HASHIGUCHI George

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橋口便り
橋口便りバックナンバー・2(2004.12〜2005.3)

●2005年3月31日

知らず知らずの内に、疲れが溜まっていたようで、スチルムービーが終ったあと、2日間は、起き上がれずに、ひたすらゴロゴロしていました。ですが、この冬一度も風邪を引くこともなく乗り切れたのは、いい意味で緊張していたからだと思います。

この25日、誕生日おめでとうメールをもらい、誕生日にゴロゴロしていてはいけないと思い、散歩に出かけたのですが、足は自然にクロイツベルグに向かっていました。クロイツベルグに向かったのは、誰か知り合いに合える気がしたからです。アレキサンダープラッツから、一駅だけSバーンに乗り、シュプレー河を渡りクロイツベルグに向かいましたが、初めて渡る橋でした。おそらく壁があった頃には無かった橋のような気がします。

橋の袂の河縁にワーゲンブルグ(トレーラー村)を見つけ、大きな看板に「私達の生活を尊重してください」(ようは住民以外は入るなという意味)と書いてあったのですが、友達がいるかもと思い少しためらいながらも足を踏み入れたら、案の定、歯ブラシを持った大柄の女性にいきなりどなられてしまいました。昔は怒鳴り声と一緒にビール瓶や空き缶が飛んで来たのですが、声だけで良かったです。そして早く出て行けと手で追われたのですが、友達を探していることを伝えると、「私たちが住み始めたのは3年前からだから、10年前の人たちは知らない、」と和やかに話してくれて、そして1キロ先にもワーゲンブルグが在ることを教えてくれました。話しながら周りの様子を伺うと、トレラーの横にTVの衛星アンテナが眼に入ってきました。TVのアンテナがあるという事はどこかにか発電機も有るはず。

10年前はロウソクとランプの生活でしたが、生活が向上したというより、意識の違う人たちが出現したようです。どういう経緯で彼女たちが住み始めたのかわからないけど、トレーラー村は、早い話、空き地に勝手に住み着いた人たちの集まりで、勝手をいいかえると不法ということです。不法に住み着き、「リスペクト」の看板を掲げるところが凄いです。しかもTVの衛星アンテナまで。いつかゆっくり彼女たちとも話をしてみたいと思いながら、別なワーゲンブルグを訪ねることにしました。



●2005年3月23日

ベルリンはこのところ雨の日が多くなりました。
一雨ごとに春が近づいているようです。

昨夜ベルリン最初のスチルムービーを盛況のうちに終えることが出来ました。いくつか未消化の問題を抱えつつも、とりあえずの一歩は踏み出せたのではないかと思います。集客の方も、大使館の文化ホールということもあり、公に呼びかけたわけでは無かったのですが、文化広報部の方がたの頑張りのおかで、イースターの休み前にも関わらず、100人近い人が足を運んでくださいました。

反応も悪くなかったと思います。朗読の内容によっては、会場に笑いが広がったり、背中越しにですが、熱い感情の波の広がりも感じることが出来ました。

リーフレットにも書きましたが、スチルムービーで映し出される映像や言葉は日本の現在ですが、そこで語られている内容は、国籍や人種、宗教、文化に関係なく普遍的に存在する人間の営みの中で生まれる思いや感情です。

そんな僕の思いが、昨夜は届いたことを体感したひと時でした。

もちろんその裏には沢山の人たちの助けがあったのも事実です。僕の仕事の周辺で動いている、さまざまな動きや、存在にたいして、想像力を失うことなくこれからも生きて行きたいと思います。本当に有難うございました。



●2005年3月20日

気温の変化に合わせて、部屋のヒーターが2日ほど前から止まりました。それに線路の脇や日当たりのいい場所に、色とりどりのクロッカスが顔をのぞかせ、小鳥たちのさえずりもどことなく楽しそうです。そろそろ長い冬が終り、季節が動き初めたようです。会う人ごとに「今年の冬は寒くて長かった」と口にしていますが、僕は緊張していたせいか、あっという間だった気がします。

昨夜イッセー尾形さんの一人芝居を見てきました。僕とイッセーさんは、そんなに親しいというわけではありませんが、互いに仕事や作品を認め合っている関係で、特にお喋りをしなくてもお芝居をみれば今どんな状況なのか、分かり会える関係です。そして上演が終わったあと、関係者一同深夜1時過ぎまで食事をしながら、お喋りを楽しんだのですが、この夜も関係者の国籍はさまざまでした。

和気あいあいな一時が過ぎていく中で、一か所だけシリアスな雰囲気が流れていたところがあり、演出家と音楽家の二人が、内容について話あっていました。話しあうというより、演出家が今夜の演奏で気になったところを、明日の昼の公演の時には修正して欲しいと要望していました。

勿論、和気あいあいで済むような話ではないし、音楽家にしても簡単に分かったと(時間的にも)受け入れられる様なことではないのです。しかも音楽家もイッセーさん同様、この道数10年で、社会的な評価も高い人たちですから当然というか緊張した空気が流れていました。聞くと、今日の本番直前にも、新しい演目が用意されたらしく、当然その時にも音楽家との間に、しばし緊張(演奏はもうしないというとこまでいったそうです)した時間があったそうです。しかも本番3、4時間前に。場関係者のハラハラ、オロオロした顔が浮かんできそうです。

修正は良くあることですが、そのことがいいとか悪いとかではなく、30年間も表現の現場にいる人の、厳しさをかいま見せてまらった気分です。日々変化し勝負してきたからこそ、時代の変化に関係なく、ステージに立ち続けられて来たのだと思います。演出家いわく「お客さんは、妥協した場所はすぐみぬくよ」と。

多くの人は、途中で面倒になり、すぐ笑うのですが表現の現場で笑うことは、ある意味、責任を放棄したことのにも繋がりかねないからです。演出家は僕より10歳年上ですが、「要領良く」という言葉とは、どうも無縁のようだし、パンキッシュだと思いました。

昨夜は、久しぶりにイッセーさんのお芝居に触れたのも嬉しかったし、その日の音楽家の一人のお父さんは、映画「ベルリン天使」に出てきた天使の一人で、その方ともテーブルを一緒できたのも、嬉しいことの一っでしたが、演出家の不恰好な生き方に触れることが出来たのは何よりでした。2日後にせまった、ベルリン最初のスチルムービーに望むにあたって、いい勉強になりました。

別れ際に演出家に「橋口さん、なんでもいいからイッセイの写真を撮ってあげてよ」と頼まれてしまいましたが、僕は今回ベルリンにはカメラは一台しか持って来てないので、どうしようという感じですが、何とかしなくてはなりません。



●2005年3月14日

日記が少し空いてしまいました。

ベルリンは日増しに春めいてきていますが、それでも毎日、雪がちらついています。(でも今は手袋なしで、昼間は歩けるほど暖かいです)

