HASHIGUCHI George

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橋口便り
橋口便りバックナンバー・1(2003.3〜2004.5)

●2004年5月18日


今月号の「世界」のグラビア写真は谷口美香さんの作品で、北朝鮮の街角をスナップしたものです。雨ガッパに歩道橋の写真。自転車を漕ぐ男の人。隊列の中でふと気を抜く兵士。小さな畔の畑。特別きわだった表現の写真ではないですが、この国の日常の断片が静かな鼓動とともに伝わって来る写真です。

谷口さんの写真を見ていたら、十数年前初めて韓国にカメラをさげて出かかけたことを思い出してしまいました。カメラをかまえるだけで刺すような視線が四方からあびせられたことを今でも良く覚えています。「お前はこんな所をとってどうするんだ、北のスパイか?」伝統的な町並みにレンズを向けていた時には「貧しい風景を撮って日本で笑のか」そして動物園に毎日通ってた時は変な奴と思われたらしくパトカーがやって来たし。交番に連れて行かれた事も二,三度ありました。
僕らが素朴で美しいと思うものが、そこで暮らす人にとって必ずしもそうではありあません。まして過去の歴史の中で侮蔑の視線や、あるイデオロギーをもった視線に曝されあびせられつづけた思いがあればなおさら拒否反応は強いと思います。

アジアの国々は西洋諸国に比べて、人々がカメラを向けられることを拒否しません。むしろ撮られることだけで喜びの感情を持つ人々が多い気がします。(余談ですが、アジア、アフリカの写真は撮れても西洋社会に行くと途端に何も写真が撮れなく写真家が多いのは、そういうことです。生活習慣の近い国々では写真家の発見する目や感性が試されます)そうゆうアジアの国々の人びとが多い中でこれまで韓国だけは違いました。他のアジアの国々を撮った写真集が多い中で韓国を撮った写真集、作品が少ないことからもそのことは伺い知ることが出来ると思います。本当に韓国、日本が素直に向かい始めてまだそんなに時間はたってないのですよ。

谷口さんの作品に戻りますが、今回掲載された作品は表現するところまで来ているかというと、まだまだだと思います。谷口さんには失礼ですが、写されていたものが北朝鮮でなければ選考からもれていたでしょう。にもかかわらず掲載にふみきったのは、谷口さんの視線に意地悪なものを感じなかったことがひとつ。そしてドキュメンタリ−写真とは異なり、ジャ−ナリズムの原点である見たものをそのまま写していたからです。言い方を替えると北朝鮮に対するありあまる情報の刷り込みが排除された写真であることに価値を見ました。刷り込みの排除。このことはジャーナリズムにとっては、とても大切なことなのです。脚色されてない北朝鮮の街角(写真)に意味を感じました。(谷口さんゴメンナサイ。でも素直な視線を持ち得たのは谷口さんの力です。)

ここでの脚色とは、写真家自身の色と北朝鮮国家の両方です。北朝鮮を好きとか嫌いとかそういった感情とは関係無く、人々が対峙する時が来るまでは、まだまだ沢山の時間を必要とすると思います。北朝鮮に対して客観的な発言や言動をするだけで石が飛んで来るような今の日本の社会状況の中で、谷口さんの今回の仕事は小さなようで大きな仕事だと思います。そして未来に向けた大切な仕事だと僕は思いました。

ジャーナリズムとドキュメンタリーの違いは、見たものに私的な眼差しが込めらているか否かで僕は分けられると思います。私的な(カメラマンの)感情、視線を排除したのがジャーナリズムの写真であり個人の、感情や思想を被写体を通じて普遍化させた作品がドキュメンタリー写真だと僕は規定します。前月号の本間氏の作品はドキュメンタリー作品ですが、今月号の谷口さんの作品はジャーナリズムとしての写真、仕事です。そして本間氏の仕事も谷口氏の写真もそれぞれ大切な営みだと僕は思います。この二つの営みに優劣はありません。勿論世間で語られているアートしての写真とも等価です。

僕の認識の是非はともかくとして、日本の写真の世界ではこのようなことがが曖昧にされ、議論することなくおろそかにされたまま、今日を迎えていることが、写真の衰退と、多様な写真のあり方を狭めている原因のひとつだと僕は思います。

写真の衰退の理由は、このことだけが原因ではなく、大人の写真家がいなくなったことも大きいと思います。ここでいう大人とは、若い人に媚びずに、時のはやりすたりに関係無く自分の時間軸をもって現場にいる人達のことです。このことはいずれ改めて触れたいと思います。

責任といえばこの十年あまり私写真が市場や写真界を席巻した感がありますが、これらの写真群もそろそろ議論されてもいい時期だと僕は思いますが。(批判ではなく議論です)

