HASHIGUCHI George

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橋口便り
橋口便りバックナンバー・03(2005.4〜2005.6)

●2005年6月26日


ベルリンはこの数日とても穏やかな天気が続いています。風はまだ肌寒いのですが、太陽はもう充分夏を予感させる強さです。ベルリンの人たちは本当に太陽が好きで、日の当たっているところには必ず人がいます。というより太陽の移動に合わせて人が移動している感じです。昼間、太陽が当たっているカフェは大賑わいですが、日陰のところはいつも閑散としていて、ベルリーナの思考がとても分かりやすいです。昨日の公園ではもう上半身裸の女性がいました。これからどんどん裸の人が増えて行くくことでしょう。 ベルリーナは太陽も好きですが、裸がとても好きなのです。これはドイツの文化が大きく影響をしているのでいつか触れたいと思います。ちなみにプールも水着なし、シャワーも男女共用です。

そんなベルリーナとは裏腹に、昨年インドで太陽に当たりすぎたせいか、まだ本格的な夏は来ていないのに、僕はもう日差しをさけています。

ベルリンに来て早いもので半年が過ぎてしまいました。本当に早いです。半年の時間が過ぎ、やっと少し何かを試みようとした時に必要なネットワークや人間関係が出来てきました。 実は4月、5月はどうすればいいのだろうかとたじろいでいました。この秋に東京で開かれる、ベルリン州の写真展に向けての仕事がなければ本当にバンザイをしていたと思います。

最初のスチルムービーは大使館の方たちの支援を受けて試みることが出来た分けですが、終わって一息ついた瞬間、僕の手元に、何も残っていないことに気がついたのです。ドイツ語に翻訳された台本は手元に残っていますが、次に繋がる手がかりが残っていない。お金の問題は勿論のこと、普段は人との関係から、準備もろもろと一つ一つ自分の手元で確認しながら進めて行きます。当然そのプロセスの中にはイヤなこともたくさん出てきますが、イヤなことがある反面、わずかずつですが確かな手応えが伴ってきます。その確かな手応えが次に繋がる糧になるのです。僕が各地で試みているアートワークは日々の積み重ねのいい例です。

前回のスチルムービーはその面倒な部分を大使館の方たちが殆ど引きうけてくださった反面、そのプロセスで学ぶことや、これまで残っていたはずの眼に目えない何かが何も手元に残らなかったことに気づき呆然としてしまいました。

星野を始め普段僕を支えてくれている人間の不在も大きいと思います。それに通信問題の不備も片方にはあったと思いますが、そのことだけではないと思います。

肩書きが付いた事でこれまで培ってきた方法論を見失っていたようです。危ないところに僕は立っていました。 肩書きに関係なく、原点に戻ればいいのだとこの二ヶ月という時間が気づかせてくれました。先月の終わりごろからせっせといろんなところに、自分を説明する手紙を書き始めています。それにともない、これまで繋がっていなかったものが少しずつ確かな手応えとともに見え始めて来ました。まだ楽観は出来ませんが、人と繋がり始めて来たので何とかなると思います。

ただ作品を作っている時とは異なるリズムで日々の生活が動いているので、これまで出会う事のなかった日本人ともたくさん会うようになりました。(これまで二十年近い時間でベルリンで会った日本人は10人にも満たないと思います)。昔(年寄りクサイ表現ですが)外国で出会う日本人はいい意味でクセのある人が殆どでした。ですから付きあいやいやすかった。危ない人はさければいいわけだし。そして生き方に関係なく、一様に何かを捨てて 来ていたような気がしました。

ですが今ベルリンで出会う日本人の中には、社会をくぐることなく、渋谷あたりからそのまま来ている感じを受ける人も少なくないです。社会をくぐることもなく、何も捨てずに来ている。 パリやニュヨークやロンドンならまだしも、他の都市に比べてマイナーで田舎臭く、どちらかというと暗く、世間の流行りとはあまり関係ないベルリンにもそういう日本人が増えたことに少なからず驚いています。驚き戸惑いながらも、パソコンの前からとりあえず立ち上がった彼らが情報に振り回されることなく、自分の生き方の手がかりを見つけることを静に離れてみていたいと思います。

ですがベルリンの多くの日本人を見ていると、外国が身近になったことがいいことなのかどうなのか分からなくなります。いきなり話は飛びますが、日本にデズニーランドが出来た不幸と重なる気がします。

そんな中でとても心に残る日本人と会いました。心に残るというか励まされた人です。次回ふれたいと思います。

話がまた飛びます。僕はラジオでBBCのニュースを聞いていますが、毎日先の津波のニュースを流しています。しかもゴールデンタイムにです。やはり他国に対する関心の持ち方の違いを感じます。過去の歴史はともかくとして、意識的に共に地球社会で生きようとしているという感じを受けます。 その片方で、外から日本を見ていると、日本は地球社会の中でどんどん置いていかれるような気がしてならないです。どこに日本は向かうのでしょうか?