先日、朗読者のオーディションを開きました。集まって来てくださったのは、ちょうど10人でした。呼びかけたのが映画関係やお芝居、音楽関係者だったために、思いのほかベテラン(年齢ではなく、経験という意味において)の方が多かったです。
参加者の中には22日(本番)の日に映画の撮影が入っているけど、次回にぜひ読みたいのでオーデションに来たという背の高さが2メートルぐらいの男性もいました。(とにかく足が長い、ただため息)
普通オーディションは一人一人、部屋の入って来てもらい試みますが、僕は全員一緒に聞いてもらいました。

オーディションの方法ですが、事前に僕がセレクトした10人ぐらいの朗読原稿をそれぞれの参加者に預けていたので、その中から読みたい人を選んでもらい、そしてなぜこの人のテキストを選んだのか、その理由を最初に読む前に一人一人に感想を述べてもらいました。

テキストの内容は日本人のモノローグですが、どこまで自分自身の今に置き換えられるか知りたかったからです。難しくいうとどこまで読みてが、行間を咀嚼できるかにつきるからです。

始めてみて驚いたのが、個々の持つ能力の高さでした。そして個性豊かな表現力。

オーディションが進む中で僕は、この人が読んだらどうなるんだろうか?と想像しながら耳を傾けるわけですが、片方ではメモをとる作業もあります。ですがやはり両方の作業を同時にこなすのには無理があり、ほとんどメモをとることはできませんでした。(この内容は後日手伝いのドイツ人のメモと僕の記憶をたよりに報告をします)

オーディションが進むにつれ、個性豊かな読みは、時としてテキストの内容が消えてしまうことになりかねない。という不安が芽生えてきました。難しいです。オペラ歌手の声量のすごさには驚かされました。人間のもつ可能性はやはり凄いです。

そしてもっと悩ましい問題は、朗読者の能力が高ければそれでいいのかというと、そうでもないのです。個性どうようにテキストに込められている感情や心の揺れが消えかねないからです。

僕の下手な写真が飽きられない理由もそこにあります。うまい写真は技術が見え過ぎて時として物事の本質が消えてしまうからです。難しいです。

朗読力とは関係ないことですが、参加者の半分ぐらいの人が、毛玉のついたせーターや、縫い目の糸がふぉつれたシャッを着ている人もいて、心情としては皆にチャンスをという気持ちでした。またそうしたいと考えています。

スチルムービーは公演には違いありませんが、コンサートや興行とは異なるからです。面倒ですが出来るだけ音楽も含めて、そのつど人を選び造り上げたいと考えています。

そして、ほつれたシャツについつい自分のこれまでの人生を重ねてしまいました。

外からみたら僕の生活がどう映っているかわかりませんが、沢山の作品があるということは、そのことはすなわち日常の殆どのエネルギーを作品づくりに費やして来たことの他にありません。

ほつれたシャツを着ている人は、僕そのものなのです。(つづく)



●2005年2月25日

先週末、ウンターデンリンデンにある、オペラハウスのプレミヤに招待され出かけて来ました。 演目は古典ではなくコンテンポラリーダンスを交えたもので、改めて表現の持つ可能性の凄さに驚くと同時に、正直なところ、こういうレベルのものが日常にある国で表現を試みることが怖くなりました。(終演後30分間拍手が鳴り止みませんでした。ですが同じ演目をフランスで上演した時には、オペラに対する思いの違いなのか、ブーイングも凄かったそうです。おもしろいです。)

そして幸運なことに、上演終了後に、音楽監督、演出家、そして出演者全員(オーケストラの人たちも)交えての内輪の食事会に招待していただきました。(とてもくだけていて、カラオケあり、ダンスありで、皆がこの日のために何ヶ月も時間をかけて力をあわせてきたことが良く伝わって来たことを、うかがい知ることが出来たひと時でした。芸のない僕はただひたすら食べてばっかしでしたが。ただうれしかったのは、歌手の一人がサクラサクラを日本語で歌ってくれたことです)

そして現場関係者はドイツ人でしたが、それ以外の役者、ダンサー、歌手、音楽監督、の国籍はさまざまで、文化(表現)の理想の形というか、文化にしか出来ない、文化だからこそ成り立つコミニティーに触れさせてもらいました。ダンスの人たちはチームですが、オーケストラの人や歌手の人たちはこのオペラのために集められた人たちだそうです。数日後には皆それぞれの場所に帰って行くわけですが、切ない関係のなかでの時間の過ごし方に、心騒ぐものがありました。

そして僕が朗読者を探していることを伝えると、この中から選べばと気軽に提案してくださいました。 ですが、僕は出来上がった人よりもこれからの人(予算の問題だけではなく、僕と関わることで、可能生を広げてもらいたいとの趣旨を話ました)を探していることを、伝えると旧東の演劇学校(Erest Bush)を紹介してもらえました。統一後も東西は分かれたままだそうです。 そういえば先日お会いした美術館の責任者も旧西地区の名刺でした。

東の演劇学校を推薦してくださった理由は、旧西は個性重視だけど旧東は基礎学習を大切にしていて、そのかわり在学中にどんどん外に出す方針で、個性は外での考えだそうです。 昨夜の演出家は旧西の人ですが、西では個性を重視するあまり、学生が壁にあたるとすぐ「個性」という囲いに逃げやすい。ある種無責任な関係が生まれている(学校、生徒の関係)とのことでした。 この説明には考えさせられました。このことは日本の現在にも繋がることだからです。

本来ならここから話は深まるのですが、今の僕の語学力ではここまででしか話せませんでした。

そして僕の滞在が一年間だ分かると、周囲の皆の顔が晴れやかになり、「なんか一緒に出来るかもね」とうなずきあっていました。 でもこの日の多くの人はだいたい2年ぐらい先まで予定が入っているそうです。いろんな人とかかわり、関わることで生まれる何かを探るとなると、一年なんて短い時間です。それでも滞在2ヶ月目で、僕は幸運なことに周りの人がこうした出会いを演出してくださり、表現の世界で勝負している、いろんな方と知り合えることが出来ているので、ありがたいです。

自分のことに戻りますが、先週末にリーフレット並びに、プレス様の原稿が仕上がり、今大使館の方にレイアウトのダミーを製作していただいているところです。

そしてスチルムービーの最初のお披露目は3月22日に決まりました。朗読者のオーデションは10日に開きます。今べルリンは映画際のために、新たに始める、映画祭以外のことがストップしているためです。

そして最初に朗読者に名乗り出た学生ですが、原稿を読み自分のレベルを超えていると判断して、辞退してきました。その代わり映画、演劇、オペラを勉強をしている人に働きかけることと、スチルムービーの裏方として手伝わせて欲しいと申し出てくれました。 有り難いです。 今日現役の30代の女優さんが一人名乗り出てくださいました。有り難いです。

スチルムービーの音楽の構成が半分固まったそうです。(チェリストの方から構成案を聞き納得をしました)



●2005年2月23日

このところ食事が不規則になり、この3、4日ほとんどまともに食事をしてないことに気が付きました。これまでは健康のことや、生活費のことを考えてきちんと自炊をしていたのですが、少し生活が不規則になって来たようです。