話題がいきなり飛びますが、冷水パスタやゴーヤの季節が来てよかった。レシピを書き始めて、僕の食生活は、改めてレシピ化するようなものは食べていないことに気がついたのです。ただ野菜を煮るか魚を焼くか単純で素朴なものを毎日食べていることを確認してしまいました。

期待させてしまい、すみませんでした。



●2004年4月28日

先週の土曜日に、井の頭公園脇のカフェ、ドナテロウズの写真を入れ替えました。写真を壁にかけてみて改めて自分の視線の質に変化がおきていることを確認しました。常駐のスタツフがいなくなり三年の歳月が過ぎようとしています。一年に数人のアシスタント希望の人がコンタクトして来ますが今ひとつ気持ちが乗らずに今にいたっています。(今、アシスタントがいない理由は次回に説明します)

事務的な作業から、想像してから作品として普遍化させる作業までの全ての工程を今一人でやっています。この二十数年の作家活動のなかで始めてのことです。一人で全てをまかなうことは、大変にはちがいないのですが,今この時点で作家活動を振り返るには少々早すぎますが、この時期に生み出されてくる作品はとても貴重で意味のある作品になるような気がしてなりません。

一人での作業にもかかわらず、僕の活動の場はどんどん変化し広がってきています。アートワークに月刊誌のグラビヤのディレクションに、いろんな高校での課外授業、芸大での非常勤講師。海外での写真展。(それだけ周りに迷惑をかけているということです。)

月刊誌「世界」のグラビヤの公募作品をみていると,この十数年の日本の写真シーンがいかに若い人を無責任に駄目にしてきてたかが良くわかります。(このことは何も写真の世界に限ったことではなく、社会全体に共通していると思います)それにおもしろい現象ですが、公募してくる人のほとんどが男性だということです。(始めは半々だったのですが)他の公募展は女性の写真家だらけのことから見ると、発表の場として「世界」が魅力的でないのかもしれませんが、女性のほうが簡単に結果の出やすい写真に向かっているのかも知れません。そのこと自体を僕は否定はしませんが、作品を選ぶ側に問題があるような気がしてなりません。

今発売の号の作家、本間信孝氏の後書を引用します。
「撮りたいと思っても,簡単には写らない。熱望して行動に移し,作業を続けていかないと結果が出ない。そういうごまかしの効かない「写真」に夢中になりたいと思った。」

彼の作品からは、少年少女の中に潜む、絶望と孤独とうつろいの中にも人間の存在に対する希望がヒ
リヒリと伝わってきます。いい作品ですのでぜひ観てあげてください。月刊誌「世界」のグラビヤ公募について、まつわる話はまた後日書きます。

三号前から星野の作品が掲載されている月刊誌「CHAI」のグラビヤのデレクションも担当することになりました。CHAIは中国資本の雑誌で中国がテーマです。ここでは発表未発表の作品に関わらず、そして年齢、国籍をとわず、意志とその人なりの思想をもって中国を表現している作家と作品を紹介してゆきたいと思っています。今月号から三号続けて江成常夫氏の作品を紹介しています。
そして年間三回から4回ぐらい中国の作家と作品を紹介したいと僕は考えています(CHAIの雑誌の内容はまだ改善しなければならないところが沢山ありますが,この雑誌のいいとこは中国のカメラマンやライターデザイナーを育てようとしているところです。志をもった雑誌ですので、皆さんも応援してあげてください。)

CHAIの編集部は上海,北京,東京にありますが、その東京の編集責任者として星野のあと僕の作品造り(作品、ひと夏,夢,職,子供達の時間)を支えてくれていた山下聡子が着任しました。今山下は編集会議で上海だそうです。なんかカッコイイですね。

それから作品「カップル」「夢」のときアシスタントで僕の暗室技術の基礎を造ってくれた松本祥考は料理写真家としての基盤を自分の力で確立させています。話題の料理本を観てみてください。そこに松本の名前があるはずです。

それから今月20日,文化庁の文化交流使の認証式がありました。交流使は昔の遣唐使みたいなものです。僕が指名されたということは、ただ単に日本の文化を世界に紹介するだけではなく宗教、文化の異なる国々の人々と人と人との関わりあいのなかででしか生まれない何かを模索し探して欲しいということだと僕は理解しています。

誰にでもある機会ではないので、背筋をのばし努力したいと思っています。




●2004年3月25日

パソコンが壊れて2週間近い時間が流れる中で、日曜日無事に横浜市民ギャラリーの展覧会が終わりました。個人の展覧会ではなかっただけに、広報などでとまどうこともありましたが、とてもいい時間を持つことができました。改めて感謝しています。

学芸員の方に伺ったのですが、会期中60人近いボランティアの方が手伝ってくださったそうです。僕が感心したのは、皆さんのボランティア活動もさることながら、学芸員の方たちとボランティアスタッフの関係の持ち方でした。聞いたところによると、この展覧会が始まる前に、学芸員の方々がボランティアスタッフと共に、会場に訪れた方のどんな質問に対しても答えられるようにと、出展作家について、個々の作品についての情報はもちろんのこと、作家性まで含めての勉強会を開かれたそうです。

