HASHIGUCHI George

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橋口便り
橋口便りバックナンバー・08(2009.1〜2009.12) 


●2009.12.17

ベルリンはこのところ雨の日が続いて例年になく暖かい気がします。たぶん何時か雨が雪に変わるのでしょうが、寒い冬のベルリンが好きなだけになんとなく拍子抜けした感じです。それにベルリンは相変わらず街中工事だらけで、そしてさらにまたギャラリーが増えた気がします。

昨日、講演会の後、続いていた打ち合わせ等がやっと一息ついたところです。講演会の方も無事に滞りなく終了しました。会場となったベルリン日独センターはベルリンの郊外に有ることは聞いてはいたのですが、地下鉄のホームを出て地上に上がると、辺り一帯を包んでいる暗闇に驚いてしまい、山の中の温泉宿を探している気分に襲われてしまいました。

ベルリン日独センターは道路向かいにあったにも拘らず、僕は気付かずに、地下鉄のエントランスにあるインビスに、地図片手に「ここはこの駅で大丈夫ですか」と尋ねたぐらいの場所でした。こんなとこまで人が来るのだろうかと不安が一瞬よぎりましたが、日独センターの周りに松の木を見つけると、何時ものように身体が条件反射的に反応してしまい、気持ちと目は薄暗い中でキノコを探し始めていました。不思議なもので、キノコを探している間に、いつの間にか講演会に人が集まるのだろうかという不安は吹き飛んでしまったようです。松の木があって良かった。

お蔭様でというか、講演会の方は、日本大使館の方たちやベルリン日独センターの方たちの努力のお陰で補助イスを使うほど盛況でした。ただ僕が少し長く喋りすぎてしまい、討論の時間が殆んどとれなくなってしまい残念でしたが、全体的には好評だったようです。

僕の写真がというより、時代や社会に対する僕の考え方や感じ方がベルリーナたちに受け入れられた気がしました。受け入れられたというより、一つのことを意志を持って持続させている人間に対するリスペクトだと判断した方が正しいかもしれない。スイスやフランスのパリから講演会のために足を運んでくださった人や、講演会の後、励ましの言葉を届けてくださった関係者の方や、ドイツ人女性と親しくしなさいと、2度も言いにこられた初老のドイツ人婦人や、ベルリンに最初に来た時からの知り合いで、刑事のニルスの顔も有りました。

講演会が無事に終わり、ベルリンとドイツとその先のドアのノブにやっとこれで手がかかったかなという思いです。

これから先のことはともかくとして、路上にいる僕を表の場に引っ張りだしてくださり、この様な機会を用意して、助けてくださった皆さんの好意を無にすることなく、次に繋げていけるよう静かに努力をしていきたいと思います。

後日、打ち合わせの合間にバレーの『白鳥の湖』に招待してもらいましたが、4時間近い長い演目にも拘らず、演ずる人たちは勿論、大勢の観客の集中力にただ圧倒されてしまいました。僕を招待してくださった人に花をもっていったのですが、華やいだ世界に気後れしてしまい用意した花を渡せずアパートに持ち帰ってしまいました。情けないです。花は今、僕の台所の窓のところに飾って有ります。

後、とてもいい話があります。僕が雑誌「すばる」に原稿を書き始めたことは先の便りで紹介しましたが、その号が何故か印刷が薄く、写真が貧弱に見えたんですね。僕はそのことに対して余り気にならなかったのですが、編集部の人たちはとても気にしてくださり、公の場に残す20部だけ印刷をやり直してくださいました。そしてその20部の一部をベルリンまでわざわざ送ってくださったのです。想像してみてください。大量にあっという間に刷り上ってしまう印刷システムの中で、わざわざ20部だけ印刷をするということを。

効率や採算だけが優先されている今の時代に、この様な心使いをしてくださる編集者と出版社がまだ有ることは、大きな励みになるし、勇気が湧いてきます。

ベルリンの街の話はまた次の機会か雑誌「すばる」で書きたいと思います。僕は元気なことと、講演会は無事に終わったことを報告します。尚、講演会の様子は日本大使館のホームページで近々UPされるようです。今朝、突然寒波がやってきました。歩道の水溜りには氷が張り耳がちぎれるほど痛いです。