ベルリンの滞在時間が増えるにしたがい、やらなければいけないことがどんどん増えてきています。大使館の方たちが手伝ってくださっているとはいえ、基本は一人での作業ですから、何をやるにしても時間がかかっていて、ついつい食事をすることを忘れる日が増えています。僕がベルリンに来たことで、大使館の方たちの作業が確実に増えています。申し訳ないと思いつつ有り難いです。

それにスチルムービーの骨格が固まり始めていることもあり、大使館の近くのポツダマプー・ラッツで人と打ち合わせをすることが多くなったのはいいのですが、ベルリンの中心だけに、物価が高くて驚いています。僕が今住んでいるところは、カプチーノにチョコクロワッサンを食べても2ユーロしないのに、ポツダム広場の周辺ではすぐ、10ユーロ近くなります。やはり都会は怖いです。

この数日ベルリンは雪で夜歩くのがとても楽しいのですが、昨夜は電話を借りに知人の家に向かったまでは良かったのですが、雪に方向感覚を奪われてしまい、同じエリアを一時間以上もグルグル迷ってしまいました。街路樹やカフェの灯りが雪を照らしてとても綺麗なんですが、歩きすぎて棒のようになった足を引きずりながら、ユジンがいれば迷うのも楽しいのにと思いながら半分ベソかいて、強く生きなきゃと、ブツブツとつぶやきながら真夜中歩いていました。ベルリンは一人ごとをブツブツつぶやきながら歩いている人が多いのです。不気味ですけど、親しみが持てます。

ベルリンに来て何が変わったかというと、とにかくよく歩くので、脹脛や太ももに筋肉がつき、下半身が昔テニスをやっていた時みたいに逞しくなったことです。



●2005年2月13日

今日からベルリンは映画祭が始まります。今日知ったのですがホテルボゴタも映画祭に協賛していて、映画祭の期間中部屋を、映画関係者に無料で数室提供しているそうです。そのことを知り嬉しくなりました。

今電話の引けるアパートを、無名の写真家に手伝ってもらい探していますが、思いは同じなのか、安い部屋、安い部屋の情報を届けて来てくれています。ですが、旧東で安い部屋となると問題があって当然なので、僕は勉強や作品を作りにきているのではないので、ある程度快適な空間が必要なんだとそのつど説明するのですが、必ず水周り、トイレ周りに問題がある部屋ばかりに案内されています。ベルリンでは借りるアパ−トでも、自分で手を入れてかまわないので、彼の認識としては借りてから少しずつ壁を塗りなおし、修理すればいいじゃないかという意見なようです。

この数日、日本からいいニュースと悪いというか非常にデリケートな問題が届きました。

いい話は、今年直木賞を受賞した角田光代さんを星野が「オール読物」の依頼で撮り下ろしたそうです。発売は2月22日の号です。これはとても記念すべきことです。生まれて初めて星野は写真家として撮影にのぞんだからです。星野フリークの方はコレクションされることを勧めます。

そしてデリケートな話は二つあり、ひとつはあまり生産的ではないので後日にしますが、すでに新聞等でご存知の方も多いかと思いますが、僕がディレクションしている雑誌「世界」のグラビヤの写真が肖像権の問題で表にでないことになりました。

いろいろと憶測が飛び交っているようですが、「世界」は承知のとおりとてもリベラルな雑誌です。日和見主義的な論調やさしさわりない雑誌が多い中で、いつも変わらず異論(正論)を唱え続けて来ている雑誌です。そして文字どおり編集部員は絶えず身の危険を感じながら表現の自由を実践して来ている雑誌です。編集長を初め、編集部員の日々の格闘をたえず目の当たりにしていただけに、発売中止、差し替えの報告を編集長から電話で知らされた時には、余程の判断を僕はされたのだと思い、心の隅にはモヤモヤが残りましたが、僕は編集長の判断を支持しました。

と同時に写真家のやりどころのない気持を想像すると、心が張り裂けそうな程ヒリヒリしています。そのヒリヒリは時間が過ぎるにつけ僕の中で増殖しています。なぜなら僕も作品「視線」で同じ思いをしているからです。正直、僕はあの時人間の一部が壊れました。壊れたものは修復した面もあれば、時折まだ夢に出てきます。

今回作品を発表出来なかった彼とまだ一度も面識はありませんが、出来るだけ早く会って言葉を交わさなければと思っています。ですが、そのヒリヒリを引きずりながらも、僕は編集長の判断を支持したいと思います。

僕の写真(表現)に対する考えを述べます。

僕は人間(個人)の人権を超えた表現の自由はないと認識しています。今回の作品がそれでは人権を無視していたのかというと、そうではありません。今回の作品は人権を侵していないと僕は判断しました。そのことは今でも変わらず僕の心の中にあります。僕は、難しい面もあるけど、きちんとした作品だから掲載させてもらうことにしました。 編集部も編集長も同じ思いだったとおもいます。ですから印刷機に写真はのり、製本されたわけです。

ですが、出来上がった雑誌をみて、これは難しいと判断した人が出て来た時、編集長は立ち止まられたのだと思います。僕が先に「難しい」と書いたのは、被写体になった人が写真家を拒否できる状況でないところで作品が作られていたからです。僕はことの経緯はよく分かりませんが、おそらく編集長もそこを指摘されたのだろうと思います。ですがそこにこの作品の意味(力、強さ、普遍性)もあったのも事実です。

写真は対象がなんであれ、対象との関係ででしか作品は成立しません。関係性をお金で買う人もいるでしょうし、撮り逃げする人もいるでしょうし、さまざまな関係が一枚の写真には写しこまれています。僕自身もそうですが、他の作品を選んでいる時の最初の基準は写真家と対象との関係、距離を一番問題にします。

以前、関西在住の津田明氏の路上の作品を「世界」に二度に渡り掲載させてもらったことがあります。その時もセレクションの時点で肖像権や人権の問題が出てきましたが、僕はその時、津田氏は対象者に、殴られてもしかたがないところに身を置きシャッターを押している、そこには第三者には分からない、被写体と写真家の関係性が写しこまれているから、石が飛んで来ても僕は受け止められると、判断したことがあります。

そして今回問題になった作品は朝の通勤ラッシュのドア越しに写る人びとの表情です。決して嘲笑や悪意はなく、写真家はシャッターを押していることが良く伝わる作品でした。

ですが電車の中の人は彼(写真家)に意思表示したくても出来ない状況下での作品になっています。写真に関しての問題はこの一点です。この立ち位置をどうとるかだろうと思います。作家自身は表現するのに、選んだ立ち位置です。「世界」とは関係なくこの作品の生かせ方がある様にも思います。

表現の自由、報道の自由を良く口にする人たちがいます。僕は自由が叫ばれている割には、「自由」が論議されないまま今日を迎えているような気もします。

そしてこれはとても微妙な問題なのですが、写真家や表現者が「自由」を口にする時、気をつけなければならないのは、今のアメリカのブッシュ大統領が自分たちの考える、民主、自由を他国に押し付けている現状と同じ立ち位置になりかねない要素を含み持っていることです。このことはとても難しい問題です。「自由」を口にした時、それにより生まれる痛みの共有。このことは作家と被写体の両者にしか分かりえないことです。僕自身、普通の人を対象に作品を制作しているので、写真を撮れば撮るほど「自由」を軽々しく叫べない自分がいます。それが表現者として僕の限界なのかもしれません。難しい。