日曜日、とてもいいことがありました。

僕の一番最初のアシスタントが会場に足を運んでくれたのです。彼は、「視線」を発表した直後に僕の作品に興味を持ち、コンタクトをとってきました。僕の作品の中に、「疾走」という作品集がありますが、この「疾走」は彼と一緒に作った作品です。ロンドン、リバプール、ニューヨークと街角から街角、朝から晩まで一緒に歩き回っていました。

写真展が終わった後、彼と近くのカフェに入り、椅子に座った瞬間、「懐かしいですね。」と彼が思わず笑い、つぶやきましたが、その思いは僕も同じでした。あの頃は、いつも街角やカフェなどの、人間が気持ちを置きにくる場所を探し歩いていたので、そのことを彼は思い出したのだと思います。普通人と人が話をする時、言葉のやりとりがあるのですが、昨日は違いました。彼は僕が今作っている作品のことを質問して、それに対して僕が今撮りかかっている作品のことを話すと、そこで会話は途切れました。途切れている間、彼は何かを考えているようでした。

そういうやりとりが断片的に暫く続いた後、彼は「僕には見せるものが何もないですね。譲二さんは突然今があるわけじゃなくて、積み上げてきたんですよね。」とつぶやき、また無言になりました。暫くして、「僕ももう一回やってみようかな。考えていることがひとつあるんですけど。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいたのです。彼は、ベンツに乗っているくらいですから、カメラマンとしての生業は成り立っているのだと思いますが、自分の手垢のついた作品を残したいんだな、ということを僕は感じました。その後、僕は彼に尋ねました。「いくつになった?」「いや、48です。」「あ、そう。でも、できるよ、まだ。」

そうして、彼と別れました。

何をもって展覧会が成功、不成功というか分かりませんが、僕にとっては色んな意味でとても良い展覧会になりました。


この1、2年滞っていた事務的な不義理の山もほぼ片付き、残るはあと3人の方のプリントのみになりました。


あと少しです。




●2004年3月13日

橋口がキューバに残る日本人を訪ねた「世界わが心の旅」の再放送は、3月19日(金)朝8:15よりNHK-BS2です。ガセネタを流してすみませんでした。



●2004年3月12日

今日、編集者に原稿を渡した後、善福寺の池のほとりを久しぶりに散歩しました。桜のツボミの先はもう待ちきれない感じで膨らんでいましたよ。それに早々とコブシの花は満開だし窓の外の白モクレンも咲き始めています。春ですよ。

それにしても虎屋のダンゴがなくなったのは残念です。毎年桜の下でダンゴを食べていたのですが。ダンゴが食べられなくなったことより、ああいう場所がなくなってしまったことが残念です。ですがドナテローズのアイスクリームは健在です。それにもうすぐ写真も替えます。

暖かいのは気持ちがいいのですが、もう少しコートを着てたい気もします。それにこんなに暖冬だと自然のどこかで何かが大きく壊れているような気がしてなりません。恐ろしい気がします。

春といえば礼文島の金谷君が「17歳の軌跡」の中で、「春は雪も解けて皆がやる気を持ってる。秋になるとその年が良かった人もいる、失敗した人もいる。春は皆がもう一度スタートできるから、春が好きだ」と言っていたことを思い出します。

人それぞれの春があるんでしょうね。春がゆっくりやってくるように北の国の人たちとも少しずつ知り合えていければいい
のにと思うこのごろです。

横浜での展覧会もスタートしてすでに二週目が終わろうとしています。先週末のギャラリート-クも無事に終わりました。
広報の形がこれまでとは異なっていただけに、人の集まりが少し心配だったのですが、ありがたいことに沢山の人が足を運んでくださいました。

それに嬉しいことに、昔の旅仲間が屋久島からこの日の為に来てくれました。共に二十年前に「指輪物語」に心躍らせていた仲間です。「ジョージは何にも変わってない、昔のまんまだ」と言い残して、また屋久島に戻ってゆきました。きっと今ごろ日本の隅々で生きる旅仲間の間を、人づてに僕の消息が走っていることと思います。皆さんは信じないかもしれませんが、全然別の風に乗って飛んでゆく世界が現存してるんですよ。

昔のアシスタントのお母さんが手造りのマフィンを焼いて届けて下さいました。

高校時代のテニス部の顧問の先生も気持ちを届けてくださいました。

ありがたいです。
最近、たくさんの人に守られて今の自分がいることを自覚する毎日です。

それから肝心な作品の展示のほうですが、異なる時期に制作した「視線」と「夢」にもかかわらず、全然違和感なく一諸に並んでいます。おそらく人との距離感が昔も今も変わらずに同じだということだと思います。