●2009.11.21

この間沖縄で、タテタカコさんのピアノ伴奏のもと、初めて17歳のテキストを自分自身で読みました。自分で朗読してみて朗読がいかに大変なことか肌身で分かった気がします。大変というより他人の人格を背負うことは写真を撮ること以上に恐ろしいことだと実感しました。朗読したテキストは僕がインタビューをして、彼らの一人称として纏めた内容ですが、声を出して読んだことで、彼らの感情が言葉を通して改めて僕の身体に入ってきた気がします。


実はその日の朝、ホテルの斜め前にあった、シアトル系のカフェで読む練習をしましたが、涙が出てきてテキストの最後まで読み切れなかった。纏める作業や、目読していた時には出会うことなかった感情に触れられた気がします。そして朗読を試みたことで、テキストの中の彼らと僕の間に生まれた何かを感じました。そのことを言葉に置き換えることもできますが、ここでは敢えて触れないでおきます。

スチルムービーという表現を始めて10年になりますが、自分で読んでみて良かった。タテさんも頑張ってくださって良かった。入りの音楽は決めて臨みましたが、最後の曲は、タテさんが朗読を聞いて感じたその後、歌いたい曲を歌うという乱暴な設定、でもある意味とても自然なことですが。しばらくの沈黙の後、タテさんは歌い始めてくださいました。タテさんが17歳の彼らの心に触れてくださったことを、しばらく続いた沈黙が物語っていたと思います。

そして偶然ですが、僕らの後、ステージに上がられた写真家で映画監督でもある本橋さんと歌手の友部正人さんは古い知人です。そして本当に久しぶりの再会でした。本橋さんも友部さんも長きに渡り自分自身の思いを音楽や映像に転化させて今日を迎えている人たちです。そんな人たちと同じ場を共有できて良かった。単純な僕はこれでまた少し頑張れる気がします。

偶然は他にも幾つもありました。僕を沖縄に呼んでくださった方のお母さんと僕は14、5年前に長崎で言葉を交わしています。その時は自分の夢に向かって生きる息子さんをたいそう案じてられましたが、その息子さんが大人になって僕を沖縄に呼んでくださったのです。僕の本を読んで沖縄に居ついてしまったという人とも二人会いました。それにここしばらく疎遠になっていた歌手の知人から、隣町に講演に来ていると記された手紙が劇場に届けられていました。ベルリンでの講演会の準備があるために僕はあくる日東京に戻りましたが、動き始めるということは、こういうことなのかも知れません。




●2009.11.3

いくつか報告があります。

集英社発行で11月6日発売の月刊誌「すばる」で「壁崩壊20年・ベルリンが世界に問いかけるもの」と題したベルリン特集が準備されています。

寄稿している人たちは、ベルリーナからベルリンで活動している詩人や演劇人、翻訳家、ドイツ人社会学者とさまざまな布陣です。そのベルリン特集の入口の部分を僕が担当させてもらいました。久しぶりに長めの原稿です。ベルリン特集は12月号だけですが、この先もしばらくすばるに寄稿することになりました。(不定期になりますが)

実は集英社にも古い知人が何人かいます。昔一緒に仕事をした人たちですが、年齢的に皆、偉くなっています。僕がすばるで仕事をすることになったことを、編集部の一人が役員の一人に伝えたところ「おうジョージか」と返事が返ってきたそうです。編集者はそのリアクションに驚いたそうですが、偉くなってしまった知人たちの安堵する顔が目に浮かんできました。

11月13日に沖縄の那覇にある、桜坂劇場で歌手のタテタカコさんとご一緒することになりました。後、二週間もないというのに、この段階で内容が決まっていません。恐ろしい気もしますが、引き受けた以上、なんとか形を整えたいと思います。

11月26日にドイツ、ベルリン日独センターで、在ドイツ日本大使館主催の、僕の講演会が開かれることになりました。壁崩壊を記念しての講演会になりますが、内容は1981年にベルリンの街に出会ってから今日までの僕の仕事の軌跡を見てもらうと同時に、ベルリンで学んだことや考えたことを、ナショナルミュージアムの学芸員の司会進行により、ベルリンの写真歴史家も加わり対談をすることになりました。(同時通訳つきです)

