HASHIGUCHI George

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橋口便り
橋口便りバックナンバー・06(2007.1〜2007.11) 


●2007.11.20

今年のベルリンは冬が早いようです。

ベルリンから今年2度目の雪の便りと一緒にポーランド人写真家Ewaさんの新作が届きました。作品は新年早々に紹介できそうです。

先日とうとう自転車が壊れました。18年もの長い間、良く頑張ったと思います。

再利用できるサドルとタイヤとハンドルをはずして、処分を自転車屋にお願いしたのですが、2日後にさらにフレームを自転車屋にとりに行きました。いつか時間に余裕が出来た時にでも、部品を探して自分で自転車を組み立ててみたいと思います。自転車屋さんも僕が手元に残して置きたいパーツを面倒がらずに外してくださいました。有難いです。吉祥寺にもまだ小さなことを大切にしてくれる店が残っているのがとても嬉しいです。


それから先週から新作を纏める作業に入りました。完成は来年2月の予定になります。楽しみにしていてください。

そして大切なことですが、先のベトナムでのアートワークの収支報告がでました。すでにAPOCCの会員には報告ずみです。このホームページ上でも公開したいと思います。


アートワークといえば、TBSの放送が、政局に(阿部さん福田さん小沢さんそして防衛庁)振り回されてしまい、延び延びになっています。週末の度にベトナムに一緒に出かけた、福田さんから延期の電話がほぼ毎週届いています。放映延期は福田さんのせいではないのですが、電話口の福田さんの声が毎回小さくなっていて、気の毒な気がします。ゆっくり待ちたいと思います。



●2007.10.6

ベルリンから17回目の統一記念日を迎えたとのメールが届きました。もうそんなになるのだと時の流れの速さに驚きました。ですが8月ワークショップを試みたベトナムは、まだ戦争が終ってから32年しかたっていないことをワークショップ期間中に気づきました。ホーチミン市にいると街の彩りや喧騒に惑わされてしまい、この国の人々が32年前は戦火の中にいたことを忘れてしまいます。街角に僕と同世代の人々の姿が少ないわけです。

アウグスブルグでのワークショップの参加者の一人ベニー(まだ彼の作品はアップできていません)が、ブラジルにある養護施設で働くために、今月頭にブラジルに向けて旅立ったとカールから連絡が来ました。ベニーはワークショップ参加前に退学が決まっていた生徒でした。そして退学後の困難も聞かされていただけに、ベニーが旅立ったとの一報には正直ホッとしました。朗報です。でもこれからも山あり谷ありでしょう。同じくワークショップに参加したサラも、勉強を止めてワイン会社で働き始めたとのことです。サラも勉強が追いつかず2年前に途中で学校を移りました。カールいわく、落第や退学(2度落第をすると3度目は自動的に転校、退学だそうです)はギムナジウムでは特別なことではないそうです。ドイツでは一度コースから外れてしまうと、そのまま社会の外に押し出されてしまうことが日常なだけに、カールみたいなちょっと自由な先生が彼らの側にいたことが幸いしたのだと思います。



●2007.9.23

報告が遅くなりましたが、ベトナムからは帰国をしています。ただワークショップの疲れからなのか、身体の疲れが抜けきれずにいます。単純に年令のせいかもしれませんが、思考停止が断続的に襲ってくるので困っているところです。(疲れが抜けきれないまま望んだNHKの公開録画は散々でした。司会の方や他の出演者のお蔭で番組の人格を損なうようなことまでには至りませんでしたが、間違いなく仕事が途切れることを確信してしまいました)

ベトナムでのことは一両日中に報告をしたいと思います。


先日、ドイツ、アウグスブルグの生徒20人を引き連れたカールと渋谷で再会をしました。カールは僕らとの久しぶりの再会で興奮気味で元気でしたが、生徒たちは渋谷の人込みにグッタリした様子でした。ただ、たまたま祭りの御輿が出ていて、ふんどし姿の担ぎ手を見た生徒の一人が「どうしてお尻をだしているのか」と不思議そうに見入っていました。冗談で「触っていいのか」と訪ねた生徒もいました。御輿が出ていて良かったです。