それに写真集視線の後書きにも書きましたが、時が立てば立つほど「視線」の中の彼らの表情が柔らかく映ります。私たちが失ったものの正体を彼らが教えてくれている、そんな気がしてなりません。。

きっと去勢されていない彼らの肉体とあがらう意識が、時を越えて普遍的なものを語りかけているのでしょう。

今回の展示の内容は学芸員の方が考えられたことですが、自分のこれまでの作品に新たな光をあてていただいた気がします。僕の中には、「視線」と「夢」を一諸に見せるということは、発想としてなかっただけに、学芸員の方たちにただ感謝です。

今回は三人の画家に混じっての展示ですが、部屋が変わるそのつど、体を包む緊張がかわります。本当です。きっとそれぞれオリジナルな感性がそこに存在しているからだと思います。僕は今簡単にオリジナルという単語を使いましたが、今の世の中で一番大切にされていないものの一つがオリジナルだと思っています。

時間の許す方は、そのオリジナルを探しに会場に足を運んでみて下さい。きっとその部屋ごとに豊穣な感情に出会えることと思います。



●2004年2月19日

春の風とともに、これまでただ大きくなるだけの不義理の山が少しずつですが、片付いていっています。このまま進めば、数年振りにこの春は、季節の変化を楽しむことが出来るかもしれません。

話は飛びますが、先週の日曜日の夜、渋谷センター街に17歳を撮りに出かけましたが、正直なところ気持も足も竦むものがありました。17歳ぐらいの少年少女とは何人もすれ違いましたが、結局誰一人声をかけられずに渋谷の街を後にしました。センター街の空気がつかめれば、街の入り口(声をかける行為)も見つけられたと思うのですが、情けないです。作品「視線」を撮っていた頃の気分を思い出そうとしましたが、もうあの頃には戻れそうにありません。

「視線」から今日まで沢山の人の写真を撮り、生き方に触れて来ました。沢山の生き方を知れば知るほど、思考も足も重くなっていっています。僕が堕落(表現者として)したのではないと思いますが、知れば知るほど、何事も断定できなくなっている自分がいまここにいます。後退したのか、まだ大丈夫なのか、いずれにしろ自分で確かめなければと思っているところです。

センター街と言えば、今月号の月刊誌「世界」のグラビヤの写真は、センター街の路上の写真です。荒削りで雑な写真ですが未来を感じる作品ですので、作品と彼(作者)の名前を覚えておいてください。
時間はかかると思いますが彼は出て来る気がします

ps
3月2日-3月7日まで日本橋三越本店7階で開かれているNHKハート展に作品を一点出品していますので、近くを通られる方は探してみて下さい。なおこのハート展には芸大で僕の授業を手伝ってくれているアーティストの末宗美香子さんの作品もあります。




●2004年2月2日

良い話があります。
実は四日程前に現金を封筒ごと落としていたんですが、それが昨日僕の手元に戻りました。

落としたものが現金だけだったので、ほぼ諦めていたのですが、今「17歳」のテープ起こしを頼んでいる人から、警察に届けるようにと強く勧められ、警察に届けたそのあくる日に警察から電話がありました。

お金は西友の食品売り場の人が拾って警察に届けてくださったそうです。(チーズを食べたくなり、買いに行き、その時落とした見たいです)
正直なところ、時代が時代だけにほぼ諦めていましたが、信じるものですね。警察の窓口の方も手続きをしながらとても嬉しそうだったし、それに団子屋のおばさんたちやカフェの人たちも(その日立ち寄った先は一応尋ねて廻ったので)お金が手元に戻ったことがわかると皆、とても喜んで安心した様子でした。「世の中、捨てたものではないですね」とみんな異口同音に口にしていました。信じられる世の中を皆心のどこかで信じている、そう思いました。

お金が手元に戻ったその夜、昔一緒にテレビ番組を作った皆に誘われ、久しぶりに赤坂で会い、食事をしました。僕と星野以外は皆それぞれ会社の中で責任ある高い地位(影響力という意味においても)にある人たちです。会う前は、「久しく会ってないので会いませんか」ということだったのですが、時間が進むにつれ、皆が「譲二さんは元気だ、こんな元気だとは思わなかった」「顔も変わってない」と、それこそ異口同音に安堵した感じで話すのです。皆の様子からして、僕がこの二、三年作品を発表していないので僕の様子が心配で心配で、とにかく会って励まさなければ、という感じでこの夜集合がかかったみたいでした。

会社では恐い人たちが「あの時譲二さんに怒られた」とか「全然ほめてもらえなかった」とか子供時代の事を話すかのように懐かしく、愛をこめて一人一人が僕に話しかけるのです。皆それぞれが本気でそれぞれの場所で仕事をしてたからこそ、この夜のひとときがあるのだと思いましたが、それにしてもなんて優しい人たちなんでしょう。僕は皆の話に時折口を挟みながら笑って聞いていましたが、心の中では皆の心遣いに涙していました。