雑誌「すばる」もそうですが、講演会は本当にさまざまな立場の人たちの思いと好意が結集され、場が用意されました。

有難いと思うと同時に、興味を持続させることの大切さを改めて噛みしめています。 

そろそろ再始動をと、考えていた矢先のすばると講演会の話だけに、何かが流れ始めるのかもしれません。








●2009.10.11

この季節、雨の日が続くと森のキノコが喜んでいるかと思うと楽しくなるのですが、台風で、災害や作物等に影響が出ないことを願っているところです。

それにしてもこの一か月間は、短い間にいろんな出来事があった気がします。

オリンピックがリオデジャネイロに決まって良かった。僕は東京オリンピックの時には家にTVもなかったこともあり、殆ど印象に残っていないのですが、ソウルオリンピックは開催前の韓国、ソウルを仕事で何度も訪ねていたこともあり、開催後の韓国の人たちが、意識や佇まいが誇らしげに変化していったことを肌で感じることが出来ました。そのことを考えるとリオデジャネイロやブラジル、南米の国々がオリンピック開催を目指し体験することで、社会と人々が豊かになっていくことが想像できるだけに、今回の決定はより良い選考だったと思います。

それにブラジルは日本が貧しかった頃、日本人移民を沢山受け入れてくれた国で、そんな歴史の経緯を考えると、ある意味ブラジルは親戚みたいな国です。東京、日本は開催都市、開催国には選ばれませんでしたが、ブラジルで開催されるオリンピックの為に日本が出来ることは沢山あるような気がします。

オリンピックを東京に招致したい人たちの気持ちは分からなくないですが、オリンピックという御馳走を何度も一人じめしてはいけない気がするのと、この十数年の日本は毎日がお祭り騒ぎで、目くらましをされたみたいに、意識が暮しの足元から離れ過ぎていたので、社会が立ち止まる意味に置いても僕は今度の落選は良かったと思っている。

政権が代わってからまだ時間は経っていないですが、なんとなく明るい空気を街角で感じるようになった気がします。長期に渡って堆積した問題や日本の体質がそうそう簡単にかたづき変わるとは思わないが、新しい閣僚たちが悪しき日本的なものを取っ払おうとしていることや、面倒なことを引き受けようとしていることが伝わってきて、勇気と希望が湧いて来ます。

先の選挙で、長崎から立候補して当選した福田衣里子さんの演説をTVニュースで聞いた時は涙が出て来そうになりました。「底辺で生きる人たちの手となり、耳となり、口となり、私はそんな人たちの為に働きたい」と彼女の演説を聞いた時に福田さんには一人一人の顔が見えている。福田さんが人々の横に一緒にいる感じが伝わって来ました。

そしてアメリカのバラク・オバマ大統領の演説に触れた時に感じた同じ様な人間の声、感情を福田さんからも感じました。彼女もまたオバマ氏同様に自分の体験を通して言葉を手にいれた人だなとそう思いました。日本の為にも福田さんみたいな方が当選をはたされて本当に良かった。

世間に疎い僕は、酒井法子さんのことは、今度の事件で始めて顔と名前が一致しました。いろいろ議論や批判があるでしょうが、法律で禁止されていることを犯したことは罰されるべきことですが、薬物の常用はまた別な視点で考えないといけない。僕は常用は犯罪ではなく病気だと位置づけないといけないと思います。酒井さんがマスコミで揶揄されるたびに、日本中で息を潜めている、さまざまな依存症の人たちが、さらにさらに引き籠って隠れてしまうことが気がかりです。

実は、3号まえの「世界」の表紙に自傷行為をしている人に登場してもらいました。「世界」が発売されると同時に編集部に少なくない激しい抗議と、店頭では購買拒否が起きました。その抗議に対して「世界」の編集部と編集長はキチンと一つ一つ対応されたようです。それは謝るのではなく、自傷行為を繰り返している彼女の存在は自分たちの問題であるとの認識からだったろうと僕は想像します。自傷行為がいいとは僕も思いませんが、ただ一つ言えることは、表紙に登場してくれた彼女は、自分が生きるために、他人を傷つけることなく、自分自身を傷つけているという事実です。表紙に登場した彼女が「自分がそこ[街]にいるだけで、不愉快になる人がいるかと思うと、部屋から出れない」と言葉にしました。

