつお米を宿泊先に用意して行ったものです。
この春鹿児島で番長たちと再会したこともあり、懐かしい思いで予約して泊まりました。


たぶん疲れが出たのか温泉にも入らず眠り込んでしまいました。

東京の知人からの電話で目が覚め、電話を切った後空腹を覚え、何かを食べないと良く無いと思いホテルの8階に有るラウンジに出かけました。

ただ残念なことにちょうどラウンジは閉まったところでした。引き返そうとしたところ女主人らしき方が気づいてくださり、僕が何かを食べに来たことが分かると、「待っていてください」といい、お茶を出してくださいました。そしてソフトボール程の大きさのおにぎりを3個握ってきてくださいました。僕は甲子園球児じゃないからこんなに大きなおにぎりは食べきれないと思いつつも、有りがたい気持ちで梅干しと昆布が入ったおにぎりを受け取り「明日必ず来ますので」とお礼を言い部屋に戻りました。おにぎりのお金は受け取ってもらえませんでした。

部屋に戻り窓の外に広がる大淀河の夜景を見ながらおにぎりを食べた訳ですが、おにぎりを食べながら僕はずっといろんな人の好意を受けて生きているなとしみじみ思った次第です。電話をかけて来た知人ももう一人の知人が電話口に居ることを伝え、「東京に戻られたら赤坂に来てください」と僕の生活や仕事を気遣っての電話でした。
3個のおにぎりは食べ終わるのに2日半もかかりました。


あくる日、8階のラウンジを再度訪ねました。そしてメニューを見てここは観光ホテルであってベトナムとは違うのだと値段を見て慌ててしまいました。だからと言って見栄を張っても仕方がないので、メニューの中で一番安いご飯とみそ汁のセットにゴーヤの炒め物を頼みました。全部で900円ぐらいです。それでもホテルの方は嫌な顔一つせずにお茶を急須で出してくださり、「昨夜も来ていただき有難うございます」と挨拶をされてしまいました。




ホテルの部屋から見た大淀河



写真集 「HOF」 ベルリンの記憶
発売予定日が9月29日に決まりました。
発行岩波書店

以前も触れましたが、人間が一人も出てこない作品集です。

今月は写真集で使うプリント作業に加えて、TV・ラジオのCMの審査が有ります。体調管理をしっかりしないといけない。




HOTEL BOGOTAで現在続いている安河内さんの展示です。
足場のない所でどうやって作品を吊るしたかは分からないですが、
命がけの設営だったような気がします。



この秋には、また新たに絵の展示が始まります。




●2010.6.13

このところ橋口便りが延び延びになってしまい、申し訳ないです。
実は僕は今、ベルリンにいます。

先日、美術館で写真展開催に向けてプレゼンテーションの機会をもらいました。資料は事前にデビュー作から近作まで届けていただいていましたが、今回は初めてBERLINのオリジナルプリントを用意しました。

僕の作品がいいとか、悪いに関係なく、ベルリンの写真は少し見飽きてしまったという主任キュレーターが、僕のプリントに釘付けになっていたのと、僕の作品を見て「生活はどうしていますか」と思わず言葉にされたのが印象的でした。片手間で作品作りをしていないということを感じてもらえたからの言葉だと僕は理解しました。


そして有り難いことに、作品は日本人シリーズも含めて全て気にいってもらえたようです。ただ気にいってもらえたからといって直ぐ直ぐ写真展に結びつくかというと、ことはそんなに単純ではなく、おそらくここから23年はかかるかと思います。それでもドアの前でウロウロしていた状態からやっと一歩ベルリンという部屋に入れたかなという感じです。

一歩一歩ここからです。

勿論一人でここまでたどり着けた訳ではなく、沢山の人の助けをいただいています。 いつか僕の背中を押してくださり、一緒に道を開いてくださっている人たちを紹介できるよう頑張りたいと思います。

ベルリンに出かける前に、雑誌「世界」のグラビアの選考をしてきました。
有り難いことに今回もいい作品と出会えました。


前回の選考会で広島をテーマにした作品がありましたが、今度は長崎をテーマにした作品が残りました。広島の作品もそうですが、戦争を知らない世代がどの様に過去の記憶と向かいあうのか、一つの指標になる作品だと思います。ただこの作者はこれまでも北京や上海をテーマに応募して来ています。出会った対象を消費するだけで終わってほしくなく、作家自身がこれからどうして行きたいのか、という問いが僕の中に残りました。対象はなんであれ、撮ることは簡単なことですが、大切なことは出会って撮った後どう向かいあうかだと思うからです。