アウグスブルグに行って来ました。この夏に卒業した、ナティーンとアンドレア、パトリックと会いました。パトリックは成績優秀で医大に入学が決まったそうです。ナディーンはどことなくしなやかな印象を受けました。アンドレアは夏のひまわりのようでした。

ただ落第をしたペーターはホテルで研修をしているそうですが、ベニーは落第をしてからこの二年、仕事にもつかず、まだ方向性が見つかっていないとのことでした。心配で気がかりです。

カールと校長先生に案内されてスチルムービーを試みる会場を見に行く途中、トイレに絵を書いている生徒が二人いました。思わず楽しそうと口にすると、カールが彼らは罰を受けてトイレに絵を書いているとのことでした。二人ともユダヤ系でそれぞれ5年前に一人はロシヤ、もう一人はポーランドからの移民だそうです。二人とも成績は抜群だけど、、何か複雑な感情があるのか、とにかく悪さが目立つらしく、学校でハッパを吸うし罰の原因は公共施設(教職員用)に落書きをして一時は退学が決まっていたそうです。ですが公園の掃除とトイレの壁に絵を書くことで退学は免れたとのことでした。

退学の替わりに公園の掃除とトイレの壁に絵を書くのが罰というのが素敵な判断だと思いましたが、二人の中にある複雑な感情に単純でないドイツ社会の潜在意識を見せられた思いです。

スチルムービーに先立ち朗読のワークショップを試みますが、校長先生の提案で教室ではなく学校の庭で試みることになりました。ゲーテの世界です。

打ち合わせが終わり、途中までカールと一緒に帰りましたが、僕が往復キップを買っていたら「ジョージさん一人で買ったの」と驚いていました。カールは僕が写真を撮っていない時の社会性のなさを知っているので驚いたのだと思います。そして何度も「ベルリンでは本当に一人なの」と聞いて、そして飛行場に向かうSバーンでは、「終点で必ず降りてターミナルは一番だからねと」、何度も念をおすのです。


・アウグスブルグから戻ったあくる日、旧東にある写真の学校に生徒の作品を見るついでに簡単なレクチャーをして来ましたが、ここでも限られたフィルムと印画紙の使い方をみて、日本の学生がいかに恵まれているのか思い知らされました。

・ポーランド人の女性の写真家の作品を見せてもらいました。作品はベルリンに住む女性の裸の写真でしたが、世間が規定する綺麗な裸ではなく、生き物として同性を見ている眼差しが印象的でした。普通の裸の写真ですが、彼女が住むポーランド社会では彼女の作品は展示できないとのことでした。おそらく宗教的な理由からだと思いますが、僕はポーランドの文化が遅れているとかではなく、社会にひとっの物差しが有るのは「個人」と「自由」「を考える上でいいことだと思います。表現する人も覚悟が問われるわけですから。彼女の作品の存在を知ったのが昨年の九月ブタペストででしたが、約一年後にやっとオリジナルを眼にすることが出来て良かったです。



そんなベルリーナとは裏腹に、昨年インドで太陽に当たりすぎたせいか、まだ本格的な夏は来ていないのに、僕はもう日差しをさけています。

ベルリンに来て早いもので半年が過ぎてしまいました。本当に早いです。半年の時間が過ぎ、やっと少し何かを試みようとした時に必要なネットワークや人間関係が出来てきました。 実は4月、5月はどうすればいいのだろうかとたじろいでいました。この秋に東京で開かれる、ベルリン州の写真展に向けての仕事がなければ本当にバンザイをしていたと思います。

最初のスチルムービーは大使館の方たちの支援を受けて試みることが出来た分けですが、終わって一息ついた瞬間、僕の手元に、何も残っていないことに気がついたのです。ドイツ語に翻訳された台本は手元に残っていますが、次に繋がる手がかりが残っていない。お金の問題は勿論のこと、普段は人との関係から、準備もろもろと一つ一つ自分の手元で確認しながら進めて行きます。当然そのプロセスの中にはイヤなこともたくさん出てきますが、イヤなことがある反面、わずかずつですが確かな手応えが伴ってきます。その確かな手応えが次に繋がる糧になるのです。僕が各地で試みているアートワークは日々の積み重ねのいい例です。

前回のスチルムービーはその面倒な部分を大使館の方たちが殆ど引きうけてくださった反面、そのプロセスで学ぶことや、これまで残っていたはずの眼に目えない何かが何も手元に残らなかったことに気づき呆然としてしまいました。

星野を始め普段僕を支えてくれている人間の不在も大きいと思います。それに通信問題の不備も片方にはあったと思いますが、そのことだけではないと思います。

肩書きが付いた事でこれまで培ってきた方法論を見失っていたようです。危ないところに僕は立っていました。 肩書きに関係なく、原点に戻ればいいのだとこの二ヶ月という時間が気づかせてくれました。先月の終わりごろからせっせといろんなところに、自分を説明する手紙を書き始めています。それにともない、これまで繋がっていなかったものが少しずつ確かな手応えとともに見え始めて来ました。まだ楽観は出来ませんが、人と繋がり始めて来たので何とかなると思います。

ただ作品を作っている時とは異なるリズムで日々の生活が動いているので、これまで出会う事のなかった日本人ともたくさん会うようになりました。(これまで二十年近い時間でベルリンで会った日本人は10人にも満たないと思います)。昔(年寄りクサイ表現ですが)外国で出会う日本人はいい意味でクセのある人が殆どでした。ですから付きあいやいやすかった。危ない人はさければいいわけだし。そして生き方に関係なく、一様に何かを捨てて 来ていたような気がしました。

ですが今ベルリンで出会う日本人の中には、社会をくぐることなく、渋谷あたりからそのまま来ている感じを受ける人も少なくないです。社会をくぐることもなく、何も捨てずに来ている。 パリやニュヨークやロンドンならまだしも、他の都市に比べてマイナーで田舎臭く、どちらかというと暗く、世間の流行りとはあまり関係ないベルリンにもそういう日本人が増えたことに少なからず驚いています。驚き戸惑いながらも、パソコンの前からとりあえず立ち上がった彼らが情報に振り回されることなく、自分の生き方の手がかりを見つけることを静に離れてみていたいと思います。