薬物依存、アルコール依存、消費依存、タトゥーを含めた自傷行為にしろ、「ファッション」と「常用」の見極めは非常に難しいです。経済破綻の陰でそんな問題がかき消されていますが、この十数年、心の問題は深まるだけで、個人が抱え込んだままです。




●2009.9.8

以前僕のアシスタントだった山下聡子が、彼女が企画編集した本を届けてくれました。


「バードウォッチングの楽しみ方」
鳥くん(永井真人)著/エイ出版社/1,365円(税込)

(本当は、山下は独立した人ですから、さんとか君とかつけるのが礼儀なのですが、長い間、苗字だけで呼んでいたこともあり、僕とアシスタントたちとの関係性の近さだと理解してください)

山下は僕のところを離れた後、自作の朗読会を開くかたわらで、長きに渡って対価の伴わない三宅島の復興支援を文化面からサポートしてきています。文化支援という脇役としての関わりだけに、一般の人には、彼女の存在、活動はなかなか見えづらいものです。

山下とは時々メールや、そして本当にたまにですが、吉祥寺で会い、彼女が関わっている仕事のことや近況を知らされていました。話を聞くたびに彼女の意思というか、生きる矜持(昔のやくざ映画チックですが)を言葉の一つ一つに感じさせられていますが、山下の仕事の一つが世の中の表に出てきたことを、ここに皆さんにお知らせします。

著者である鳥くんとは、やはり三宅島関連での出会いだそうです。

本が届く前日の夜、僕は久しぶりに青山で開かれた和太鼓のコンサートに出かけて来ました。実は僕は20年ほど前にキューバとドミニカで和太鼓のコンサートツアーを約一か月かけて試みたことがあります。一年間の準備期間を経て、総勢19名からなる、キューバ、ドミニカ公演を実現させたわけですが、その際、僕の仕事の傍ら、援助団体や受け入れ国などとの交渉を一手に引き受けていたのが、山下でした。

当時は山下をはじめアシスタントたちがしっかりしていたこともあり、僕の手元に間違ってお金があった時期でした。そして後先考えずに「和太鼓ツアー」を口ばしってしまったわけです。(普通なら、そのお金でアトリエや住居を確保するのでしょうが、計画性の無さから、いま作品の置き場等に困り果てています、でも楽しいですが)

そして、どうせやるなら一流の人たちをキューバに届けたいとの思いから、佐渡の「鼓童」石川県の「炎太鼓」そして「石見神楽」を舞う人たちに「ギャラは出ません、場合によっては持ち出しがあるかもしれません。でもきっと日本人移民の人たちが喜んでくださる」と声をかけて参加をしてもらいました。

青山でのコンサートには、キューバに一緒に行っていただいた、浅野太鼓店の人たちに、炎太鼓のメンバー、鼓童の藤本さん、鼓童から独立して活動している金子さんらの懐かしい面々の顔がありました。舞台担当の野崎さんもキューバで一緒だったのですが、舞台の片づけが忙しかったのか会えませんでした。

懐かしいと思いつつも、皆さんに苦労をかけてしまったという負い目みたいなものを僕は20年たった今も抱えていて、そんなないまぜな感情を持ったままコンサートが終わった後、楽屋を訪ねました。そして楽屋で太鼓打ちの人たちと顔を合わせた開口一番「あの時は楽しかった、あれからどんどん外の太鼓グループとセッションできるようになった」と声をかけられました。高いレベルの実績を積み重ねて来ている人たちの、思いやりの籠った言葉に涙がでそうでした。

かなり話は脱線してしまいましたが、山下が手がけた仕事が届いた日と、キューバ、ドミニカで助けていただいた人たちのコンサートが重なったことに、何か強い縁みたいなものを感じています。

友達が山中湖に新しく、カフェギャラリーをオープンさせました。
友達いわく、日本一最高のロケーションだそうです。
僕のベルリンの作品をコレクションすると言っていたことは、この風景の中ですっかり忘れてしまっているようです。