生徒はそれぞれホームステイをして日本文化に触れるという体験をしたわけですが、それら全てをアレンジしたカールの努力にただ感心をしてしまいました。カールのベルリンでの学生時代を知っているだけに、改めて人間の成長ぶりに驚かされています。ベトナムでのアートワークの総括や疲れが抜けきっていないというのに、僕らはアウグスブルグでのアートワークを又試みる約束をしてその日はサヨナラをしました。

実はベトナムに出かける前に、ベルリンのもっとも古い友人家族と新宿で再会を果たすことができました。古い友人という以上に作家としての僕の基本を一緒に作ってくれた僕のベルリン物語に登場する刑事ルーカスです。(本名ではありません) ベルリン物語の裏表紙に出てくるルーカスの子どものフランチェスカも18歳になっていました。来年から大学生だそうです。僕がヨチヨチ歩きのフランチェスカの手を引きベルリン郊外の麦畑を散歩していた頃の写真を持ってきてくれました。僕らは一緒にトンカツを食べて、歌舞伎町を散策しましたが、20年前にベルリンの街を一緒に歩きまわっていた頃のことが蘇ってきてなんとも言えない夜になりました。

僕は確認をしていないのですが、交流使としてベルリンに滞在をしていた折、僕のワークショップに参加した学生たちの何人かが僕との対話のことをネット上に書いているらしいのです。ルーカスはその書き込みを見つけて僕がベルリンに滞在していることを知り僕を探していたとのことでした。実はこの月も月も僕はベルリンに居たことを話すと「おっ」と一言発して呆れられてしまいました。ただベルリンの壁がなくなり、東西ドイツが統一して街の様子が一変したことはルーカスも分かっているので、僕がベルリンへの新たな入り口を探して模索している途中だということは理解してくれたようです。

カールにしろルーカスにしろ互いに年令こそ違いますが、ベルリンの街角で「何か」を一緒に探した友だけに、打算ではない心の繋がりの確かさを感じました。

「ベルリンの新たな入り口を探している」と書きましたが、月の滞在で少し糸口が見つかった気がします。写真集「BERLIN」以後、ベルリンで写真が撮れなくなっていた理由も分かりました。理由が分かったからといって直ぐ写真が撮れるわけではありませんが、来年1月に発表する写真集が手を離れ次第、またベルリンと向かい合いたいと思います。

余談ですが、ベルリンの書店では、順調に写真集「BERLIN」と新装本「Couple」が動いています。あり難いです。それからまだ少し先の話ですが、雑誌「世界」の新年号でポーランドからドイツに出稼ぎ(アスパラ、苺、ブルーベリー摘み)に来ている労働者をルポしたポーランド人作家の作品を紹介できることになりました。



●2007.6.14

いくつかお知らせです。映画「雲南の少女 ルオマの初恋」がいよいよ今月16日から東京都写真美術舘ホールで一般公開される運びとなりました。(随時全国35館の映画館で公開されていくそうです)。公開に先立ちポスターが下記にあるように駅張りされるとのことです。都内の限られた場所になりますが、近くの方は気をつけて探してみてください。「雲南の少女 ルオマの初恋」に関するチケットからポストカードとチラシ、カタログ、ポスターらをADの町口さんが手がけてくださいましたが、ポストカードとチケットの仕上がりが素晴らしいです。

JR新宿駅 日程:6/13〜6/19

JR渋谷駅 日程:6/13〜6/19

JR恵比寿駅 日程:6/15〜6/21

東京メトロ恵比寿駅 日程:6/15〜6/21

東京メトロ渋谷駅 日程:6/13〜6/19


1年ほど前から知人の助けによりベルリンの2箇所で僕の作品集が並んでいます。現在は2箇所ですが少しずつ広げて行くつもりでいます。ですが2箇所とはいえ自分の作品集がベルリンの街に常時並んでいることはこのうえない喜びです。