こんな皆のためにも、新作なのですね。



●2004年1月27日

橋口がよく通っていた吉祥寺のだんごの老舗「とらやかねこ」が、2月1日をもって閉店することになりました。後継者がいないための閉店だそうです。
「とらや」で何十年もだんごを焼いていらしたおばあさんは、写真集『夢』にも登場してくださいました。最後にぜひあのおだんごを食べてみてください。




●2004年1月23日

ところによっては冬の嵐に見まわれているようですが、武蔵野は良い天気が続いています。屋上から秩父や丹沢山系がくっきりと良く見えて(天気予報みたいですね。)、 寒くて冷たい外の風が心地よく肌を刺激します。僕には心地良く感じるこの寒さですが、人によっては凶器にもなることも事実です。寒さを楽しめていることをありがたいと思いつつ、冷たい空気を体に入れている今日この頃です。

先週末、横浜で二月末から始まる展覧会のための図録用のプリントを学芸員の方に手渡しましたが、その帰り道、自転車のペダルを漕ぎながら、不思議な高揚感に包まれていました。『夢』と『視線』のプリントを一枚一枚手渡しながら、その頃の感情や思いが時間の経過と共によみがえってきたのだと思います。どの作品創りも簡単ではなかっただけに、それぞれにあまずっぱい思い出があります。

ポストからその日の郵便を取り出し、新聞受けから夕刊を抜き部屋に戻り新聞を広げると、阪神淡路大震災が九年前の今日起きたことが出ていました。そして郵便物の中に、ポルトガルのマデイラ島の消印が押された絵葉書が一枚。震災の記事は夢に、視線はマデイラ島に繋がっています。あまりの偶然に鼓動が早くなり、意識的に深呼吸しました。

九年前のその日、僕は『夢』の撮影の為、当時アシスタントだった龍野と、そして鹿児島で兄夫婦と暮らしている母(その時母は82歳)の三人で宮崎と熊本の県境の山道を車で移動していて、地震のことはラジオのニュースで知りました。僕は母と離れて暮らしていることもあり、九州をロケする時はよく母と一緒に廻っていました。(さすがに今は91歳なので無理ですが、時間が許せば今でも二人でよく霧島温泉に出かけています)僕が撮影している間や写真を撮らせてもらう人を探している間は、日当たりのいい海辺で、山の中だと近くにある温泉場を探し、そこで待っていてもらいました。確かその前の日は熊本の人吉温泉に泊まった記憶です。その時僕ら三人は宿の人たちや海辺や街道筋のドライブインでは皆にどう映って居たんだろうかと思うと、今でも愉快になります。不思議で怪しい集団。お婆さんに白髪頭の僕、そしてチョンマゲ頭の龍野。しかも龍野の風貌はよくアジア系外国人に間違われます。龍野はインドでのワ―クショップの時には完全に風景に溶け込んでいました。

地震で起きた事は悲しい出来事には違いないですが、僕にとってはとても懐かしい記憶を呼び起こす九年前の出来事です。記憶は不思議です。

今思い出しましたが、熊本駅で別れる前に母さんと、龍野の三人でモスバーガ―を食べました。母にとっては初めての体験でした。そのあと母は電車で一人鹿児島に帰り、僕と龍野は長崎の島原半島に向かいました。

ポルトガルからの絵葉書のことと作品視線のことは次回に触れますが、最近霞ヶ浦の鯉や山口の鶏たちが土に埋められたり、袋づめされガスで殺されるTVの映像には胸が痛くなります。たとえ病気だとはいえ、あまりの光景だと思います。仕方がないこととはいえ、鶏や鯉はいつから人間界のものだけの存在になってしまったんでしょうか?食べられる為だけの存在。それすらまっとうさせてもらえない。この夏ドイツで子牛の頬肉のステーキを食べる機会がありましたが、素材が子牛と知らされた時、僕の隣で食べていた星野の口から「この子は何年生きたんだろうか」というつぶやきが聞こえてきました。美味しいお肉でした。僕ら人間はたの沢山の命を食べて生きている。そのことは忘れてはいけないことだと僕は思います。僕らは霞ヶ浦の鯉や山口の鶏に大きな借りを作りました。

人間界でも同じようなことが営まれているような気がします。自分たち(コミュニティー)の安全の為だけに間引く、その行為とテレビから流れ出る映像に自分自身や身近な家族のことを重ね、息を潜めている少なくない人たちの存在が気がかりです。

PS.僕らの周りの動物界や人間との境界線のことは、星野が「逆襲」というタイトルで『一冊の本』(朝日新聞社)2003年7月号に寄稿しています。興味のある方は是非バックナンバーを探してみて下さい。