近くに行かれた方は、寄ってあげてください。





atelier  ptica 
 アトリエ プティカ
atelier-ptica@carol.ocn.ne.jp
〒401-0502 山梨県南都留郡山中湖村平野字向切詰483-2 
tel&fax:0555-62-6116
夏の営業時間13:00〜夜遅くまで。火曜定休(お茶・お酒有り、食事は今のところ思案中)
coffee
700〜他




●2009.8.16



声明文を読み上げる生徒たち


この夏、蝉7匹とカブトムシ一匹が部屋に飛び込んできました。網戸にぶつかる蝉は毎日数えきれないぐらい。


ベルリンの大星君から新聞のインタビューを受けたとの連絡が届きました。2年前に日本でのキャリアを捨て、NYに新しい踊りを探しに出かけた友達からは、コンテンポラリーダンスのコンテストで優勝して、賞金一万ドルを会得したと嬉しい近況が届きました。大星君もNYの友達も社交に溺れずコツコツと自分の世界を積み上げて来ている人たちだけに、良かったです。

2003年と2006年に、ワークショップを試みたドイツ、アウグスブルグのギムナジウムから、今学期、学校を上げて試みたプログラムの様子が届きました。

昨年末に教師であり友達のカールから「生徒たちがジョージさんの写真集に刺激を受けて、自分らでも何かやりたい」と言っている。と知らされてはいたのですが、まさか学校全体を巻き込んでの試みになるとは。届けられた声明文にもあるように、政治的なテーマにも生徒たちは向い合っています。そして自殺をした学友のことも目をそらさず自分らの問題として学校全体で考えようとしていることが声明文から伝わってきます。たぶんカールが頑張ったのでしょうが、生徒たちも教師も父兄もアウグスブルグの街の人たちも社会全体が一緒に大人になって行くプロセスがこのプログラムから見えて来て羨ましいです。羨ましいというより社会の成熟度の違いを見せつけられた気がします。



 
 声明文左上には、人種差別のない学校、勇気ある学校と記されています。
 右上の直筆サインは展覧会のタイトルです。
 (間違ったインフォメーションをお伝えして申し訳ございませんでした)



声明文(翻訳)

二年前からヤーコブ・フッガー・ギムナジウムはこれまで、アウグスブルクで唯一のギムナジウムとしてヨーロッパ全体にわたる「人種差別のない学校、勇気と共にある学校」という学校プロジェクトに参加しています。これは、ドイツで最も大きな生徒運動です。

どの学校も学年で一度SOR-SMC-Aktionという活動を行うことが、今後もこの栄誉あるプロジェクトを続ける為に義務付けられています。私たちは過去に、ベルリンのパーカッショニストと活動家クラウス・シュタッファ氏をストリート・ビート・ワークショップに招待したり、国際的なアドウェント祭りを祝ったり、アムネスティ・インターナショナルの協力で元死刑囚に報告してもらったり、アフガニスタン講演をオーガナイズしたりという活動を行ってきました。今回は、私たちの主なプロジェクトである「Wir sind die Seelen des Systems」というテーマの写真展を、7月9日16時からヤーコブ・フッガー・ギムナジウムの全生徒たちを対象にした共通質問をインタビューしたものと、それに合わせてポートレート写真も同時に展示をします。共通質問の内容は、昨日一番イライラしたことは?君の理想の学校とは?好きな音楽は?または、君のイメージする自由とは?などです。

このアイデアは、この学校でも一度ワークショップを行ったことのある日本人写真家、橋口譲二氏に由来するものであります。橋口氏は日本中を旅して日本の若者のポートレートを撮り続けてきた写真家です。

今年初めに私たちの学校でとても人気があった一人の生徒が自殺をしました。私たちは彼の死のショックを受け止め、個人一人一人が重要なのであり、成績やカリキュラムや卒業が重要なのではないということを、この展示を通してよく考える為のきっかけにしたいと思っています。