「世界」のグラビヤは公募作品です。主催者側の逃げとして、公募規定に写真の責任は全て作者にあり、雑誌側にはありませんと、明記する方法もあるかもしれませんが、僕はそれも違うような気がします。難しいです。でも確かなことは、簡単に「自由」を叫ぶのではなく、こうして悶え苦しみながら続けるしかないような気がします。

僕は今の「世界」編集部の人たちが今どんな心境ににあるのか、想像するだけで胸が張り裂けそうです。勿論表現の価値観は他人に強制されるようなものではないし、してはいけないことです。そのために「世界」の人たちは日夜身を危険にさらしながら、闘い続けている人たちです。そういう人たちが選んだ選択だけに、僕は素直に電話で報告を聞きました。

「世界」の今度の問題とは別に考えて欲しいのですが、個人の表現は自由です。ですがそれを公の場を使い発表する時には、またそこには別な論理が成立します。僕自身「視線」が発売中止になった時、版元の覚悟のなさや言論、出版にたずさわる覚悟がどうのといろいろ考え愚痴り、錯乱もしました。しかも今回のケースと異なり、作品「視線」では僕が登場する少年少女の人格、人権を侵していると僕は版元に指摘されました。発売が中止になった事実より、橋口は、被写体の人格、人権を侵していると指摘されたことは、僕にとっては死刑にも等しい宣告でした。だから精神が壊れたのだと思います。

その一方、時がたち今冷静に考えると、僕に表現する自由があるように、版元には版元の姿勢があります。版元がいかに日和見主義であったとしても、僕に彼らを非難する権利はない、ということに気づきました。それが彼らの生き方だからです。自由社会にはいろんな価値観があるということです。

話を「世界」に戻します。僕は「世界」が日和見主義だとは思わないし、事実彼らは巨大な闇と闘っています。そういう人たちだから今度の件は表現の自由を口にする人たち以上に真摯に受け止めていると僕は思います。作家同様に心のダメージは大きいと僕は想像します。もちろんグラビヤの責任者として僕も今度のことを重たく受け止めています。

トラムに乗り、家路につく時、必ずまだ会ったことのない作家のことを思い浮かべては、ため息の毎日です。
ですが、この報告を電話で受けた時に僕は「この先も当たりさわりの無い作品を選ぶつもりはありませので」
といいました。編集長も「そうしてください」と答えてくださいました。

大切なことは、今回の事実は事実として持続し続けることだと、僕は思います。

今度の岩波の判断が良かったとか悪かったとかではなく、どうぞこのホームページを覗かれた方は表現の自由って何なのか?と考えて欲しいです。100人いれば100の自由があるはずです。大切なことは、非難することではなく考えることだと思います。自分の日常に今回の「世界」の問題を置き換えてみてください。そうすることで、又違う側面が見えてくるかもしれません。またそうして欲しいです。

いきなり飛びます。今日朗読者のオーデションようのテキストをベルリン自由大学の学生に手渡すことが出来ました。また少し前進です。

それから「子供たちの時間」に登場してくれた子(子といったら怒られそうですが)がいま、ロンドンで勉強をしていて、楽しいメールを英文で送ってきます。メールが来るたびに夢ややりたいことが変わっていて、羨ましいというか、大切なことはこうして迷うことだなと彼女のメールを読んで、嫉妬しています。



●2005年2月7日

続きです。
初めにギャラリーの建物の形を説明すると、アルファベットのUの字が、角ばって逆さになっていると想像してもらうと分かりやすいです。そしてUの半分がギャラリーとして使用されています。半分といっても壁面積は、東京都写真美術館一階ホールとほぼ同じぐらいです。そしてただ広いのではなく、部屋がデコボコしているのと、部屋と部屋の間には、二段ほどの階段があり、さらに地下室もあるので、作品が壁を埋めていても、全然疲れないのが素晴らしいです。そしてこのギャラリーは個人の経営です。(いい意味で驚きました)

この夜はLUMASがコレクションしている作家の作品が壁一面を埋めていました。それぞれ作品の横には値段がついていてほとんどが100ユーロ前後でした。正直とても低い価格です。だからといって作品のレベルや仕上げが乱暴かというとそうではなく、スタイリッシュでかつ完璧な仕上げでした。そして三人ほどドキドキする作品がありました。ただ作品の傾向として今日本でも(おそらく世界的な傾向だと思いますが)市場をにぎわせている写真とにた感じの作品が大半でしたが、バランスよく昔の写真家の作品も並べてありました。

この日は会場の三箇所で写真集の販売もしていて、僕に最初に声をかけてくれた彼女も、昨夜とは又違い、写真家ではなく、ギャラリースタッフとして、お客の対応や写真集の販売をしていました。この意識の切り替えも素敵です。

そしてまずこの日、印象的だったのが、ギャラリーを訪れている人たちの層です。昨夜は写真関係者が大半でしたが今日は普通の人たちでした。日本人の姿も数人見かけました。そしてこの夜もギャラリーの入り口で、ワインなどの販売をしていました。

この夜、僕はLUMASの二人のデレクターと話をすることができました。二人とも40代の女性です。話ができたというより、最初に会った彼女がセッティングしてくれたのですが。(彼女の名前は知っているのですが、うまく舌がまわらず発音できなく、いまでもアーウーです。)僕の語学力ですから、深い話はできませんでしたが、このギャラリーのポリシーは良く理解できたしとても共感をしました。まず今夜のように深夜の12時近くまでギャラリーを開いているのは、場所柄、観光客や映画や、お芝居をみた帰りの人が多いのと、普通に働いていると、中々昼間ギャラリーに足を運べない人が大半なので、時々土曜日の夜こうして遅くまで、やっているのだそうです。(これが官と民の違いですね)

そして値段を安くしているのは、資金力の無い若い人たちにも、写真を好きになり、コレクションしてほしいからだとのことでした。写真文化の裾野を広げようという試みです。これは今ニューヨークや上海で起きている、写真が投機の対象になっていることの対極にある行為だと思い、僕は共感をしました。別に自由社会ですから投機が悪いわけではなく、個人の生き方の問題で、どちらを選ぶかということですので誤解はしないでください。

画家の奈良美智さんか、村上隆さんのどちらかだったと思いますが「好きで買った絵を高くなったからすぐ転売する感覚が僕には分からない」と作家の戸惑いをどこかで読んだことがありますが、その通りだと僕も思います。

話は少し飛びますが、僕の作品を美術館以外にコレクションして下さっている普通の一般人の人たちが山形の新庄市にいらっしゃいます。まだ数件ですが一家に一点から、二点コレクションしていて下さっていて、「僕が死んだら、各家から持ち寄って写真展を開いてください」と話してあります。心温まる人たちです。新庄の人たちの不満は僕がお酒がのめないこと、その一点です。新作を発表していないのもあるかな?