ヘルムトニュートン美術舘(Zoo駅の横)
名称:写真博物館 / ヘルムート・ニュートン財団 
Museum fur Fotografie / Helmut Newton Stiftung

ビヒャホーゲン
Bucherbogen ザヴィニープラッツ
Bucherbogen am Savignyplatz GmbH
住所: Stadtbahnbogen 593      10623Berlin (Charlottenburg)
ホームページ(http://www.buecherbogen.com/)


ポーランド人写真家のエバさんの写真展がベルリンで開かれることになりました。エバさんは社会が定義する「美しいもの」「消費される裸」に対する問いがテーマです。エバさんとは2004年にブタペストの国際交流基金事務所で出会い、その後作品作りを助け合ってきています。

GACERIE −SALONPETRA
HOBECHT STRASSE−12047 BERLIN
TELFON−0049−30−21109539
会期 29,06,2007〜27,07,2007
オープニングは29日19時からです。


吉祥寺、ドナテローズの写真が変わりました。旅の始まり〜そのT中国雲南

そしてお知らせの最後は、インドでのアートワークを助けてくださっていたショビットさんの結婚式がこの5月ヴァラナシで3日間に渡り繰り広げられたそうです。APOCCの会員で長野の清水さんが結婚式に参加され祝福の時を分かち合ってこられました。



●2007.6.3

引越しさせた作品の整理はまだ途中なのですが、少し時間に空きができたので、10日間程ベルリンに出かけていました。

先のドイツ滞在で助けてもらった知人の展覧会の準備の手伝いが一つと、前々から考えていたベルリンでの作品造りの為に、次に向かうリズムを身体に覚えさせる為でしたが、久しぶりに少し長めの原稿を抱えていた為に、2人の絵描と食事を一緒にした以外は、ほとんど机の前に噛りついていました。それでも仕事の合間に朝夕と散歩を楽しめたので短いなりに満足できた滞在でした。ベルリンは本当に良い街です。ファッション雑誌と伴奏しあっているような東京とは違い、流行すたりに関係なく自分の好きな格好で、年齢、性別、体型に関係なく颯爽と歩いている様を眺めているだけで心踊り安心するものがあります。ふくよかな胸に大きなおしり。歩き易そうな靴。道行く人が人間の身体をしているのはいいものです。

知り合いのカフェやピザ屋の主人は僕の顔を見るなりぐちゃぐちゃな笑顔で飛び出して来て、身体全体で再会を喜んでくださり、僕を見つけた人が、走る自転車を止めて、通りの反対側から手を振ってくれたり、久しぶりに洗濯に出かけたランドリーで、使い方を忘れてアタフタしていると、洗濯に来ていた他の人たちが親切に教えてくれたり、小銭がなくて困っていると、50セント(約80円)くださったりと、心の栄養をもらいに行った感じでした。

長い冬が終わり、春から夏に向かっていて、木々も人間も喜びを隠さない街角で、今まで見たことのない光景に2度も出会いました。ドイツ統一、そしてEUが拡大したことで生きる場を求めて東欧から流れ込んで来ている人びとが増え、ベルリンの人びとの心の中に静かな変化が生まれているようです。これからアートワークや作品集造りが控えていますが、隙間を見つけて東京とベルリンを行ったり来たりしながら作品を作って行きたいと思います。



●2007.5.16

たまたま近所に収納場所が見つかったので、先の連休を使い作品の引越しをエイヤーで決行しました。リビングから善福寺公園の森が見えます。ただ全てを移すことができたのではなく、常備していた額や好きで集めた写真集は知人の家に預けての引越しになりました。30年分の作品だけに引越しは運送屋さんが2日がかりでした。