自宅の周辺や新宿の街角を撮った作品も残りました。僕らは新しい文明の利器がとりまく社会を生きていますが、進歩ってなんなんだろうかという問いを投げているような作品です。写真は乱暴でしたが、新しい文明の利器でごてごてにラッピングされても人間はそんなに変わらないのだと突きつけられた思いでした。あるいは近代に溶けこむことを拒否している人たちかもしれない。

インドの砂漠で生きる民を撮った作品も残りました。この作者は以前も同じインドの砂漠をテーマにした作品で応募していましたが、前回よりもさらに視線の質を深めてきた作品で再登場して来てくれました。「世界」の原稿料を活かしてくれていることが伝わってくるだけに、公募という場を用意してきている僕らにとっては嬉しい作品でした。

そして年齢基準をオーバーした作家による衝撃的な作品も届けられました。
招待作品として8月発売の号で紹介されます。


この春に以前「世界」のグラビアで作品を発表した人が二人、写真集を発表しました。 ここでタイトルを紹介できたら良かったのですが、東京に置いてきているので申し訳ないです。グラビアに応募してくる人たちが、写真で生活が出来ているとは思いませんが、応募してくる人の何人かは、生活できる出来ないではなく、自分の心の声と対話をしている人たちだということは確かです。

話は飛びますが、何時も僕がベルリンで使っているHOTEL BOGOTAに自分の部屋に戻る前の2日間だけ泊まりましたが、僕が今新しい作品「HOF」を纏める作業に入っていることを知っているオーナーのリスマンさんが、中庭の奥にある部屋を用意してくださっていました。しかもキーホルダーには「HOF」の文字が。にくいです。

そしてHOTELの拭き抜けに展示されている安河内さんの作品も、送られてきた写真よりもはるかに素晴らしい展示でした。展示風景や「HOF」の文字つきのキーホルダーもデジカメで撮りましたが、アナログ回線の僕の部屋からは送れないのが残念。




●2010.4 .25

しばらく東京を留守にしている間に、近所の空き地で前々から狙っていた竹の子が全部だれかに先を越されてしまったようです。残念。


さてもう2カ月程前になりますが、コダックが製造、発売していたカラー印画紙が製造、発売中止になりました。突然の発表ということもあってか若い写真家たちは急いで印画紙の買いだめに走ったそうです。実は僕も以前ポラロイドフィルムの製造中止を知り、10年分ぐらい買いだめをしたことがあります。買いだめしたフィルムは今冷蔵庫の中です。ただ買った後に、量販店の人に有効期限がありますよと言われてアラマーという思いで冷蔵庫を眺めていますが。

若い人たちが自分の表現に適した印画紙を買い求める気持ちを僕はなんとなく理解できる気がします。企業が市場原理でデジタルに走るのはいたしかたないというか、メーカーとして自然なことですが、ただ写真文化の周辺に居る人間の一人としてもう少し文化としての写真という側面、視点で、市場とは違う対応の仕方が写真家サイドにあったのではないかと強く思っています。

後、写真は一人でも完結できる表現という特性から来ているのか、(本当は沢山の人の関わりや応援が無いとできないことですが)、少なくない人たちがフィルムに拘って作品を作っているにも関わらず、そんな人たちの声や思いが束になり社会や企業に届けられないところに、日本の写真文化の非弱な立ち位置を感じてしまいました。

実は民族学者の宮本常一さんの「宮本常一が見た日本」というタイトルの文庫本の解説文を書く機会をもらいました。発売は5月初旬で筑摩書房からです。

その中で宮本さんが生前、10万カットの写真を残されていることを知りました。同じ表現の端っこにいるものとして宮本さんが残された膨大な量の仕事を前にすると気が遠くなりそうになりますが、宮本さんも最初の一歩、最初の一枚から始まったのだと自分に言い聞かせています。
してデジタルだったらこれだけの財産が残っただろうかと素朴にそう思いました。そしてデジタルデーターの保存が確立するまでは、せめて人生の節目節目の行事である入学式とか卒業式とか結婚式とか家族の記念写真ぐらいはフィルムで残さないといけないのではとも。そしてデジタルはこれからさらに進化して行くのでしょうが、フィルムや従来の印画紙だと150年は保存されて来たというこれまでの事実を今一度立ち止まり考えてみる時期に来ているような気がします。