話は戻りますが、僕はこの数年のベルリンの特に写真のレベルの質の変化に驚いていることを伝えると「インターネットで皆外の世界と繋がったから」という答えが返ってきました。そしてハシグチもホームページで作品をみれるのかと聞かれましたが「字だけだ」というと怪訝な顔をされてしまいました。なぜ僕がホームページで作品を載せないかは、なさけないことに今の僕の語学力では、説明できないので、半年後に話すそうと提案をしたら、「私たちが通訳を用意するから、早く話をしたい、通訳は道具だからいいだろう」といわれてしまいました。おもしろいです。

僕のホームページをどのくらい写真家が覗いているか分かりませんが、作品のある人はLUMASとコンタクトをとることを薦めます。僕が白髪頭ということもありますが、LUMASUは作品さえあれば有名、無名に関係なく対応してくれます。特に若い人には外の世界に出ることを薦めます。

寺山修二ではありませんが、作品を持って外に出ましょう。その気がある人はLUMASU自分で探してください。

スチルムービーのチェリストの方がOKをくださいました。

金曜日に、知人の引越しを手伝いましたが、一番働いていたのは、知人の元彼だったのがとても印象てきでした。元彼は写真家でまだ世間に評価はされていませんが、僕はとても彼のことが気にいりました。

今夜はバンぜー(湖)の近くのホームコンサートに呼ばれていて、又でかけます。遊んでばっかしだと思われるでしょうが、なんと続けていいか分かりませんが、出かけてきます。

今日のベルリンは晴天です。                二月  五日



●2005年2月1日

今週から忙しくなるので、昨夜のことを続けます。

昨夜メールを届けた後に、ギャラリーに向かったのが夜の10時過ぎでした。トラム(市内を走るチンチン電車)に乗り、ギャラリーのある、ハッケシャー・マルクトに着いたのがちょうど11時頃でした。少し遅くなったかなと思いながらギャラリーに向かうと、ギャラリーは夜11時にもかかわらず、沢山の人でにぎわっていました。

ハッケシャー・マルクトは戦前最も賑やったエリアで、近くに大きなシナゴーグ(ユダヤ教会)もあります。そして今また戦前の賑わいが戻ってきているようで、沢山のカフェにレストラン、劇場、映画館、ギャラリー、ブティックが続々とオープンしています。統一した頃は、ただ薄暗い煤けた建物街でしたが、その変貌ぶりに驚いています。

建物や中庭の入り口に、幾重にも重ねて張られたポスターが、街角に憂いをもたらしています。ポスターは人間が歩くリズムに一番あった広報手段だと思うだけに、インターネット社会にも拘らず、壁文化が大切にされているのも嬉しい限りです。

変貌といっても、近代建築の発表会みたいな、ポツダム広場とは異なり、もともとの街並を生かしての再生ですから、エリア一帯を包む空気はとても柔らかく、ただ散歩していても楽しく気持が柔らかくなるので僕はベルリンでも好きなエリアの一つです。それにたとえば、ポケットに500円しかなくても、それでも食事を出来るところが沢山あるので安心です。散歩もいいですが、僕は夕方フリードリッヒ街駅からトラムM1番に乗り、車窓のハッケシャー・マルクト街を眺めるのが今一番気にいっています。

先の戦争で、爆撃されたままの状態で残っているタへレスも同じ通り沿いにあり、今は若い芸術家が集まり、住み、独特なライフスタイルというか、表現活動をしています。そして、タヘレスは今や観光客や若いアーチストたちにとっては、メッカみたいな存在になっているようです。タヘレスの建物は戦前はユダヤ系ドイツ人の経営する、大きなデパートでした。

1890年代から1900年代の初めにかけては、このエリアは、パリやニユーヨークに飽きた自由人や、画家のツェレや、政治集団スパルタカスが、夜な夜な徘徊していたエリアで、当時の記録を読むと「共産主義者に、犯罪者に、怪しげなユダヤ人とありとあらゆる人たちが蠢いていたと」あります。ユダヤ人を差別していると受けとられたくないので、少し補足しますが、キリスト教社会では、お金や動物を扱う人たちを差別しているところがあります。自分たちの暮らしに必要不可欠なものにも拘らず、享受はするけど、自分たちの手を汚すのは嫌だというところでしょうか?(日本社会にある差別構造と似たところがあると思います)。それから当時は怪しい、理解不可能=ユダヤ人という短絡的な思考が支配していたようです。

ベルリンの歴史と文化を多面的的に深く知りたい人は、平井正著のベルリン3部作(読むのに覚悟がいる本です)、 それから平井先生の、ナチ時代にベルリン・オリンピックの映画や、戦後ヌバの写真を撮ったことで有名なレネ・リーフェンシュタール論は一読を薦めます。彼女(あるいはヒットラー)の中に存在した美に対する価値観はいまでも、根強くドイツ人の中に残っています。その上でドイツの現代美術(写真を含めてです)を見ると、また異なる面が見えてくると思います。

ただ教養を深めたい人は、海野弘の「四都市物語」を薦めます。「自由」という答えのない世界に沈みたい人は、橋口譲二の「ベルリン物語」。(つい最近も表現が稚拙だと非難されました。本当なのでなさけないです)

かなり遠回りしましたが、元に戻ります。
ギャラリーの名前はLUMASといい、ラテン語で光の束と言う意味です。最初散歩の途中にこのギャラリーを見つけた時には、ガスラ窓越しに見える中の佇まいが重厚な上に、あまりにオシャレなので、お金持ち相手のインテリアショップか洋服屋かなと、思った程です。(前回、ドイツは階級社会と書きましたが、特に看板にクラス分けがされているわけではありませんが、お店やレストランの持つ雰囲気が、自然にお客を選んでいます。)し、気持を引くものがありましたが、辞書を引いて見ると、「光の束」とあり、これは写真に関係あるところだと思い、エイヤーでドアを開けました。
                                          
また時間がなくなったのでこの先はまたこの次に。



●2005年1月31日

昨夜、ベルリン初めてのオープニングレセプションに出席してきました。

正直なところ、グループ展とはいえ、個々のプレゼンテーションの仕方の質の高さに驚かされました。そしてグループ展=若い人たちという先入感が僕の中にあったようで、作家の大半が30代でそれぞれ20代、30代、40代、そして中心の先生(大学)が僕と同世代の方でした。

特別、眼を引く作品はありませんでしたが、プリント、個々の作品力もある水準以上のものはあったと思います。作品はランドスケープもあれば、ニューカラー、にモノクロのポートレート。街のスナップと人それぞれで、中心の先生が個々のオリジナル(個性)を大切にされていることを、うかがい知ることができました。

そして何より嫉妬したのは、会場の広さと、設備でした。会場のところどころに干し草が積んであり、疲れた人は干し草を椅子代わりにして休めるようにデコレーションしてありました。