ですがベルリンの多くの日本人を見ていると、外国が身近になったことがいいことなのかどうなのか分からなくなります。いきなり話は飛びますが、日本にデズニーランドが出来た不幸と重なる気がします。

そんな中でとても心に残る日本人と会いました。心に残るというか励まされた人です。次回ふれたいと思います。

話がまた飛びます。僕はラジオでBBCのニュースを聞いていますが、毎日先の津波のニュースを流しています。しかもゴールデンタイムにです。やはり他国に対する関心の持ち方の違いを感じます。過去の歴史はともかくとして、意識的に共に地球社会で生きようとしているという感じを受けます。 その片方で、外から日本を見ていると、日本は地球社会の中でどんどん置いていかれるような気がしてならないです。どこに日本は向かうのでしょうか?

アウグスブルグに行って来ました。この夏に卒業した、ナティーンとアンドレア、パトリックと会いました。パトリックは成績優秀で医大に入学が決まったそうです。ナディーンはどことなくしなやかな印象を受けました。アンドレアは夏のひまわりのようでした。

ただ落第をしたペーターはホテルで研修をしているそうですが、ベニーは落第をしてからこの二年、仕事にもつかず、まだ方向性が見つかっていないとのことでした。心配で気がかりです。

カールと校長先生に案内されてスチルムービーを試みる会場を見に行く途中、トイレに絵を書いている生徒が二人いました。思わず楽しそうと口にすると、カールが彼らは罰を受けてトイレに絵を書いているとのことでした。二人ともユダヤ系でそれぞれ5年前に一人はロシヤ、もう一人はポーランドからの移民だそうです。二人とも成績は抜群だけど、、何か複雑な感情があるのか、とにかく悪さが目立つらしく、学校でハッパを吸うし罰の原因は公共施設(教職員用)に落書きをして一時は退学が決まっていたそうです。ですが公園の掃除とトイレの壁に絵を書くことで退学は免れたとのことでした。

退学の替わりに公園の掃除とトイレの壁に絵を書くのが罰というのが素敵な判断だと思いましたが、二人の中にある複雑な感情に単純でないドイツ社会の潜在意識を見せられた思いです。

スチルムービーに先立ち朗読のワークショップを試みますが、校長先生の提案で教室ではなく学校の庭で試みることになりました。ゲーテの世界です。

打ち合わせが終わり、途中までカールと一緒に帰りましたが、僕が往復キップを買っていたら「ジョージさん一人で買ったの」と驚いていました。カールは僕が写真を撮っていない時の社会性のなさを知っているので驚いたのだと思います。そして何度も「ベルリンでは本当に一人なの」と聞いて、そして飛行場に向かうSバーンでは、「終点で必ず降りてターミナルは一番だからねと」、何度も念をおすのです。


・アウグスブルグから戻ったあくる日、旧東にある写真の学校に生徒の作品を見るついでに簡単なレクチャーをして来ましたが、ここでも限られたフィルムと印画紙の使い方をみて、日本の学生がいかに恵まれているのか思い知らされました。

・ポーランド人の女性の写真家の作品を見せてもらいました。作品はベルリンに住む女性の裸の写真でしたが、世間が規定する綺麗な裸ではなく、生き物として同性を見ている眼差しが印象的でした。普通の裸の写真ですが、彼女が住むポーランド社会では彼女の作品は展示できないとのことでした。おそらく宗教的な理由からだと思いますが、僕はポーランドの文化が遅れているとかではなく、社会にひとっの物差しが有るのは「個人」と「自由」「を考える上でいいことだと思います。表現する人も覚悟が問われるわけですから。彼女の作品の存在を知ったのが昨年の九月ブタペストででしたが、約一年後にやっとオリジナルを眼にすることが出来て良かったです。



●20005年6月9日

ベルリンはこの数日目まぐるしく天候が動いていて、冬と夏が交互に来ている感じです。

空の雲も凄いスピードで動いています。分かりやすく一日の天気を説明すると、晴、のち曇り、日中は日が差すところもありますが、ところにより激しい雨をともなった強い風が吹きます。気温も激しく変化しますので、服装には充分気をつけてくださいと、NHKの天気予報の用語が全て出てくる感じです。

(余談ですが僕はNHKの全国の天気予報は大好きです。日本人の写真を撮るようになって、いろんなところで様々な人びとと出会って来ているので、天気予報を聞くたびに、その時々のことを思い出しています。おそらく故郷から離れて生活している人たちも同じ思いかもしれません。気持ちを飛ばし思いを巡らす事が出来る機会がある
ことはとても幸福なことだと僕は思います)

天気のせいではありませんが、このところ少し疲れています。
そろそろ自分一人では立ち行かなくなって来たようです。

昨年の今ごろや二年前、三年前の今ごろのことを思いだそうとしてもどうしても記憶が戻ってこないのです。今ベルリンでは写真を撮っていないので、作品を生み出す時のような苦しみはないのですが、気がつくとため息ばかりついている自分がいます。写真を撮り始めたら叉気分も変わるのかもしれませんが、そうすると交流使の仕事が間違いなく止まってしまうので困っているところです。