展示のオープニングには学校報告者へルマン・ケーラー氏とプロジェクト代表オリバー・ゴットヴァルト氏の参加を求めました。オープニングプログラムはSOR-SMC-プロジェクトチームの声明と、私たちの生徒であるゼーマ・フィーダンらによるライブ音楽で飾ります。

皆さんが私たちのこのとても重要な活動について、そして青少年文化を反映したZeugnisを廻りの人たちに伝えて下さると大変嬉しいです。

宜しくお願いします。









  ポートレート写真とインタビューシートが、少しずつズレて貼ってあるのが楽しいです。






●2009.7.12





ベルリンからは戻っています。先日ベルリンから「やっとコートがいらなくなった」とメールが届いたぐらい滞在中は寒かったです。ベルリンではいつになく忙しい日々でしたが、昨年10月から準備にとりかかっていた、知人の絵描きの展示を20年来の付き合いのある、旧西べルリン地区の「HOTEL BOGOTA」で、日本でいうところの2階〜5階部分の吹き抜けを使いスタートさせることができました。

「HOTEL BOGOTA」
は日本人には馴染みの薄いホテルですが、ベルリン映画祭に協賛していたり、年間を通してベルリンで開かれる文化催事に協賛していることもあり、西洋の文化関係者には特別なホテルと認知されているホテルです。文化関係者だけではなく、ドイツ以外の国々からベルリンに遠足にくる高校生やゼミの大学生グループがよく利用をしています。滞在中、ヘルムートニュートン美術館で写真家ヘルムートニュートンとそのお弟子さんたちの作品展がスタートしましたが、アメリカ在住のお弟子さん3人もオープニングの前後はBOGOTAに滞在していました。ホテルのことは改めて触れたいと思いますが、そんなホテルで念願だった日本人アーチストの展示を実現させることができました。


絵描きの彼はベルリン在住で大星純一といい若い知人の一人です。この4、5年はアルバイト以外は人にも会わず、もくもくと部屋にこもり自分の世界に向い合っていました。「ベルリンに居て人にも会わず街もぶらつかないで、何をしているのだ」と絵描きに会うたびに僕はぶつぶつと忠告というか、小言爺さんでしたが、展示された作品と向かい合ってみて、彼の強い意志というか、彼が大切にしてきた時間や気持ちを改めて確認できて良かったです。

展示が進むにつれ、宿泊客は勿論のことですが、
ホテルで働いているハウスキーパーの女性たちも展示の進行を覗きに来たり、最後はホテルで働いている人たちから差し入れまで届きました。彼の絵が素晴らしいとかそういったことではなく、彼の生きる姿勢みたいなものが、作品には勿論、設営する姿からあふれ出ていて人々を豊かな気持ちにさせたのだろうと想像します。壁面が完成するたびに「涙がでそうだ」と呟く彼の頭には遠目にもハッキリと分かる、大きな円形状のハゲが沢山できていました。絵を描き続ける中で生まれる、不安と葛藤の日々を偲ばせるハゲです。(展示がスタートして10日もたたない内に3年以上もハゲ続けていたところに薄い毛が生え始めていました)。

大星君の頭にできたアマゾン河みたいなハゲを見た彫刻家は「アレぐらいは普通ですよ」とさらっと言ってのけました。僕はその一言を聞き、若い彫刻家の日常を思いはかるとともに、大星君も若い彫刻家も誰も代わってあげることが出来ない時間軸を持って生きていることを確認しました。節操も無くデビューを急ぐ若いアーチストが多い中で二人の存在は貴重で尊い存在だと思います。有難いことに設営が終わらない内に、絵を買いたいという人が3人も現れました。ただ情けないというか、ある意味正しいのですが、僕らは設営にめいっぱいで、買いたいという人たちに、対応できずに「売りたくない」という大星君に僕は「僕は貧乏だけど、友達がお金持ちになるのは大歓迎だけど」と変な説得をしたりでとても幸福な気分での設営でした。