ベルリンから安河内さんの展示風景が届きました。実は安河内さんの作品をなぜ選んだのかという少なくない質問を僕は受けました。僕は安河内さんの存在と作品を知ったのはベルリンでです。8×10というちょうど週刊誌サイズより少し小さめのサイズのプリントを見せてもらいました。テーマは桜で特別なものでもないです。ただ彼女の作品を目にした時、彼女は桜が持つ美しさに頼ることなく、一度桜を自分の身体の中を通している作品だと感じました。ただその時点では彼女の作品をBOGOTAのリスマンさんに推薦するまでの思いは僕の中にはなかったです。

それから数カ月して安河内さんから一通のメールをもらいました。「桜を大きなサイズにプリントしました。その変わり印画紙代でアルバイト代は全部吹き飛んでしまいました」そのメールを読み、彼女の中には優先順位がキチンと出来ていると思いました。働いて得たお金は勿論のことですがプリント作業に費やす自分の持ち時間をおしみなく注ぐだけのものを世間の評価に関係なく彼女は見つけていると思いリスマンさんに彼女の存在と作品を推薦しました。


「世界」5月号で年越し派遣村を主催する湯浅誠さんと映画監督の山田洋次さんの対談が掲載されています。日本人はなぜ「フーテンの寅さん」を必要としたのか、なぜ山田さんが「寅さんシリーズ」を作り始めたのか、なぜ湯浅さんが炊き出しに合わせて「寅さんシリーズ」を大晦日に上映してきたのかという興味深い内容です。湯浅さんと山田さんの対談を読みながら、僕らAPOCCが試みているワークショップの意味みたいなものも再確認できました。「世界」は公立の図書館に置いてありますので読んでみてください。

星野が「すばる」5月号で、彼女の生活圏である、五反田や大崎を散歩しながら星野にしか見えない風景を書いています。かつて無産階級の人々を対象にしていた診療所の話や、あの一帯を包んでいる空気の正体を、歴史を絡めながらひも解いてくれていてドキドキするエッセイです。「すばる」はまだ書店で探せると思いますが、「世界」同様に図書館でも読めますので探してみてください。

ベトナムの少年少女たちの世界を日本の高校生に見てもらう最初の一校が決まりました。

そして日本の高校生が撮った世界と一緒にベトナムの少年少女たちの世界も同時に美術館に展示する企画も決まりました。ベトナムの少年少女たちの世界を日本の高校生たちが自分たちの手で展示をするという試みです。未来が開いてく思いです。面倒を承知で動いて下さっている先生たちに感謝です。

僕の新しい作品集「HOF」が正式に岩波書店で社内企画として決まりました。版型も前の「BERLIN」と同じです。この9月には皆さんの元に届けられると思います。僕の作品で、人間が一人も出てこない初めての写真集になります。後、サプライズがこの写真集には準備されていますが、それは完成まで秘密です。












Naoko Yasukochi
Nachtgarten


HOTEL BOGOTA
SchluterstraBe 45, 10707 Berlin
www.bogota.de





●2010.3.13

この便りがUPされる頃は気温も高くなっているのかもしれませんが、寒いですね。

さて殆どの方は気がついておられないと思いますが、横浜の展示会場に足を運んでくださった人たちが残してくださったメッセージ、感想文が先日やっと全部ベトナム語に翻訳してホームページ上にUPすることができました。英語にはすでに訳されています。お陰さまでというか会場に気持や思いを残してくださった人たちの行為を無にすることなくちゃんとベトナムに届ける状況が作れて良かったです。

ただワークショップの参加者の大半がインターネットの世界とは無縁なところにいるだけに、直ぐ直ぐ簡単に皆に日本からの思いが届くとは思えませんが、きっと読んだ誰かが彼らに伝えてくれるような気がします。それにベトナムで暮らす人たちや、ベトナム以外でベトナム語を母語とする人たちとも、これで繋がりがまた一つ増えた気がします。そして翻訳された日本人の感情に触れる機会を得たベトナム系の人たちの中にもきっと新たな何らかの感情が生まれるはず。DVDが完成した折にも同じような感想を述べましたが、僕らが間に入ることでやっとぐるぐると循環する感情の流れを生み出せるところまでたどりつけた気がします。交流ということは、たぶんこういうことの積み重ねなのだなと思いました。