交流使といえば、この二ヶ月意識的に旧東欧(リトアニア、ハンガリー、セルビヤ、モンテグロ、クロアチヤ、ボスニア、スロベニヤ)の人たちの作品を見せてもらっていますが、彼らの作品を見せてもらいながら「作家性を深めるためには、もっと無駄をしないと」いいかけていつも言葉を飲み込んでいる自分がいます。


体制が閉じていた時は、彼らはアンダーグランドで作家活動をしていた人たちで、それなりにアイディンティーが持てたと思いますが、体制が崩れ待ち望んでいた自由な社会が手に入った瞬間、彼らはいきなり競争社会に放り出され、仕事と生きる場を求めてベルリンにでて来たはいいけど仕事はなく、作品も古いといわれ、機材も買えず「仕事がない、お金がない、作品が作れない、」この悪循環から抜け出せないところにいます。
(この現状は日本でも表現に関係なく普通の日常を送る人たちの中にすでに数年前から生まれています。これまで、日本のいいところは努力をすれば報われた社会だったのですが。)

そして彼らが一応に白人だということがさらに状況を悪くしています。

肌の色の異なるアフリカ系や、中南米、アジアから来ている芸術家たちも、生活が大変なことには変わりがないのですが、肌の色がちがうことだけで、レスペクトのされ方が違います。
(ここには叉白人の複雑な感情が存在します。つきつめるとレスペクトの正体が見えて来ます)

東欧出身で表現に関わっている人たちが、いろんな伝をたよりに今僕にコンタクトを摂ってきますが、作品を見せてもらうこと意外に何も出来ない自分に歯がゆいものを感じています。たじろいでいる今の僕の状況をオーストラリアにいる知人に話したところ、「寄り添ってあげるだけでもいいのではないかと」の助言と励ましをもらいました。

彼らに簡単な約束は出来ませんが、いつの日か彼らの顔が見える機会を必ずどこかで用意したいと強く思います。

・クロイツベルグの話に中々戻れませんが、友達には会えました。会うなり「日本の左は今どうしている」ときかれ十五年経った今でも変わっていない頑固さに触れ嬉しくなりました。友達が頑固なのではなく、日本人の多くが「日和見主義」だということです。友達は今でもトレーラーで暮らしていました。

・朗読とダンスを会わせる練習に入りました。

・来週アウグスブルグに打ち合わせを兼ねて出かけてきます。
半数の生徒はすでに卒業していますが、二年ぶりなので再会するのが楽しみです。

・スチルムービーは七月十四日にアウグスブルグで試みることになりました。二年前のアートワークに参加した生徒と力を合わせていいスチルムービーにしたいと思います。

・ベルリンで僕の仕事を助けてもらえそうな日本人とやっと出会えました。
(ドイツ人ではすでにいたのですが)

・この秋に開くベルリン州の催事会場で流す、ドイツの学生たちの作品集めに入ります。
国籍、年令、に関係なく今ドイツで写真を勉強をしている人全てが対象になります。

・先日友達の家に夕飯を食べに行く途中、今年初めて若い男性にいきなり誘われてしまいました。
右手に花を持ち、左手にはスイカをさげていたのですが、誘ってきた彼に生真面目に「目的はなんですか」と聞いてしまい逆に相手を赤面させてしまいました。悪いことをしてしまいました。

この話を知人にしたところ、「ジョージはゲイではなかったの」と不思議な顔をされてしまいました。
ゲイといえば、ベルリンには同性愛者がとても増えました。増えたというより皆が隠さなくてもいい環境になったということだと思います。つい先日も頭の剥げたカップルが互いの頭をなぜ合いながら道端で愛を確かめ合っていました。いい光景に思わず足を止めてしまいました。

・日本からとても素晴らしい本が届きました。壁崩壊から今日までのベルリンのアートシィーンの背景を丁寧にひろいながら、ベルリンのお芝居を書いた本です。小さくない嫉妬心と新たな作家と出会た喜びを感じながら読んでいます。世間によくある、「今ベルリンが面白い」といった類の本とは一線を引いた本ですので読んで見てくだ
さい。

演劇都市 ベルリン   新野守弘著   れんが書房新社 定価二〇〇〇円です。



●2005年5月24日

このところ数日ごとに天侯が変わっています。僕にとってのベルリンは「冬」という印象が強かっただけにベルリンの春がこんなに艶やかで綺麗だとは思いませんでした。道行く人々は勿論のこと、眼にうつる全てのものが美しく楽しそうです。街路樹の葉の色も日に日に鮮やかに、そして深い緑に変化していき、あっというまに街路樹は、街の雰囲気は勿論のこと街並を覆い隠し風景を変えてしまいました。

話はそれるかもしれませんが、東西ドイツの統一が夏か春だったら、僕のモノクロの作品「ベルリン」は生まれていなかったと思います。また生まれていたとしても、まったく異なる空気を持った作品になっていたと思います。その前に写真そのものを撮らなかったかもしれません。街角に佇む人びとの後ろに広がる街並みがかもし出す世界。そして寒さから身を守る為に神経とエネルギィーを使う余り、個々の人生が表情の中に剥き出しにされて路上に佇む人々。ベルリンの冬は街と人びとを裸にするようです。

街路樹といえば歩道脇のハマナスの花も咲き始めました。最初にハマナスをベルリンで見たときは正直驚きました。なぜならハマナスの花はこれまで北海道の海辺や岬で見る花だったからです。どちらかというと荒荒しく荒涼とした場所に咲く花という印象が僕の中にあったからだと思います。ですが緯度をみれば植生はシアトルや北海道と同じ緯度にあるので不思議でもなんでもないのです。