そして考えさせられたのは、オープニングのシステムでした。会場の入り口に、ビール、ワイン、水が用意してあり、必要な人はお金を出して買うようになっていました。値段は高くて、一ユーロ六十セントでした。作家はもちろん、会場に来た人それぞれが飲みたい人は、お金をだしてどうぞという感じです。このさりげないシステムに、この国の文化の質の高さを感じます。あるいはこのグループの先生のポリシーかも知れません。
僕は初めてということもあり、緊張もしていたと思いますが、買う余裕がなく何も飲みませんでしたが、僕のようにただ写真を見ている人も沢山いました。

考えさせられたと書きましたが、実は僕はこれまで沢山の写真展を開いてきています。そしてそのつどオープニングパーティーを開いて来ました。最初こそ自分のお金で開いてきましたが、有り難いことに2度目からは、写真展にかかる費用、全てにスポンサーがついてくださり、オープニングも、かなり贅沢なパーティーをやって来ていました。(オープニングパーティーにもスポンサーが着いていました。)恥ずかしいことですが、心のどこかで感覚が麻痺していたようです。そして作品とは別なところで力や立場を誇示していた自分がいたことに昨夜気づかされました。僕は井の中の蛙になりかけていたようです。

実は僕は写真家なので、今回の交流使の仕事を引き受けるにあたって、当初はかなり写真展を開くことに拘りました。ただ幸いというか、準備の時点で半月程、時間をロスしてしまい、考え方というか、仕事の取り組み方を昨年秋に変更しました。今準備をしているスチルムービーを、これから一年かけて欧州各地で開き、その間に自分の力で関係の出来たところで、写真展を開いていく。簡単ではないでしょうが、やってみるつもりです。

スチルムービーや、僕のベルリンでの生活に関して何かと心を砕いてくださってる、大使館の方が昨年秋に打ち合わせにベルリンに立ち寄ったさいに、写真展に関してある提案もしてくださいました。今ベルリンの中心で日本の縄文展が開かれていますが、その同じ会場の2階で、同時期での写真展の開催を提案してくださいました。

その提案を受けたとすると、開催まで残された時間は2ヶ月しかありませんでした。2ヶ月という時間は物理的にやってやれない時間ではなかったと思います。ある意味大きなチャンスですし、おそらく縄文展がなければ、僕の作品展がそこで二度と開けないような格式の高い(ドイツは階級社会ですから)場所でしたが、僕は写真展に執着せずに、とりあえず自分の力でできるところから、始めることを選びましたが、昨夜その選択は間違っていなかったと改めてそう思いました。語学は勿論ですが、勉強をしなければならないことが沢山ありそうです。

それにしてもドイツ人は皆背が高い。昨夜はガリバーの国に来た気分でした。僕を誘ってくれた彼女もおそらく177、8あると思いました。昨夜僕と話をする時には、少し前かがみになっていましたから。写真を生活の中心に置ける環境の人と、背の高さ(骨格の大きさ)は関係あるのかも知れません。

今夜も街の中心でパーティーがあります。頑張って出かけて見るつもりです。街の中心と書きましたが、僕のフラットから20分もかかりません。京都やパリもそうですが、この街の大きさが人と文化を育むのだと思います。

                                                        1月29日、20時30分



●2005年1月28日

ベルリンはこの数日、毎日雪が舞っていてやっとべルリンらしくなって来ました。やはりベルリンは冬がいいです。街のちょっとしたスロープを利用して子供たちが、木のソリで遊んでいる姿をよく見かけます。微笑ましく、羨ましい光景です。実は最初にベルリンに来た時から僕は木のソリが欲しくてしかたがなかったのです。

先日スチルムームービーで、一緒するかも知れないチェリストの方と大使館で面談をしました。まだ返事はいただいていませんが、変に浮ついてなく目の前のことに、誠実に関わってられるという印象を受けました。一緒できるといいのですが?

朗読者はベルリン自由大学の学生さんから選ぶことになりそうです。早速やりたいという人が手をあげてくれました。もうしばらく広報をしてから、来週にでもオーディションを開き朗読者を決めたいと考えています。
有り難いというか、驚きというか、ベルリン自由大学の先生が僕の仕事や存在を知っていてくださっていて、とても協力的に動いてくださっていることです。ですので、2月の第2週めからは、練習に入れそうそうです。レンガを一個ずつ積むように少しづつ、少しづつ確かな手ごたえを感じています。

アートワークや作品作りも同じですが、そこに行くまでのプロセスが大切だと僕は思っているので、かかわりあいの中で生まれてくる何かを、これから出会う人たちと一緒に探せればと考えています。

実は明日、若い写真家のグループ展のオープニングに出かけます。不思議に思われるかもしれませんが、ベルリンで初めて写真を撮っている人たちと、先週の日曜日知り合いました。どうしてこれまで写真家の知り合いが、いなかったのかと思う人が多いでしょうが、これまでのベルリンには作品を作りに僕は来ていたので、気持に余裕がなかったことが大きいとおもいます。

それと同時にこれは人間の一番弱いところですが、同じものを共有しあうコミニティーに身を置いた瞬間から、人は堕落が始まるからです。堕落というと大げさに聞こえるかもしれませんが、ついついそのコミニティーで通用する言葉や価値観の中で生き始めるからです。(多分多くのアーチストはこのことに気づきながらも、孤立と排除と、孤独を恐れて、しらずしらずの内に外に出れなくなっているのだろうと思います)
日本でリベラルな活動、言動をしている人たちを良く見てみると分かります。実は以外に体制的な人がほとんどです。このことはあらためてどこかで触れたいと思います。

明日会う人たちと知りあったのは、ブタペストから帰ってきた翌日、散歩の途中で立ち寄ったギャラリーででした。展示されていた、写真が面白かったことと、僕は今たくさんの時間をもっていますから、ゆっくり作品を見ていたら、ギャラリーで働いていた、若い女性が話かけて来ました。もちろんその女性は僕が何者だかしらないし、今の僕の立場もしらないなかで、「私たちの作品もみて欲しいと」案内状を僕に渡してくれました。僕は今電話がないことを話して、メールアドレスだけを渡してギャラリーを後にしましたが、その夜ギャラリィーの、オーナーから早速、貴方と話をしたいというメールが来ました。どうなるかわかりませんが、又一つベルリンのドアが開いたのは確かです。

友達の家に電話を借りに行く時間になったので、今日はここで止めます。

雪はどんどん降り続いていますよ。夜の散歩が楽しくなりそうです。
1月27日 16時20分




●2005年1月26日

何か早いですね、ベルリンに来て、もう一か月が過ぎてしまいました。ベルリン日記も週一ぐらいで届けるつもりでしたが、早くも遅れてしまいました。

先週4日間ほど、ブタペストに打ち合わせで出かけてきました。ちょうどブタペストの基金事務所は和太鼓の講演を控えていて、慌しく動いていましたが、なんとか隙間を作っていただき、スチルムービのハンガリー語への翻訳の件や、政治体制が変化したことで、起きているアートシーンの原稿の依頼をハンガリーの美術史家にお願いをして来ました。当初打ち合わせが無い時は、温泉にでも出かけて泳ごうと水着を用意していったのですが、ブタペストの中庭に魅せられてしまい、粉雪の舞う街角で、時間の許す限り中庭をうろついていました。