作品を梱包している時、アルバイトの少年が作業の手を止め作品を一枚一枚ゆっくり見入っているのです。少年の作業を止めた作品は僕のデビュー作「視線」でした。少年は仕事と暑さでのぼせたのか、ハナ血止めに鼻の穴に新聞紙を詰め込んだ格好で正座をしながら静かに見入っていました。少年の感情が周りで作業を進めている人たちに伝染したのか、周りの人も手を止めそんな少年を堰かすことなくしばらく眺めているのです。一瞬ですが、埃が舞う部屋に不思議な時間が生まれました。少年は正座したまま身体を捩りながら僕の方に振り向き「お客さんが撮ったんですか、何で撮ったんですか」と訊ねてきました。お客さんという表現が可笑しかったのですが、少年はとても真面目な視線を僕に投げてきました。視線の作品は1989年ですからハナ血少年はこの世にまだ生まれていないわけですが、シンクロする何かがあったようです。もちろん僕はその日の作業の終わりに、少年に「視線」の写真集をプレゼントしました。


ベルリンはこのところ春の嵐が吹き荒れているようで、強い風と一緒に時より殴りつける様な雨が降っているようです。様子を聞く限り亜熱帯の天候みたいです。きっと前線が動いているのでしょう。

嬉しい話。

東京で僕のアートワークに参加した原田君から写真展の案内が届きました。アートワークの参加者には芸術系の学生も4、5 人いたのですが原田君はたしか違ったと思います。それだけに嬉しいDMでした。しかも女の子との2人展というのがニクイです。ただ間抜けなことにそんな大切なDMを引越しの作業で見失ってしまいました。確か新宿南口にあるギャラリーでこの17日からだったと記憶しています。乱暴な説明ですが時間のある方は新宿南口にあるギャラリーを探してみてください。

そし
先の選挙の最終日に、「17歳」を発表した頃何度か会ったことのある「サイトウ シンイチ」氏に吉祥寺の駅前で声をかけられました。彼は武蔵野市議に挑戦をしているとのことで、胸からタスキをかけ、「勝たなければ意味がないのです」としゃがれた声で強く自分の意思を僕に伝えて来ました。僕は数年ぶりに会ったにもかかわらず、その時知人と会う約束をしていたので、サイトウ氏の演説を聞くことなくその場をさよならしたのですが、約束があったとはいえ、彼の主張に耳を傾けることなく立ち去ったことに対して、後ろめたいものを感じていたのですが、後日、サイトウ氏が見事当選したことを新聞で知り安堵しています。原田君は写真で、サイトウ氏は議員として社会と対峠しようとしているのが嬉しいです。

僕がサイトウ氏に会った頃、僕の講演を学生時代に学校で聞いたという方に同じように吉祥寺で声をかけられました。彼女は「中島たい子」さんといい、吉祥寺を舞台にした作品でスバル文学賞を受賞し、小説家として静かに高い評価を受けています。(知人がそう説明してくれました)そんな中島さんの新作「建てて、いい?」が講談社から発表されています。路上仲間だと思い中島さんの作品も探してみてあげてください。路上といえば、原田君と一緒のアートワークに参加した一人が吉祥寺の住民にいるのですが、彼女に昨年末に書いた年賀状を手渡ししようと思い持ち歩いていますが、5ヶ月過ぎた今でも手渡せずにいます。前は駅ビルで偶然行き会っていたのですが、彼女の生活のリズムが変わったのかもしれません。