10日程前からホワイトアスパラが街角にあふれています。僕の住むアパートの近くにショッピングセンターがあるのですが、そのエントランスでは山並みになったアスパラが売られています。そして面白いというよりアスパラのプレゼンテーションのしかたに感心させられています。

まず回転ドアから中に入ると、土がもられアスパラ畑が再現されていました。そして地中のアスパラの様子がわかるように一部の根は剥き出しにされていました。直系1センチ程の無数の根が絡まりその根の途中からアスパラが伸びていました。ちょうど竹の子のようなものです。畑の次にはアスパラとワインでデコレーションされたピラミッド。そしてアスパラの並んだ屋台、屋台のアスパラの横には新ジャガも並んでいました。それにアスパラの皮向き機。インスタントのソースに生ハムにスモークサーモン。そしてパン。畑、屋台、ワインの試飲コーナーとそれが交互に三箇所もあるのです。(畑も三箇所です)季節を食べるのが好きだというより、長く暗く寒い冬を無事に乗り越えられた喜びがあふれていると思いました。ベルリンの人がノースリーブが好きなのではなく、肌を風にさらせる季節を迎えられたのが喜びなのだと思います。そして二日程前からさくらんぼがアスパラの横に並び始めました。

・今語学の勉強のために始終BBCラジオを流していますが、ユダヤ系の人々が実名で自分の家族のルーツ語っています。そしてモノローグの前後に流れる音楽は哀愁の漂うアコーデオンです。今僕のすむ辺りにも毎日アコーディオンを抱えた家族や二,三人の流しの音楽グループがいます。聞くとリトアニヤ、スロベニヤからの人が多いです。アコーディオンは旅する楽器です。

・ユダヤといえば、ハッケシャーマルクトの裏で、夜遅くユダヤの伝統的な服装で街を散歩している家族とすれ違いました。すれ違うときに軽く会釈をしあいましたが、どことなく遠慮をしながら散歩をしている印象を受けました。難しい感情がまだベルリンに存在している証です。

・ベルリン自由大学をたずねましたが、環境もさることながら大学の周辺で見る学生の顔が勉強をしているただずまいが、とても新鮮でした。日本の学生から久しくみることのない顔の気です。話は飛びますが日本の大学にはそれぞれ助成金が政府から大学に給付されていますが、これは僕らの税金です。学生が授業を受けようが受けまいが支給される助成金です。

僕はアルバイトに精出す学生を見るたびに、学生の出席率に合わせて、助成金を他に回せないものかと切に思います。中には本当に苦学生もいるでしょうが正直複雑な気分です。なぜなら学生が消費しているのは、助成金だけではないからです。彼らがキャンバスに戻れば、仕事の場が社会人の元に戻るからです。アルバイトが悪いと思いませんが、皆がアルバイトに成をだしている横で、税金は空に消えていくし、本当に生きるために仕事が必要な人たちから仕事と生きがいを奪っていることを少しは意識して欲しいものです。

・そういう僕も今税金を使いベルリンに滞在している分けですが、いい意味であまりそのことを意識しないようにと心がけていますが、いつもどこかもっと何かできるのではないかと焦る自分がいます。でも表現する人間にとってはけしてそのことはいいことではないのです。表現者が結果をもとめると窮屈なものが生まれるからです。難しいです。

・今日はこれからリトアニア人、日本人のアーティストの作品を時間をずらして見せてもらうことになっています。



●2005年5月9日

今僕が住んでいるエリアの話をします。

僕の作品「ベルリン」を見ている人には伝わりやすいと思いますが、写真集の扉のページに石畳の街角を走る路面電車の写真がありますが、その街角から歩いて5分もかからないところが今の僕のフラットです。そして始めの3ヶ月間、利用していたアパートメントホテルはさらに今のフラットから北東に5分程歩いたところにあります。東ベルリンのプレンツラウワーベルグというエリヤに今僕は住んでいますが、このエリアは1800年代の後期頃から、ベルリンの街に人が集まって来たのにあわせて、外に外に街が広がってきたところだと僕は思います。東西が分断してから統一するまではあまり大切にされていなかったらしく、町並みの大半が1800年代の後半からそのまま修復されることなく残されていました。15年過ぎた今でも朽ちたままの建物も少なくないです。東西分断後の東ドイツ政府は修復するよりは新しく建てた方が安くあがると判断したようです。

話はいきなりそれますが、壁が崩壊して最初にこのエリアに足を踏み入れた時に、人間が年を重ねるのと同じように、街が年を重ねることを僕は初めて体感した。時の澱みの中に身をおいたその時、ひっそりとしてカビくさい中庭から人々のひそひそ話しや息づかいが聞こえて来そうなぐらい、僕にはリアルに心に響いたことを15年の歳月が過ぎた今でも、あせることなく僕の体の中にその時の印象が強く残っている。

話を戻します。
ストリートの名前はシューンハウザーアリーで、先の戦争の時にこの道を旧ソ連軍の戦車がベルリンの中心部に入ってきた歴史があります。おそらく60年前の今日です。ラジオから流れるニュースは今朝から繰り返し60年前の今日のことを伝えています。(BBCラジオ) 侵攻して来た戦車が走る振動で通りに面した殆どの家のシャンデリヤが落ちて壊れたそうです。そして今通りに面した部屋にかかっているシャンデリヤの大半が統一後に西から移り住んで来た人たちが取り付けたものだそうです。