話は飛びますが、昨年末に沖縄で、映画監督の是枝監督と歌手のタテタカコさんによるアーチストトークが有りました。その時、来場者から質問が幾つか出ました。その質問の中に「心」と「命」をどう定義しますか?という問いが来場者から出ました。その質問に触れたとき僕は「難しい質問だなこれは、恐ろしいことを聞くな、自分だったらどう答えるのだろう」と映画館の壁によりかかりながら考えていると、是枝監督はしばらく考えた後、質問を変にはぐらかすことなく「命はそこに有るもの、心は何かと何かが出会うことで初めて生まれて存在するもの」とそんな感じのことを答えられました。とても分かり易くそしてみごとにアートが持っている答えの一つを提示されたなと思いました。

是枝監督が定義された「心」と展示会の会場に残された感想文やワークショップ参加者が感じた思いなどは同じ線上に位置づけることができます。そしてこれもアートだと言えます。

表現やアートの世界には所有できるものと、所有できないものが有ります。作品として形として見る人が目で見えるものは、だれかが所有できるものですが、その反面人間が作品に触れそのことで生まれた感情や言葉は所有できないものです。一般的に形有るものがアートや表現だと位置づけられていますが、ワークショップを積み重ねて行く中で、僕らが大切にしていかなくてはいけないことは、ワークショップに参加した少年たちが撮った写真ではなく、参加したことで感じた思いであり、湧いてきた感情がとても大切なことで、そしてまた、ワークショップ参加者が撮った写真、作品に触れた人たちの中に生まれてきた目に見えない感情こそが僕らが目指しているワークショップの成果だと思えるようになりました。

しばらく時間が空きましたが、ベトナムの少年少女の世界を日本の高校生に見てもらう機会がそんなに遠く無い日に作れそうです。本当は中学生にも見て触れてもらいたいと考えていますが、回路を見つけるのにもう少し時間がかかりそうです。ワークショップの方も自分の作品集づくりとの兼ね合いがありますが年内にもう一度ベトナムで試みたいと考えています。

ベルリンのHOTEL BOGOTAで日本人アーチストの展示を一年前から始めたことはお伝えしてきていますが、今月の5日、二人目の作家のオープニングに無事たどりつけました。今回はベルリン在中で写真家を目指している安河内直子さんの「夜桜」をテーマにしたモノクロの写真作品です。

第一回目の絵描きの大星純一君がしっかりとした展示をしてくれたことが次に繋がり、HOTELオーナーのリスマンさんがすっかり本気になってくださったことでオープニングは盛況だったようです。僕は所用があり東京を離れることが出来ませんでしたが、日本でも良く知られている写真歴史家でヘルムート・ニュートン美術館の学芸員であるマティアス・ハンダーさんがわざわざスピーチしてくださり、そしてベルリンの日本大使館の文化部の方やベルリン日独センターの方、先のベルリンでの講演会で同時通訳をしてくださった方、対談相手の一人、写真歴史家のカトリーナ・ハウゼルさんも寒い中足を運んでくださったそうです。まだスタートして2年目ですが早くも場が公になりかけてきているような気がしています。


僕が初めて展覧会を開いた時には展示は勿論ですがオープニングなんてどうやったらいいのか分からず、当時の仕事場の有った西麻布で関係者5人ぐらいで乾杯をした記憶しか残っていません。そのことを思うと作家、作品、HOTEL BOGOTAはとても幸福だと思います。

安河内直子さんの展覧会の告知やHOTEL BOGOTAを紹介してくださっている記事が届きました。ベルリンでの僕の写真はとても珍しいので、恥ずかしいですが併せて読んであげてください。


ベルリン在住のライター中村真人さんのブログ「ベルリン中央駅」

●安河内直子「Nachtgarten(夜の庭)」展オープニング
http://berlinhbf.exblog.jp/12255162/

●橋口譲二が案内するホテル・ボゴタ
http://berlinhbf.exblog.jp/12043920/






今月5日発売の月刊誌「すばる」でカフェ・セルジェナというタイトルでベルリンのことを寄稿しています。興味のある方は「すばる」を読んであげてください。僕の原稿もそうですが、同じ号に掲載されている「ロスジェネ芸術論」は是非読んでほしい記事の一つです。著者の杉田俊介氏の立ち位置に僕は共感します。