ベトナムでのアートワークは旧南北ベトナムの2箇所で試みることになりそうです。



●2007.4.26

先日撮影の為に信州に出かけて来ました。一つの視線の中に町並みと山並みが一緒に納まる光景を久しぶりに堪能できた気がします。お昼を食べに入ったお店で、地元雑誌の写真を撮る仕事をする傍ら、自分の作品を撮っている30代の男性に声をかけられました。彼は葉書よりふた周りほど大きなサイズの冊子を自費制作していました。印刷費は印刷所の好意で、紙と製本代を自分で捻出しているとのことでした。作品は視線のばらつきや、レンズの選択ミス(おそらくズームレンズが持つ悪い面がでていたようです)が気になりました。自分の気持ちを具現化するにはまだまだ時間がかかりそうでしたが、彼が自主制作してまで自分の世界を探そうとする営みの裏にある思いがなんとなく伝わってきて、そんな思いが詰まった写真集を目の当たりにすると、胸が熱くなるものを感じました。

彼だけでなく表現の世界を目指す沢山の人が毎年、学校の門を叩き、また卒業して行くのでしょうが、その中で自分の表現を手にいれ社会の中で活動できて行くのは、本当に一握りの人たちです。多くの人が自分のオリジナルな世界や表現を手にいれられないまま、消えて行くのが表現の世界の現状です。だからこそオリジナルな表現を手にした人に社会は敬意を払うのだということが、この10数年薄くなっている気がします。写真の存在そのものが複製であるだけに、眼差しや語り口にこそ価値や意味があることをもう一度考えてみる必要があるのかもしれません。なぜなら自分の表現を手に入れられず消えて行く人の中には、他人が創り上げた世界観を模倣してまで、世の中に認められても意味がないと、もがき苦しんで消えて行く、人間として誇り高い人も少なからずいると思うからです。


先の便りでもそうですが、僕は自分が属する写真の世界や、写真文化とその環境にいつも往生際悪く拘ってきています。俺とは関係ないと片付けてしまうのが一番賢い処世なのでしょうが、僕は自分の力だけで今日を迎えているのではないという思いが有るだけに、ついつい関わりを持ち続けて来ています。なぜそんなに拘るのかというと、僕が社会と繋がることが出来ているのは、写真という表現があったからです。写真だけではなく、作品さえあれば、社会におもねることなく等しくスタートラインに立たせてもらえた社会環境が存在していたということに対して、そんな環境を作ってくれていた先人たちに僕は深く感謝をしています。だから手渡してもらったものは、又後から来る人に手渡さねばとの思いからいろいろ模索しているのだと思います。

話がいきなりとびますが、随分前に吉祥寺が嫌いになり始めたと、この場で書きましたが、それは吉祥寺が観光地化して賑わってきたからとかではなく、ホームレスの支援誌、自活、自立への手がかりとして存在している、雑誌「ビッグイシュー」の路上での販売が吉祥寺の街の路上では出来ないことを知ったからです。販売禁止を決めた人たちは、それはそれで行政をつかさどる人たちの思想でしょうが、(考え方や、排除の論理は大いに検討する必要はありますが)その片方で吉祥寺には路上ライブをしている若い人たちが沢山います。路上ライブしている人たちは、「ビッグイシュー」をこの街では売ることが出来ないという事実を知っているのだろうかと素朴にそう思います。なぜなら路上ライブをしている人たちと、自立する為に本を売る人たちは同じ地平に立っている気がします。

そしてこの年齢になると良く思うのですが、僕に写真(作品)がなかったとしたら、僕は今頃、確実に路上生活者に近いところにいる自分の光景が容易に想像できます。なんやかんやと、難しくいろいろ考えあぐねていますが、僕が一人考えていたからと言って、簡単に何かが変わるわけではありませんが、ぶつぶつ言い続けることだけは続けたいと思います。

楽しい話。


陽気のせいかもしれませんが、自転車を思い切り漕いで競走している人たちを同じ日に2度も見かけました。最初は小学生の低学年の子が、走り去るタクシーや車を相手に顔を真っ赤にしながら信号と信号の間で、果敢に挑んでいました。そのあと、髪の毛をおったてて、わざと服をだらしなく着くずし、何人かは女の子を後ろに乗せた中学生ぐらいの少年たちが、7、8人咆哮しながらママチャリで競走しあっていました。競走というより友達同士で蛇行しながら自転車を漕いでいるのが、意味もなく楽しいという感じでとても羨ましい光景でした。