ものすごく乱暴に街の形を説明をすると、たとえば今ベルリンの中心をテレビ塔の立っているアレキサンダー広場あたりだとすると、(議事堂、博物舘、オペラハウスはこの周辺にある)今僕の住んでいるアパートからテレビ塔に向かって歩き始めたとすると、10分程のところに巨大なユダヤ人墓地が有ります。そして通りを2本ほど横にそれると今、ロシヤ系や東欧系の人たちが経営するレストランや劇場ギャラリーなどが軒を並べています。そのあたりからミッテというエリヤに入り、ミッテに入ると、通りはゆるやかにカーブを繰り返し建物も曲線を描いていてトラムが曲がるたびにきしむ車両の音が耳に心地よく響きます。柔らかい曲線を持った建物に入ると、中庭が繋がりカフェや劇場、ブティック、レストラン、ギャラリーと今ベルリンのトレンドなエリアのハッケシャーマルクトがあり、ハッケシャーマルクトからしばらく歩くと、ユダヤ教会があり、そして前にも触れましたが今若い芸術家が住んでいる戦前ユダヤ人の経営していたデパート跡が残っています。余談ですが、2度程タヘレスを訪ねましたが、表現に集中するにはあまりふさわしくない気がしました。たえず周りの視線を意識するあまり、大切な個々の時間軸が消えているように僕には思えました。難しいです。

ユダヤ教会の裏にあるアパートの壁には、そのアパートに住んでいて先の戦争中収容所に送られたユダヤ人家族の名前が刻まれています。パリのマレー地区でも見たことがありますが、壁に刻まれた名前を見ながら、先の戦争で日本人がアジアの各地で犯した過ちも忘れてはいけないと思う。して 今でこそハッケシャーマルクトの名前が定着していますが、旧東の頃は「マルクス・エンゲルス広場駅でした。

統一後に名前が変わったところはハッケシャーマルクトだけではないです。統一後のドイツとしては分断前の名前に戻しただけかもしれませんが、半世紀あまりの時間、その名前で暮らしを育んだ人たちのことを思うと僕は心が痛みます。勝者と敗者という表現は単純すぎると思いますが、西ドイツに吸収されるかたちで消えてしまった東ドイツの人たちにとって、否定されたのは政策であって暮らしや人間ではないはず。だけどいつのまにか暮らしはもちろん日々のリズムまで笑いの対象にされています。僕が映画「グッバイ・レーニン」を素直に笑えないところはそこにあります。東ドイツの国民車トラバントを今でも時々見かけますが、思わず頑張れと車に向かって叫ぶ自分がいます。

話を戻します。
曲がりくねった街角を過ぎてSバーン(山手線みたいなものです)の線路を越えると美術舘や大学、オペラハウス、大使館と公の建物が並んでいる。心地から逆にに歩くと、まず公のエリヤがあり、細かく入り込んだ居住区と商業地があり、そのミッテとプレンツラウワーの境界線のあたりにはかって東欧系の住民にユダヤ人(ユダヤ系の多くも東欧系だと思う)が住み、このあたりにはバーやギャラリーがいまでもたくさんある。そしてユダヤ墓地のあたりから、比較的新しい住民が住み始めたことをうかがい知ることが出来る。新しいといっても1800年後半から1900年初期だが。

僕は今歴史的資料をいっさい使わず、街を歩いた印象だけで書いているので、事実を知りたい人はキチント調べてください。

そして僕はユダヤ人という言葉を簡単に使っていますが、ユダヤの文化や歴史を勉強をすると、今僕らが接している文化が全然異なる側面や輝きが見えてくるのでぜひ世間の印象、偏見に惑わされることなく勉強してみることを進めます。パリのマレー地区にユダヤ美術舘がりますが、パリを訪れる人は必ず訪ねて欲しい場所のひとっです。キャパという有名な写真家がいますが、僕はその美術舘で彼が撮った戦争終了後にヨーロッパ各地からイスラエルに帰国(彼らの側からの表現です)して入植していった人たちをルポした写真がとても印象深く残っています。キャパは戦争写真家という印象が強いですが、どうしてこの一群の写真があまり表にでてこなかったのか不思議です。そしていい意味で、彼が世界的に有名になっていった理由もよく理解できました。彼の作品を世界に配信するルートを作った人達の存在。興味深いです。ただ、浅い知識でこのテーマに触れるのは止めます。

話を戻すと、今僕が住むエリアはちょうどある境界線上にあるのです。
旧東の人が多く住み、でも一本道をはさむと西から移りすんだ学生にソ連邦が解体後に移動してきた人たち。そしてアフリカ系に中南米系、ベトナム難民が多く暮らす街です。そして統一して一見生活も一つになったように移りますが、郵便物は旧西地区よりも確実に3日遅いし、(日本からの郵便物)、僕が持っているクレジットカードもほとんど使えません。キャッシュカードも使える銀行と使えないところがあります。(協定をしていてもです)図書館の本も西地区は借りまわしが出来ますが、東地区から西地区の図書館の本は借りることはできません。

そんなエリアを僕は意識的に選び今暮らしています。ただ刺激的で魅力あふれる人々が多く暮らす街角ですが、僕はまだ一枚も写真を撮っていません。

・新しい美術舘のオープニングに招待される。作品は退屈でしたが、改めて芸術は特別な人たちのものだと確認させられる。作品を発表する時は、気をつけないといけない。ただスペーチの内容は別にして、マロニエの花にライラック、シャクナゲの花の咲く庭でのスピーチはとても贅沢な気分でした。