ブタペストは、先の戦争の被害を受けてなかったことにあわせ、つい10数年前まで、政治体制が社会主義だったこともあり、再開発が遅れたために、幸運にも(ここで暮らしている人のどう受け止めているかは別ですが)19世紀の町並みがすっぽり残っていました。(ガイドブックに出てくるブタペストではありません)
街全体がアールデコというのは、一昨年ポルトガルのポルトや、キューバのオールドハバナで体験をしていますが、それ以上の体験でした。時の澱みに身を任せるというと、少しかこつけ過ぎですが、中庭の気配に潜む記憶を堪能したひと時でした。カメラを持っていなかったことも幸いしたと思います。カメラが手元にあったら、また異なる見えかたをしたと思います。

ただ不思議なのは、年齢の変化にともない眼に止まる風景が変化していることです。以前、作品「動物園」の撮影でこの街を訪ねていますが、その時は動物園に通っていたこともあり、街が全然眼にとまりませんでした。年齢を重ねることの意味はこんなところにあるのだと思います。

ブタペストに出かける3日程前に、スチルムービのドイツ語訳が、大使館の手で完成しました。台本は3種類用意しました。今週はチェリストの方との面談や、朗読者のオーデション、そして3月に、大使館の文化ホールで開く、スチルムービー完成朗読試写会の準備に入ります。いよいよです。僕の表現がどこまで普遍性をもちえるのか?不安もありますが高まるものも静かにあります。

翻訳原稿をいただき、大使館の前からバスに乗りましたが、座席に腰かけ、窓の外の逃げる風景を何気なく見ていたら、突然体の奥から込上げてくるものがあり、涙がボロボロ出てきて止まりませんでした。勿論バスの中には沢山の乗客がいましたが、恥ずかしいとか不思議と思わなかった。自分でもこの感情の正体がわからないまま、ボロボロ顔を上げて泣いていました。この街の人の素敵なところは、そんな僕と視線が合っても目をそらさないで、頬笑みかえしてくれることです。

今まで忘れていましたが僕が、日本を撮ろう、日本人を撮ろうと思ったのは、今いるベルリンの街ででした。涙を流しながらそのことを思い出しました。記憶の中で忘れていたことを、体の感情は記憶していたのだと思います。今も僕は「17歳」の撮影は続けていますが、過ぎさった時間の中で、手にしたことや、自覚的に失ったこと、自分の意思とは関係なく失ったこと、手にしたものより失ったものの大きさだけが、鮮明に残る記憶のなかで、とりあえず、自分の手元に残った作品を手にして、たくさんの人の助けを受けて、新たな表現を試みるために僕は今この街にいる。幸福なのかどうか分かりませんが、その事実を大切にしたいと思います。

少しづつ言葉を交わす人も出来てきました。花屋で働くベトナム人。パン屋のおばさん。駅前のカフェで働く何人かの人たち。クリスマスの日、僕が花をあげた、僕と同世代のホームレスの男の人。少しずつ新しいベルリンのドアが見つかり始めています。



●2005年1月5日

新年をホテル・ボゴタで迎えています。フラットには22日から移りましたが、年末年始はホテルに戻りました。別に泣きたくなったからではなく、皆が自分の家でクリスマスや正月を過ごすのと同じ様に、僕もベルリンでのホームグランドに戻りました。鍵を受け取り部屋に入ると机の上に、日本からの郵便物が置いてありました。このさりげなさがナイスです。しかも僕がくつろぎやすいように、共用のサロンの横の部屋が用意してありました。サロンには、勉強用の机に、革張りの椅子、そして壁には印象派の絵がかけてあり、自然に気持が落ちつきます。(僕の年齢的なものもあるかと思いますが)

共用サロンはどのフロアーにも用意されているので、どのフロアーに泊まったにしろ、全てのフロアーのツアーを僕は勧めます。壁にかけてある絵も違うし、どのフロアーにもクラシカルな鏡が置いてあります。ちなみに今僕の部屋のあるフロアーには、大航海時代の航路を記した古地図がいくつもかかっていました。反対側の廊下の壁はポップな感じの絵です。

ボゴタはベルリンの中心にあるので、宿泊費は消して安くはないのですが(僕のレベルでです)、一番安い部屋で41ユーロです。(シングルですが。)確かツインは65ユーロだったと思います。朝食付きでバス、トイレは共用です。バス、トイレは各フロアーに複数あり、とても清潔です。楽しいのは良くタオルを持って、下着姿のまま廊下を歩いている人を見かけることです。

ホテル・ボゴタには戦前、戦争中と語るべき歴史のあるホテルですので、興味のある人は勉強してみるのも一つです。僕はユース・ホステルに泊まったことがないので、よくわかりませんが、41ユーロ(シングル)は学生でも泊まれない金額ではないので、ヨーロッパの伝統的なホテルを一度体験することを勧めます。ただ朝食の時には少し服装に気遣いが必要です。気遣いといっても、僕は古着屋で買った500円のベストをセーターの上に羽織っているだけです。(今朝は半分以上おなかを露出させた女の子がいましたが、しっくり周りになじんでいました)

旅の心得ですが、いいホテルの一番安い部屋を利用するのも、一つですよ。なぜならサービスと空間利用は安い部屋でも変わらないからです。アメリカ式高級ホテルには無い品がボゴタにはあります。アメリカ的文化には、これからいくらでも触れる機会があると思いますが、ボゴタみたいなホテルはそんなに探しても見つかるものではないのと、重層的な時間を持った空間はいくら資本を用意しても作れないからです。ホテルのある場所は、日本の銀座みたいな通りから10メートルほど入ったところで、周りのレストランは高いですが、ホテルから10分ほど歩いたところにあるSバーンのサビニィープラツ駅の周辺には、安くて、おしゃれなカフェやレストランがたくさんあるので便利です。

ちなみに僕の大晦日の食事ですが、昼はアリババというピッツェリアでコーラとミニピザで2ユーロ。夜はサビニー広場の反対側にあるインド料理屋で、トマトスープに野菜カレーにスイトラッシーで6ユーロ50セントでした。(安いからといって立ち食いではないですよ)
僕がなぜボゴタの利用を勧めるかというと、僕らは普段あまりに薄い文化に慣れすぎているからです。ボゴタが必ずしも素晴らしいとは限りませんが(個々の価値観が異なるからです)、一つの物事を図る時の基準が自分の中に生まれることは確かです。

朝、食堂で朝食をとる人たちの、たたずまいに触れるのも一つだと思います。最近ツアーの客も良くみかけますが、個人の常連客が大半なので、皆それぞれ自分の好きな場所があるのか、決まって同じテーブルで食事をしているのが面白いです。僕は柱時計(2メートルの)横の窓側のテーブルです。朝ごはんの部屋も3つの部屋があり、それぞれ続いていますが、壁の絵や置いてあるものが違うので楽しいです。