ベトナムでのアートワークの準備、雑誌「世界」の表紙が変わったのに合わせて、ADや担当者が変わり、意思疎通に時間をとられてしまい、あいかわらず心に余裕が持てずにいますが、信州で触れることができた柔らかい心を大切にして、走る車に自転車で挑んでいた小学生の様に生きたいと思います。


●2007.4.14

桜もあっという間に散ってしまいましたが、僕の部屋の窓の外に生えている八重桜はもう直ぐ満開になりそうです。ケヤキの木も眩しい程の若葉をつけ始めています。本当は今頃ベルリンにいる予定だったのですが、ベトナムで試みるアートワークの準備を今月中に固めなくてはいけないこともあり、エイヤーでキャンセルしたところです。これでキャンセルは昨年末に続いて2度目。キャンセル料はもったいないのですが、そのこと以上に昨年末から友達にカレールーを買っていく約束も果たせないままになっていることに胸が痛みます。

アートワークの書類作りと平行しながら、作品集が一息ついたついでに、山のように有る作品のプリントの保管場所を移すつもりで今動いています。ですが作品の量が量だけに収納場所を確保するのに一苦労しているところです。写真の大敵は湿気です。そして日本でもっとも湿気が少ない場所の一つが今住んでいる吉祥寺の周辺なのです。近所に田無という地名があるぐらいですから、水に縁のない土地だけに乾燥した良い場所なのですが、交通が便利なうえに、最近の吉祥寺は観光地化しているだけに保管場所も高く困っているところです。作品はともかくとして沢山ある写真集、本、常備している額を知人の家にあずけたりしながらスリムな体制を作ろうかと今考えているところです。

先日、雑誌「世界」のグラビアの選考をしましたが、久しぶりに30代の女性作家の作品が選ばれました。これまでも女性作家の応募は無くは無かったのですが、応募作品の傾向が2つにハッキリと分かれていました。ふあふあした写真で「私」の世界に拘った写真か、海外の紛争地に出かけて来ましたという写真のどちらかでした。「私」に拘ることや、紛争地に感心を持つことは悪いことではないのですが、いずれも「私」「紛争地」を超えられていない作品が大半でした。この数年、女性作家の作品をグラビアで紹介する機会が殆んど無くなっていただけに良かったです。「私」の世界をそのまま作品として提出することの善し悪しがもう少し論議されるべきだと思うのですが、好きか嫌いかで片付けられているのが残念です。表現されたものや、スタイルに関係なく「私」は作品の中に必ず存在しているはずなのですが、僕には日本の写真の語られ方が良く理解できません。むしろ「この写真は今良く売れている商品なんだよ」と明快に言い切る人がいれば、今評判の写真の正体も分かるというもの。

僕が写真で生きようと考え始めた頃と、今とを簡単に比較することはできないですが、僕が始めた頃は大きな壁とこの先どうなるか分からないという闇が存在していたと記憶しています。壁は擦り寄るのではなく、打ち破る存在で、闇の向こうには一生懸命生きれば必ず出口があると信じて、デパートの配達やちり紙交換のアルバイトをしながらフィルム代を稼ぎ自分が気になる世界にカメラを向けていました。(肉体労働でお金を稼いでいたのは、今みたいにアルバイトも多くなかったことに加えて、お金を手に入れるのなら、肉体を使わないといけないという、労働とお金に対する僕なりの敬意と哲学から来ていました。)

その頃はすでに写真展を開いたことがある人に出会うと、作品を知らなくても自然に尊敬の念が湧いたし、ましてや作品集を出している人に対しては、一つの世界を手にしている人だとの思いから、畏怖の念すら感じたものです。今は作品を発表する場所も、作品集を作る機会も増えているようです。ある意味、表現が民主化されたと言ってもいいのかも知れません。