・ベルリンで初めて髪の毛をきりました。8ユーロでした。

・ベルリン郊外にある団地の部屋を利用したアートワークに招待される。10の会場が用意されていたのですが、この体験は改めてふれます。方法論は異なりますがが、僕がスチルムービーを試みていることと、彼らがその先に見ていることは重なると思いました。そして芸術が社会にはたす役割をそれぞれのアーチストが意識していたのも素敵です。

・ダンスを踊っている人たちから、朗読とのコラボレーションを相談される。彼らいわく「新しいことを試みるのにお金のことは心配しなくてもいい。それよりまず試してみることが大切、合わなければ止めればいいのだから」と。創造の現場にいる人の基本的な姿勢に触れることが出来て嬉しくなる。彼らはシャウビューネ劇場や国立劇場で踊っている人たちです。

・ラジカセを買いました。都市で音楽のない生活は苦痛でした。

・今日始めて窓の外を飛ぶツバメをみました。そして雷とともに雹が降って来ました。春の嵐は大変ですが、植物にとっては滋雨の雨なので喜びがあります。ツバメを見て鹿児島での生活を思いだしました、雨の匂いを嗅いだ蟲たちに誘われて、よく雨が降る前にはツバメが飛んでいたような気がします。

・ラジオのニュースで今日大きなデモがあることを知る。出かけてみます。

・ 送られた来たAPOCC通信で、先のアートワークに参加したスタッフの感想文を読み涙があふれてきました。人間ですから現場ではいろんな感情がおこりますが、彼らと現場を共有できて良かったです。.



●2005年4月30日

西日が当たり、閑散とした通りを教えてもらった方角に歩き出した。
僕の思い過ごしかも知れないが、以前東西を仕切る壁があった当たりは、壁がなくなった今でも何か気配が違う。寒々しいというか人がいても人の気配を感じない。そこで暮らしている人々には申し訳ないが、人が暮らす建物も僕にはしばしば廃墟にうつることがある。空を飛ぶ鳥だけではなく、今では人も車も自由に行きかっているというのに、壁崩壊から15年たった今でもなぜか僕の体の中の緊張は消えたことはない。なぜなんだろうか?

そんな思いは今観光スポットになり、沢山の観光客で賑わっているポツダム広場でも同じ様な感じを僕は持っている。僕がポツダム広場に近づきたくないのは、ただ物価が高いというだけではなく、僕の中にはまだ荒涼とした空き地にキャンバスに引かれた一本の白い線のような壁と、緩衝地帯をパトロールしている東の兵士や監視犬の姿がまだ鮮明に残っているからだと思う。でもそれだけでも無いような気もする。

そして壁がなくなり分断され国家が一っになり平和な日常が戻ったベルリンの街だが壁が無くなって良かったと素直に喜ばない自分がいるのも確かだ。なぜなら僕らは壁が無くなり、西側とは異なる価値感の国家群が消えたことで自分(西側)らの姿を映す鏡を失ったと僕は思っている。
もし東西が対立したままだったら、今のアフガンやイラクの状況は確実に変わっていったと思う。ただ今ほど人々は欲望だけでマネーゲムに走らなかったと思う。言語や価値観、宗教の異なる人や社会に想像力を失うことなくもう少し生きることに人々は謙虚だったと思う。

さらに僕らの不幸は衛星TVが発達したことで世界同時に同じ文化とニュースを手に入れられるようになった。このことで僕らは未来を失ったと同時に地球は丸く、時差がある事の意味も消えた。
時々空を飛んでいる電波をハサミで切ることが出来たら、地球は幸福なひと時と未来を又取り戻せるかもしれないと、ベルリンの空を眺めながらアホなことを本気に考えたりする自分がいる。

東西を仕切る壁は人々の自由や人権を奪っていたことは事実だが、その一方で時として傲慢になる自由主義社会にブレーキをかけていたのも事実。
壁がなくなり東西対立が消えた今、この先を生きる僕らはどんな鏡に自分を映して生きるのだろうか?
自分を映す鏡を自分で探すのか、それとも他人(国家や社会)に宛がってもらうのか、どうするのだろうと考えながら歩いていたら、川縁で自分達だけの解放区を作っていた、スエットパンツの彼女たちのコミニティーのあり方が、ただ自分勝手と決め付けてはけない気がしてきた。
彼女たちは勝手には違いないだろうけどあれはあれでいいのではと思う。
でも僕も川縁で風に吹かれたい。
僕が川縁のトレーラ村で川面に出たいと主張したらどうなったんだろうか?
今度はご飯をしっかり食べたあとそう主張してみたいと思う。

ぶつぶつ一人ごとをつぶやきながら歩いていたら、反対側から歩いて来た女の子が、微笑みながら立ち止まり肩に横がけしたカバンの中から雑誌を取り出し、「読んで、ほら楽しいことがあるから」という感じで雑誌を手渡してくれた。
雑誌はA4サイズで60ページぐらいでオールカラーページだった。中をめくるとファッション、カルチャーがスタイリッシュに織り込まれいた。表紙を見るとフリーの文字が目に入って来た。フリーということは無料ということである。
これは「ただ」の雑誌なのだと気がついたとたん、僕らの不幸の一つを手渡された感じで又暗くなった。
「文化」をただにしてはけないのだ。