長期で滞在する人には割引もしてくれるはずです。旧東ベルリンの方にも、続々とカジュアルなホテルが増えてはいるようですが、大人の時間を是非、卒業旅行に組み入れてみてください。

元旦の今日はベルリン郊外(でもホテルから30分かかりません)にあるバンゼーの湖までSバーンで行き、湖を船(公共バスと同じなので僕の持っているチケットで通用しました。)で対岸に渡り、湖畔沿いに森の中を3時間ほど歩きました。まだ本格的な雪が降ってないせいか、キノコがたくさん残っていて、ブナの木の根元にナメタケをみつけて、採ろうか採るまいかしばらくしゃがみこんで眺めていたら、僕と同じ様に散歩をしている人たちが、そんな僕を見て「彼は学者よ」と話しているのが聞こえてきました。僕はただナメコの味噌汁のために採るか採らないか悩んでいただけですが、白髪頭=学者に見えたようです。

フラットでの生活は、毎日小さな失敗の繰り返しです。せっかく用意したプリンターは接続を間違い壊してしまいました。それに勉強用のスタンドを買うのに3日もかかってしまいました。パソコン類の売り場は、どこも充実しているのですが、日用品の家電売り場はいずれも縮小されていて、探すのに苦労をしました。家電売り場の主役はパソコン以外ではコーヒーメーカーと掃除機で、あとはへアードライヤーでした。クリスマスや新年が重なったせいか、まだフラットの他の住民とは誰とも顔を合わせていません。ゴミの捨て方を大家さんに聞き忘れたので、中庭にあるゴミ箱の蓋をひとつ開けて中をのぞいていたら、奇異に映ったのか(たぶん新手のホームレスと勘違いされたようです)僕の部屋の下の住民の女性が、ガラス窓ごしに覘いていました。しかもほぼ裸に近い格好でした。ベルリンです。次から少しフラットの周辺の話しをしたいと思います。

この2週間、出かけた先々で、ハンディを持った人たちを、良く見かけます。誤解を恐れずに書くと、変な人が普通に街の中にいます。それから若い女性の足元が、しっかりしていているのが印象的です。

それにしても津波のニュースには心がいたみます。自然災害が起きるたびに世界の現実の一つがあぶりだされます。戦争や紛争地には自然に世界の関心は向かいますが、何も起きない限り、世界中から忘れられたところが、クローズアップされます。災害は起きなくても人々の助けを必要としている人びとが世界にはたくさんいるのに。何かが起きないかぎり、世界の目は向かいません。その事実が悲しいです。2002年にアートワークを試みたインドのビシャカパトナムの子どもたちが気がかりです。インドネシアのアチェには、先の戦争で帰国することなく残っている日本人がいます。何事も無いことを祈ります。

世界の貧困の原因を作ったのは、大航海時代のヨーロッパの国々ですが、クリスマス、新年と華やかな暦にもかかわらず、連日津波のニュースを、大量の時間を使い、休むことなく伝えています。いい意味で、自分たちの問題として伝えようとしている意思を感じます。

ただ時間を追うごとに、リアルなその瞬間の映像が増えています。あの瞬間、冷静にカメラを回し続けられる観光客の存在は、写真家として、人間として、不気味でたまりません。

日本は今、どんな状況なのでしょうか?それも気になります。津波のニュースを見ながら個人はともかくとして、日本の自衛隊が、武器をもたずに、自然災害地だけに派遣されるプロの集団になったら、世界は日本を見直すのにと、せつにそう思います。そう思いながらニュースを見ていたら、アメリカ軍が緊急物資をヘリコプターで被災地に運んでいました。しかもCNNの記者まで同乗させていました。さすがというか、アメリカは情報戦略に長けた国です。

そういう僕は今ベルリンで何ができるのか? 自分が置かれている状況をありがたいと思いつつも、学習した語学も5分後には、忘れている自分が情けないです。

いろんな意味で僕の新たな生活が、ベルリンでスタートします。明日にはフラットに戻ります。
2005年1月1日



●2004年12月21日

ベルリン最初の朝は、雪が舞っていました。今年最初の雪だそうです。クリスマスマーケットの帰りに、もみの木を担いだお父さんのあとを、子供がトコトコ歩き、小さな口をパクパクさせながら、空から舞い落ちる雪を食べていたのが印象的でした。

そう、やっとベルリンに着きました。ホテルに着き、荷物を整理していて、大切なプラグを忘れてきたことに気づいて、ただ唖然です。プラグの代わりに、なぜか靴下だけはやたらたくさん持ってき来てしまいました。
靴下がパソコンや携帯電話の充電をしてくれるわけではないので、どうしようという感じです。

でもなんとか気持ちをとりなおし、ZOO駅まで歩いて、とりあえず生活に必要なバスと電車と地下鉄共用の1ヶ月間有効のチケット(64ユーロ)と地図を買い求めました。明日は大使館に電話をしたり、フラットの鍵を受けとったりと、いよいよベルリンでの生活が始まります。フラットは旧東ベルリンのプレンツラウアーベルグに、友達が自分の作品作りの合間に探してくれました。友達はスイス生まれの映像作家です。プレンツラウアーベエルグは作品集「ベルリン」に出て来る街角です。

今ホテルのオーナーから電話があり、お金のことは気にしないで、フラットに移らず、このままホテルを使って欲しいとのことです。有難いです。人が何かを試みようとしている時に、必ず手を差し伸べてくれる人たちがいますが、そんな人たちの存在は人間の未来を信じている証のような気がしてなりません。

Hotel Bogotaのことはいつか触れたいと思いますが、僕はこのホテルで朝食を食べたいばかりに、ベルリンに通っているような気もします。朝、コーヒーの香りとグレゴリオ聖歌が風の流れに沿って中庭から立ち上ってきて、いつもおごそかな朝を迎えています。きしむ廊下の音にしても、人間の鼓動に聞こえてきます。フロントで働いている人も、朝の食事のサーブをしてくださる人も、掃除の人もこの10年変わらず同じ人が働いています。一言でHotel Bogotaのことを語るのは難しいですが、ホテル全体が文化の香りに包まれていて、そこに居るだけで創造する力がこみ上げて来るような空間です。ベルリンに出かける予定のある方は是非一度Hotel Bogotaにも立ち寄ってみて下さい。さまざまな形で表現されたものが廊下やエントランスに掛けてあるというだけではなく、ホテルが公の場だということが良く分かると思います。ベルリンにあるホテルではなく、Hotel Bogotaのあるベルリンです。

ですが、とりあえず僕はフラットに移ります。クリスマスまでは、Bogotaで過ごしてもいいかなとも考えていますが、オーナーには泣きたくなったら泊まりに戻りますと返事をしました。実はこのホテルの屋根裏では、戦前、ヘルムート・ニュートンの師匠が作品を作っていたそうです。当時の作品がさりげなく壁にかかっているのも、このホテルのすごいところです。

それからもう外は耳がちぎれるほど寒いです。



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