ただ写真展や写真集のハードルが低くなった分、達成感や感動も薄くなっているような気がしてならないです。それに加えて他人の表現に対する敬意も薄くなったのでしょう。写真に限らず表現の世界はスポーツと異なり優劣の基準がないので、家元というか「お仲間世界」が出来ています。他の分野は良く分からないですが、写真の世界は「お仲間」だらけなようです。ただいくら日本が「お仲間世界」とはいえ、「私」的世界を表現する人たちが、群れたがる傾向が強いのをみると、表現された「私」的世界が僕にはさらに理解不能になってしまいます。以前も触れたかと思いますが、文章や絵画の世界はある程度の時間と修練が必要ですが、写真の場合、カメラを買ったその場でフィルムをつめれば写真は撮れてしまいます。写真が持つ特性は誰でも撮れてしまうことですが、その特性が逆に写真文化を薄めて軽くしてしまっているのが皮肉なことです。

ただ多くの人が「お仲間」の元にいたいのは、少数派になることや弾かれることに対する不安から来るものが大きいと思うので理解できなくはないです。でも表現は元々孤独な営みなはずなのですが、今の日本の現象はやはり僕には良く分からないです。表現が民主化されたことで、写真が撮れれば嬉しいという人たちと、写真表現を通じて社会と対峙しようとしている人たちがごちゃ混ぜになってしまっていることが、混乱をうみ写真表現をつまらなくさせているのかもしれません。でも僕はけして権威主義者ではないので誤解をしないでください。写真家と写真評論家の距離のとり方だとか、沢山ある写真の賞が変な協議制にしないで、個人の偏見と思い込みで選ぶとか(恣意的なことが多々反映されているにも拘らず協議制の振りをしているのが変なのです)。「世界」のグラビアを僕が中心になり選んでいるのは、責任の所在をハッキリさせること、そして僕が選ばれた人と会わないことと、知人が応募して来ないのは、僕ができるだけ「世界」のグラビアを公正な場として残したいことを理解してのことです。少し話がそれたかもしれませんが、「世界」のグラビアは勿論ですが、カメラ雑誌にしろ、「公」の場だという意識を皆が再確認することが「お仲間」の弊害が少しは薄まり写真が再度エネルギーを取り戻すことに繋がるかもしれません。

今月号のアサヒカメラに木村伊兵衛賞の本年度受賞者と歴代受賞者のコメントが載っていますが、心に残ったのが、2年前の鷹野隆大氏のコメントでした。彼のコメントには人間の息遣いみたいなものを感じました。人生に対する不安に加えて人間がもつ不可解な感情と生物としての生理が写真という科学の結晶みたいなものと、融合することで未知の表現が生まれる可能性が残されていることを感じとることが出来ます。年齢こそ違いますが、彼のような生理感覚を持った人が写真の現場にいることに希望を感じます。ただ彼は毎日写真を撮らなくてはいけないという脅迫概念にとらわれているようで、そのことが少し気がかりです。周りの無責任な雑音にふりまわされることなく、氏の固有な時間軸と世界感を見せてもらえる日を気長に待ちたいと思います。

もちろん僕も頑張りたいと思います。後10年頑張ろうと思い、先日健康診断を受けてきました。まだいくつかの検査が残っていますが、胃カメラで映し出された胃の状態を見ていた、先生と看護婦さんが「ワー綺麗、綺麗だ」と感嘆の声が麻酔で朦朧と仕掛けた耳元に響いてきました。僕はベッドに横になり身体は痺れながらも、気持ちはまだやれるぞとガッツポーズをしていました。そして痺れが残ったまま自転車にまたがり、風で桜の花びらが舞う中をサドルに腰を下ろすことなくつま先立ちでペダルを漕いで帰宅しました。