・ベルリンに住民登録もすませ、銀行口座もつくりました。あとは滞在VISAだけです

・廊下と洗面所に電球をとりつけましたが、お風呂に入る時はやはりローソクの灯りです。

・中古の冷蔵庫50ユーロ。タイ製の炊飯器10ユーロ。マグカップ2個に大きな皿2枚、コップ2個で4ユーロ。
タイ製の炊飯器で韓国米を炊いて千葉のお味噌でお味噌汁を作って食べています。

・冷蔵庫を運ぶときに借りたレンタカーのベンツのバンは1時間4ユーロ(560円)でした。 この金額は収入の低い人も借りられるようにとの設定です。

・5階の部屋に息をふうふういいながら、ポストマイスターが初めての郵便物を届けてくれました。
そして一言「早く名札を変えるように」と、見ると前の住民フォフマン氏の名前のままでした。

・ホワイトアスパラガスが沢山店頭に並んでいますが、アスパラと同時期に並んだのがスイカでした。
欧州は広いです。アスパラの美味しい食べ方を知りたい。

・ダンスカンパニーの新人公演と舞踏の公演に招待される。
競争がある表現と無い世界の質の違いを改めて見せ付けられた思いです。
表現はこれでいいと思った瞬間から堕落が始まるので僕も気をつけなければ。

・最上階の部屋ということもあり、部屋の窓から寝転んだ状態で夜空の星や月がみえます。この数日
月の光が窓から差し込み、まるでフェルメールの絵の世界です。



●2005年4月18日

心に気がかりなものがあり、教えてもらった方角に歩き出す前に、もう一度橋の上から、シュプレイ河縁のワーゲンブルグを眺めてみた。
水辺にはベンチが置いてあり、年かさの違う人が3人腰掛けているのが見えた。家族なのだろうか?
遠めにも、春の柔らかい光の中で、とても気持ち良さそうに、寛いでいるのが伝わってきた。僕に対応してくれた女性の姿もあった。さっきは怒鳴られた後だったので彼女の服装まで気がまわらなかったが、紫色のトレーナーにくすんだスウェットパンツで、ずいぶんとリラックスした感じを受けた。

薪をたいているのか、燃え残り半分炭化しかかった木が転がっている。黒ずんだ木を中心に人間の足跡がサークル状に土を剥がしていた。

ボール遊びをしている人の姿もあった。ボール遊びをしている彼らもまた、年齢がさまざまだった。大人の年齢は良く分からなかったが、子供たちは体格のちがいからさまざまな年齢層がこのトレーラー村で、生活していることを伺いしることが出来た。

そしてベンチの後ろの方には、煙突のついた大きなテントが建っていた。蒔きストーブでも燃やしているのか煙突からは煙がでていた。そしてテントの後方にトレーラーが見えた。トレーラーの数を数えてみると、橋の上から見えるだけでも5台有った。トレーラーの数からして消して大きなコミュニティーではなさそうだったが、彼らのライフスタイルはなんとなく分かる気がした。
トレーラーは個人の生活スペースで、テントや水辺のベンチ、グランドは共有スペースという感じだった。トレーラー同士の距離が彼らのプライバシー感を表して居るようで、興味深い。

羨ましいと思う一方で、彼らが掲げている、リスペクトの看板を素直に見れない自分がいた。そしてどことなく身勝手な印象を受ける。いつか彼らが拒否している正体を知りたいと思った。
そして複雑な気分というより、何かスッキリしない感じで、友達を探しに別なワーゲンブルグを訪ねることにした。


・昨年秋から進めていた、日本におけるドイツ年にかんする、ベルリン州の催事について、日本大使館でベルリン州の代表と日本の受け入れ側の話しあいに立ち会う。

・翌日作品の輸送の確認を作家のアトリエで行う。アトリエをみて改めて日本の住環境の貧しさを実感。
ただ悲しいというより僕も発想を変えたらいいのかもしれない。

・新しい部屋が見つかり、引越しと同時に電話も引くことができました。ただ天井が高すぎて電球がつけられずに2週間たった今でも、ローソクの灯りでの生活です。少し不便ですがどことなく贅沢な気分で悪くないです。(レミゼラブルの世界に浸っています。)

・ベルリンを知った時から、ここに自分の作品を展示したいと思っていたポツダマプラッツにある、美術館のオフィスで副館長をはじめ、学芸員の方たちと、初めてミーティングを行う。
学芸員の一人が「私達が、貴方の作品の存在知り、貴方を探し始めたら、貴方が今ベルリンに居るとしり、これは運命だと私達は思った」と。
有りがたく涙が出て来そうでした。ここにたどりつくまで25年かかりました。

・東京のイッセー尾形さんのオフィスから電話があり、写真は写っていたとのこと。恥をかかずに済み良かったです。

・桜の花だと思っていた木の花がアーモンドの木の花でした。最初に顔を覗かせた花が、クロッカスで、続いて水仙とチューリップ。そしてマンサク、今はアーモンドの花です。

・ベルリンは先週から桜が咲き始め、ノースリーブの人も沢山見かけるようになりました。今、ノースリーブの人は夏になったらどうするのでしょう。
「17歳の軌跡」の中で、北海道の金屋君が「春が好き、去年悪かった人も、今年また新しくスタートできるから、春が好きです」といっていたことを思い出しながら、微笑みにあふれた街角を歩いています。スチルムービーも新たなスタートになります。



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