そして知り合いの小説家の中島たい子さんが「結婚小説」というタイトルの新作を集英社から発表しました。中島さんの新作は読んでいて入口の部分がちょっと背中がもぞもぞしてしまいましたが、中頃から緊張感ただよい、生き方がテーマになっている作品ですので併せて読んでもらえると嬉しいです。





●2010.1.31
先日、雑誌「世界」のグラビア写真の公募作品のセレクションを行いましたが、今年最初のセレクションはとても気分がよかった。それはセレクションに残った作品、作家の中に、今までもう本当に何度も何度も選考から落ち続けていた人の作品が残ったからです。
編集部の人たちはしっかりと把握されていると思うのですが、僕の印象として、彼は10回以上も選考から漏れていた気がします。

彼の凄いところは、選考から漏れても変にイジケルこともなく、そしてテーマ対象を変えることなく、応募し続けて来てくれたことです。世間や他人の評価に関係なく自分自身が拘ったことに拘り続ける。これは表現の基本中の基本なんだけど、多くの人にはそれが出来てない気がします。


実は一年ほど前に、毎回、毎回大量のプリントで応募してくる彼の一途さに、負けかけたことがありました。プリント費用も膨大な金額になっていることが想像ついたからです。フィルム写真はお金がかかるだけに、気の毒な気がして、編集テクニックで彼の作品を残しかけたのですが「じゃなんの為に今まで彼の作品を落としてきたのか」という当たり前の問いが僕の中に沸いて来ました。僕らの(編集部も含めてです)知識で、彼の作品を合格にしても彼は喜ばないだろうとそんな気がして、結局その時も落としました。

広島で暮らす彼とは会ったこともなければ、言葉も交わしたことのないのに、「彼はまた、ここに来ますよ」と何故か確信めいたものが、僕や編集者たちの心の中にはあった気がします。そして応募し続けてくる彼の中にも、「世界」が用意している「場」に対して信頼めいた何かを感じてくれていたのだろうと想像します。


彼の作品は3月8日発売の号に掲載されます。是非見てあげてください。

そして2月8日発売の号には、バングラディッシュで撮影された作品が紹介されます。彼の作品は、一度、選考に残した作品にも拘わらず、ベルリンに居ても、このまま「世界」で紹介していいものか、ずいぶん迷いに迷った作品でした。良くある旅の写真とどう違うのだろうかと、そんなもやもや感がどこにいても僕の中につきまとっていました。でも彼の作品の中に流れている「温かい」正体が気になり決断がつかないまま、ずるずると掲載日が来てしまいました。

して彼と面談した担当編集者から「彼は大阪で作られた義足をアフガニスタンへ届けるボランティアをしている人でした」と知らされ、その時彼の作品が持っている「温かさ」の正体を知り、合点がいきました。写真に限らず表現は表現されたものが全てだと良く言われます。その通りだと僕も思いますが、それでも僕は、表現は生き方そのものが大切なのだと思う自分が居ます。

今回セレクションに残った作品の中で、アフリカの子どもたちを撮った作品がありました。ふだん応募作品の中で傾向として多いのが、紛争地や発展途上国で暮らす子どもたちの写真です。紛争地や発展途上国を超えた作品が無く、毎回選考からもれていました。ですが僕らは今回久しぶりに子どもたちのいる風景を選びました。関係の持ち方というか、目の前の現象に惑わされることなく人間と風土をちゃんと見ていると感じとったからです。後で分かったことですが、彼もまた写真を撮るまえに、3か月間エイズ患者が暮らすアフリカのキャンプでボランティアとして働いていたことが分かりました。結果として僕らは遠回りしている作品、作家を選んでいた事実が嬉しくなります。


今僕は遠回りと形容したけど、ものごとには近道もなければ遠回りもなくて、目の前の被写体にカメラを向けるまでに必要な手続きの時間ということだと思います。ただボランティアの動機が写真を撮るための手段でないことを願う自分もいます。この辺のことはとても微妙な問題だと思います。