●2004年1月5日

いい天気が続いていますね。
この夏屋上で育てていたトマトは今部屋のなかで立派に実をつけています。
同じように屋上で育てていた芽キャベツは、鳥たちに食べられてしまいました。
残念ですが仕方ないですね。

この正月の間に、たまりにたまってしまった事務的な作業やプリント作業をやるつもりでいましたが
かたづいたのはほんのごくわずかで、
不義理の山はそのまま残ってしまいました。
もう二年前から持ち越しているものもあります。
ただため息ばかりの正月でした。
なんとかせねば、なんとかせねばと思いつつ、今年も始まりました。
この春には皆さんにいい報告がいくつか出来るかと思います。
今年も宜しくお願いします。



●2003年12月25日

報告にもあるように、京都精華大学でのワークショップの報告会に星野と出席してきました。

報告展は僕らの想像以上にしっかりした内容の展示に仕上がっていて、ドイツの皆にも見せたかったです。
きっと彼らも自分自身を再発見する手がかりを手にするにに違いない、そう思える程の展示でした。
カールにも見せたかった。

三人が知恵を出し合い、想像力を働かせ、そして沢山の労力と時間をかけて空間を造りあげたことが良く伝わってきました。
僕も星野も自分の写真展を何度も試みているので、展示空間を造り上げることがいかに大変か良く分かっているつもりです。
しかも彼女たちは自分の作品ではなく他人(表現は良くないですが)の作品の為に、全力投球をしていました。
この行為は簡単なようで、簡単ではないです。
この時期、四回生の井上さんは卒論に加えて、新人研修も重なっていたはずです。頭がさがる思いです。
井上さん、伊藤さん、宮坂さんと、偶然とはいえ出会えたことを嬉しく思います。
当たり前の事ですが、僕と星野の力には限りがあります。
それだけに嬉しいです。本当に有り難う。
三人を支えてくれた他の学生さんや、知人で大学教師の西研さん、そして筒井先生にも感謝です。

滋賀の瀬田で会った17歳は、どんな大人になりたいかと言う僕の問いに
「損得だけでものごとを判断する人間にはなりたくない」と答えました。


山形の天童市で出会った、高校を中退した17歳の三人組は、
道路沿いのファミレスで、何か注文したら?と僕がいうと、遠慮したのか、
三人で一つのポテトにコーラ一杯を分けあっていました。

日本にまだ未来はあります。

ワークショップが終わったあと学校を辞めたペーターから連絡がないのが気がかりです。
そういえば、ドイツには徴兵制度があり、ワ-クショップに参加した彼らもいずれ徴兵される日が来ます。
ドイツの軍隊は機能している軍隊だけに、彼らか戦場に立つ日がないとも限りません。
そのことを思うと気が重くなります。

気になるといえば、バンガロールのソロモンやスブラマーニはどんなクリスマスを迎えているんだろうか?

ベルリンは今雪が降っているそうです。
ベルリンで何度かクリスマスを迎えた事がありますが、クリスマスの夜街を歩いているのは、
僕みたいな外国人旅行者か、この夜をともに過ごす家族や恋人がいない人たちでした。
華やかな街角があぶりだす孤独。
メりークリスマス、メリークリスマスです。


僕自身、この一年思うようにいったこと、いかなかったことと沢山ありますが、
今こうしてこの日を迎えられていることに感謝しています。

皆さんも良いクリスマスを。




●2003年12月7日

先日大伴、福原両氏の作品のオリジナルを再度拝見し、最終終決断をしました。僕らの結論をまず、手紙にて両氏に伝えてからこのホームページにて報告させていただきます。

話は飛びますが、僕の身の回りのものが、まるで示しあわせたかのようにあいついで壊れ始めています。オーディオコンポ、CDラジカセ、オイルファンヒーター……このまま人間まで壊れていくような恐怖が時折、頭の隅をよぎります。原点に戻れという心のシグナルかもしれません。

いい話もあります。
一ヶ月程前、一人の編集者から電話がありました。初めての電話でしたが、受話器の向こうの声に聞き覚えがあり、「君はあの」、という僕の問いに,笑いながら「そうです」と、、、、、。
彼と始めて会ったのは、たしか25年程前で、その時彼はたしか高校二年生だったと記憶しています。その頃彼はすでにタバコを吸い、口ひげを生やし、いつも歳下の彼女と一緒でした。今では高校生がタバコを吸い恋人と手をつないで街を歩くことは特別なことでも何でもない、日常と化していますが、その頃は、かなり勇気と覚悟のいることだったと思います。

世の中から自分たちがどう見られているのか自覚して、吉祥寺の街を歩いていました。

その頃の僕はかなりストイックな生き方をしていたので、彼と顔をあわすことはあっても、言葉を交わすことはほとんどなかったと記憶しています。ですが、彼の視線はいつもどこかで感じていました