選考から漏れた作品の中にも、自らの肉体を使って撮ってるなと分かる作品が幾つもありました。そんな作品、作家に対しても、お金も時間も体力もかかることを承知しつつも、僕らは「テクニックに溺れることなく、もっと対象を深めてください、待っていますので」と実にアナログ的なメッセージを送りました。楽しみです。

話は飛びますが、今年のベルリンは本当に寒いようです。クリスマス前に降った雪が寒さで凍りついて解けないそうです。ベルリンの街で鼻水たらしながら20年前から撮り始めた作品「Hof」を写真集として纏める作業に入りました。社会環境が環境だけに一冊の写真集として完成するまでには、問題山積でしょうが、歴史に耐え得る作品集に仕上げたいと思います。

ベルリンの街角の写真が届きました。この映画にはTBSの僕の知人が関わっていただけに、嬉しくなる光景です。何時か自分の写真展のポスターをこうして眺めたいものです。
後、すばるの次の原稿が手を離れました。







●2010.1.3

新しい年が始まりましたね。僕は東京に戻っています。

たぶん年齢のことも有るかと思いますが、何事もなく無事に一年を終えられて、そして新しい年を迎えられていることを、とても有難く感じ受け止めている自分がいます。

昨年は例年になく、僕の廻りで訃報が相次ぎました。それも僕よりも若い世代の人たちが多いのに驚いています。新しい政権が生まれて、社会システムを問いなおす動きが生まれ始めていますが、今僕らが享受している新しい文明や、それによってもたらされた文明の利器や新しい生活環境をそろそろ真剣に問い疑っていい時期に来ていると僕は思うのですが、一度手にした便利を捨てることは難しいのかな。

僕は間違いなく今の文明の利器は人間の命を縮めている気がしてならないのですが。 

話は飛びますが、ベルリンで美術関係者と食事をした折に、ベルリンのアパートでは僕はアナログシステムで有ることを話すと、驚いたことに美術界の一線で活動している二人が「私たちもそうだ、仕事上携帯も持っているけど、昼間は電源を切っていて、できるだけ家に戻ってからかけ直すようにしている」「今の文明は進みすぎているから」と。

僕がベルリンを好きなことの一つに、頑固な人たちが変わらず社会の一線にいることです。以前も仕事や住む家のない女性を対象に、20年前から食事を提供してきている女性に「ジョージ、日本の左はいま何をしているのだ」と。

新年なので、今年の抱負を述べたいのですが、昨年までとりかかって来たことをより確かなものにするために続けていきたいと思います。

APOCCの活動については、昨年は自分自身の作家活動の土台固めに比重を置いていたために、DVD制作で終わりましたが、今年は昨年度の繰越金や新年度の会費を原資に、この秋ごろアジアの地でアートワークを考えています。ただDVDを制作したことで、とても大切なことに気付かされました。そのことは改めて触れたいと思います。

話は飛びますが、帰国前日、励ましの思いで、日本人絵描き二人と食事を一緒にしましたが、マイナス10℃のベルリンで、生活費を節約するために、二人とも部屋の暖房を切っているそうです。その時は、思わず絶句しそうになりましたが、何かを目指すということは、こういうことかもしれないなと納得してしまいました。ただそうしながら真面目に絵を描き続けたとしても、作品が社会に評価され、努力が報われるかというとまた別なことだけに、現実はとても厳しい世界です。それだけに気持ちの応援は続けていかないと、と思いました。

昨年5月からHOTEL BOGOTAの吹き抜けを利用して、日本人絵描きの絵を展示して来ていましたが、この3月から新しい作品に入れ替えることになりました。当初3か月の予定でスタートした展示でしたが、約10か月余りの展示になり、作品、作家にとってとても幸福だったと思います。次回は写真家を目指している女性の写真作品になります。絵描き同様日本人です。

HOTELのオーナーとは、日本人でベルリンの街で表現の世界で生きることを試みていて、ギャラリーや公の場に出て行く前の人たちの場として、HOTELの吹き抜けを活用していくことを先の滞在中に確認しあいました。5年ぐらい続けたのちリーフレットの制作を考えています。

部屋の暖房を切って生活している絵描きが住むベルリンから、街の様子を写した写真が届きました。

僕が帰国したあくる日から寒波が居座って居るそうです。

改めて今年も宜しくお願いします。









橋口便り 
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