確か、彼は高校は卒業はしたはずです(他の人より時間はかかったようでした。)。そして鉄を使った立体を作り始めたと思います。そんな彼が20数年振りに電話をかけてきて原稿依頼をしてきたのです。彼は編集者になっていました。彼は僕のことをずっと見ていたんですね。そのことを思うと、身が引き締まると同時に、胸の中に熱いものがこみあげてきました。

数日後の朝日新聞に、南フランスのある村で、アメリカの財団のサポートを受けて活動している芸術家のことが紹介されていました。その中に、電話をかけてきてくれた彼と、同世代で同じように吉祥寺をうろうろしていた知り合いの名前をみつけました。

この二つの出来事は(あえて出来事とします)は、偶然のことではないような気がしました。どこか見えないところで、誰かが、僕にエールを送ってくれているような気がしてなりません。その見えない気持ちを大切にしていきたいと思います。

PS.
月間誌{世界」の表紙が、今月号からカラーになりました。そして今月号の特集はエイズです。
す。




●2003年11月19日

何が彼らを刺激したのか?

先の選挙やイラクへの自衛隊派遣のニュースにかき消されたことがいくつかあります。

10月末に中国、西安市の大学で起きた日本人留学生が試みた寸劇に対して、中国人学生たちが怒りの抗議活動をしたことが新聞やテレビのニュースで報じられました。抗議行動に参加した一部の人間が暴徒化し、寸劇をした学生とは異なる留学生に対し、殴るなどの暴力行動に及んだ為にことの本質がぼやけてしまった感があります。

確かに学生たちの抗議活動をいたずらに煽った中国人の存在もあつたと思いますが、寸劇を試みた留学生の安易さもさる事ながら、この事件に対する日本での受け止められ方が気になります。

表現の自由に対する文化の違い…多くの人がそう受け止めたと思います。

何が卑猥で卑猥でないかその定義は、個人によつて異なることは理解しています。そして、皆の前で裸踊りをしたいと思った留学生たちの個人の欲望も僕は否定はしません。

ですが留学生の彼らはアメリカやヨーロッパだつたら公の場で裸踊りをしたでしょうか? おそらく、しないし出来なかつたと思います。

記憶に新しいことに、大阪にある会社の人たちが社員旅行で集団買春したことが報じられました。買春の良し悪しはともかくとして、あの会社の人たちはヨーロッパやアメリカだつたら、あんなことが出来たでしょうか?

裸踊りや買春だけではありません。僕はアジアの各地を仕事柄よく移動しますが、行く先々で、日本の若い人が、その国の人を公の場でなじる光景をよく目にします。なじるにはそれなりに訳があるとは思いますが、彼らはヨーロッパやアメリカでも同じように立ち振る舞えるのでしょうか?

もう僕がなにをいいたいのかおわかりだと思います。西安の学生たちを怒らせたのは、卑猥な寸劇ではなく、アジアだから欲望を発露させてしまう、私たち日本人の中にある、アジアの国々の人たちや文化に対する、根拠のない選民意識を寸劇の裏に感じとつたから、彼らは怒ったのです。いやしめる視線を感じ取ったから、その場にいた学生たちは怒ったのです。

「屈辱の意図はなかった」と留学生の談話が新聞に出ていましたが、「意図」を感じないほど、私たち日本人の中にはアジヤの人たちにたいする、根拠の無い選民意識が潜んでいることを私たちは自覚する必要があると思います。これは、寸劇をした留学生だけの問題ではありません。

文化が違うからとかたづける前に、今一度立ち止まり考えてほしいと僕は思います。
じゃあ伝えられている寸劇が日本だつたら問題がないかというと、それもまた違うような気がします。
どんなに自由な国でもTPOが問題だと思いませんか?
最後に寸劇をやりたいと思う個人の欲望は否定していませんのでその点は誤解しないで下さい。




●2003年11月4日

次の日曜日は選挙です。

自分がいま身を置いている社会に対して責任をとれる一つが、選挙に行き、意志を示すことです。
どの党を支持するしないにかかわらず、自分の意志を伝えませんか?
どの党が勝利しようが関係なく、自分たちが見ていることを、政治家に意識させませんか?
皆が動くことでまちがいなく何かが変わります。
今度の選挙は大きな分岐点になるような気がしてなりません。
自分が動くことで何かが変わる。
たとえ変わらないまでも、なにかのきっかけにはなるはずです。
何よりも、あなた自身の中に何かが芽生えるはずです。


小さな石でも河の流れは変わります。
細い木でもそこにあることで、風の流れは変わります。
今度の日曜日だけでも、小さな木や石になってみませんか。

生きて歳を重ねていると、あの時ああしていたら、と後悔することばかりです。
小さなことの積み重ねで今の社会や自分がいます。
そして日々の出来事の大半が、自分の意志や思いとは裏腹に進み存在することばかりです。
ですが今世の中で起きていること全てだとは、いいませんが、何かに僕らは責任があると思います。
どんな小さな動きでも必ず未来に続くと僕は信じています。
だから選挙に行き、一諸に河の中の石になりませんか?

このホームページを訪れた方にお願いです。
隣にいる人に、小さな石や木にも役割があることを伝えて下さい。
自分は一人だと思っている人は、とりあえず投票所に行ってみませんか?
そこにはこれまで顔を合わすことのなかった隣近所の人たちの顔があるはずです。

それぞれの希望や未来を取り戻す、一歩にしたいです。




●2003年3月27日

気が晴れない。

こずえの先は日増しにくるおしげに燃え、目に映るもののなかに,色どりが増えているというのに,気が晴れない。
小鳥のさえずりを聞くと、あの日の朝、警報のサイレンの音に混じり聞こえてきた鳥たちの鳴き声が頭の中をこだまする。

気が晴れない。

アメリカ大使館の前で,戦争反対の声をあげる人たち。間違ってはいないが、何かが違う。私たちが向かう先は,アメリカのイラク攻撃支持表明をした、国会でないのか・・・・。日本政府ではないのか。

気が晴れない。

たとえ戦争が終わったにしても、人々の心の中に宿った恐怖が消えるのに、一体どのくらいの時間がかるのだろうか。きっと何世代にも渡るに違いない。

気が晴れない。

戦場に赴いた兵士たちの家族も不安な日々を送っているという事実。戦争をしかけたとはいえ,彼ら,アメリカやイギリスは、自分たちの手を汚しているけど、私たち日本は手を汚していない。今の私たち日本人は、ずるい。私たちも,加害者なのに。

気が晴れない。それでも日は昇り日は沈み,今日の続きの明日を私達は生きている。ニューヨークの街角で起きた、戦争反対,賛成派のデモ隊のケンカには希望を感じた。

アカデミー賞の受賞式では、俳優や監督が臆することなく,社会に向けて、戦争の悲惨さや人間の愚かさを語りかけた。アメリカの健康さと社会の中で、表現者として生きていいる人間の責任感のありようをかいまみせてくれた。
大切なことは,戦争賛成,反対ではなく、自分の意見を持つ。それだけに、宮崎監督にはあの場に居てほしかった。そして彼の持論である、善と悪でだけではない世界について語ってほしかった。

気が晴れない。

気が晴れないのは戦争のせいだけではないのに、そのことを隠している自分が今ここにいる。
そんな自分のためにポピーの花を買つた。



●2003年3月19日

 アメリカなどのイラクに対する武力攻撃に対し、日本政府は今日、「支持」の意志表明を出しました。攻撃を支持するということは、私たち日本人も戦争に加担し、殺人の共犯者になるということです。戦争の共犯者になったということを、私たちは今日自覚する必要があります。
 支持表明を出した今の日本政府を、結果として支持しているのは私たち一人一人です。その事実を今日、ここに確認したいと思います。
 私たちの政府が表明した支持に対して、心に違和感や痛みを感じる人は、必ず次の選挙に足を運びましょう。そして一人一人が自分の意志を今の政府に伝えましょう。
 今回のような方法で手に入れた自由や平和に、どれだけの価値があるのでしょうか? 今のような方法論が容認されたら、地球や人類に未来はあるのでしょうか?
 それにしても今、戦争という形でものごとが推移していますが、どんどん異質なものが排除され、ある一部の人たちにとって暮らしやすい地球や社会が形成されていっているようで、背筋が寒くなる思いがします。
 今、自分のいる場所で何とかしなくてはいけないと思います。次に排除されるのは、僕やあなたかもしれないのだから。




●2003年3月13日

 お久しぶりです。僕もやっとヨーロッパから戻ってきました。
 確か数日前の朝日新聞だったと記憶していますが、デザイナーの田名網敬一さんのデザインをイギリスのブランドが盗用し、バッグとして生産販売していた、という記事が出ていました。
 そしてそんな記憶も新しい今朝、朝日新聞の朝刊に、僕の作品『職』のコンセプトを明らかに使った写真広告が載っていました。もちろん、これは僕が撮影したものではありません。見た瞬間、またか、という思いがしました。
 確かに人も背景も異なっていますが、この広告写真ができるまでの過程で何を参考にしたのか、形ではなくコンセプトに基づいてこのスタイルを編み出した本人には、明らかにわかります。
 恐らく広告を作った側は、人と背景が異なれば何をしたっていいのだ、というでしょう。でも、果たしてそれでいいのでしょうか? コンセプトは尊重されないのでしょうか? コンセプト、は、オリジナル、という言葉に置き換えてもいいと思います。
 コンセプトを軽視する風潮が、いまの社会のいろんな場面で、私たちの価値観を壊していると僕は思います。みなさんにも考えてみていただければと思います。




橋口便り 
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