ただ絵が横7メートル50、縦が3メートル50という大きさだったので、僕も脚立に上ったりしましたが、頭の中にある自分の身体能力と現実のギャップを嫌というほど、実感させられてしまいました。昔は木登りが得意だったのですが。後、設営で楽しかったのは
ホテルのオーナー自らホテルの壁にドリルで穴を開けてくださったことです。オーナーとは年に3人ぐらい日本人作家の作品を、平面、立体、写真などをこのホテルを使い展示する約束を交わしています。直ぐ直ぐ何かがこのホテルから生まれるとは思いませんが、5年後10年後に生まれる何かに期待したいと思います。当初、展示期間は8月31日まででしたが、大星君の次に予定をしていたドイツ人作家が気遅れしたのか展示を辞退したらしく11月の第一週まで展示期間が延びました。そして10月からは、同じくドイツ人作家が大星君の絵で埋まっている吹き抜けにオブジェを展示する提案もホテル側から出てきました。面白いです。

僕の仕事というか、役割は設営が終わったここからだということは理解をしています。いかに展示を広報してそして資料をアーカイブとして残すか。ただ僕はこれまでベルリンで作品を作ることだけにエネルギーを使ってきていたので、皆目見当もつかないのが今の僕の実情です。大星君のBOGOTAでの展示のことは、日本大使館のホームページ上で告知をしていただいていますが、今のところ広報はホテルのオーナーである、リスマン氏が引き受けてくださっています。

話を僕個人のことに戻すと、僕は今回初めてオリジナルプリントを持ってベルリンに行きました。今まで路上をウロウロすることしかしていなかっただけに、誰に見てもらうという当てもなくですが、「これからベルリンでやるぞ」というモチベーションだけが頼りでした。
ですが有難いことに、思いもよらないところから、思いもよらない提案をいだきました。もう少し具体的になった時点で発表できるかと思います。

話は飛びますが、僕が履いている靴はベルリンの壁が崩壊した時にベルリンで買った靴です。修理に修理を重ねて使ってきましたが、さすがに20年も履くとガタがきてしまい、新しい靴を買う意思を持ってベルリンの街角をウロウロしていましたが、なぜか気持ちに余裕が持てずに何時も買い替えられずに今日まで来ています。ある日、知人とカフェでコーヒーを飲んでいた時、知人がいきなり自分が履いている靴を脱ぎ、「履いてみてくれ」と僕の足のサイズを確認しました。日本に帰る日の午後、知人カップルとお昼を一緒にしましたが、食事が終わった後、彼らがお土産を手渡してくれました。なんとお土産は蚤の市で買ったという「中古の靴」でした。

それに滞在中のある日、ミュンヘンに住む僕の知人が、僕がベルリンで一人で苦戦していることを感じとったのか「誰か今、ジョージさんを助けている?誰もいないのなら僕の子どもをやるけど」ととても温かいメールを送ってくれました。思いもよらない提案もそうですが、展示スペースの解放や、リスマン氏がスーツ姿にドリルで壁に穴を開けてくださったり、働いている人たちの差入れ、蚤の市で買った中古の靴、ミュンヘンからのメールとすべてお金では買えない大切なものばかりです。




脚立の上から、ホテルのオーナーのリスマンさん
絵描きの大星君、白いシャツが橋口






後ろ姿は橋口

左から橋口、手伝いの西村さん、絵描きの大星君、
手伝いの関根さん




この向かい側の壁にも同じように2枚の絵が
掛かっています



設営も片付けもすべて終わりました







Junichi Oboshi
Ekaki 1.

HOTEL BOGOTA
SchluterstraBe 45, 10707 Berlin
www.bogota.de






●2009.7.7

ベルリンからは先々週末に戻ってきています。

帰国後、九州の宮崎、大分に出かけたりと、慌ただしい日々が続いていたために橋口便りも更新できずにいました。その結果、少なくない人に心配をかけてしまったようです。

僕は元気です。いろいろ有り難うございます。

PS.DVDはこの17日にプレスされたものが届くことになりました。届き次第、APOCCのサポーターの人たちには勿論のことですが、お世話になった関係各位にお届けするつもりでいます。そしてベルリンでのことも整理でき次第、報告できるかと思います。




●2009.5.24


先週「世界」のグラビアの選考を行いました。応募者の年齢は20代から30代後半が中心でしたが、カラー、モノクロ作品に関係なく、ネガフィルムで撮った作品が大半でした。フィルムしかなかった僕等と違い、20代、30代はデジタルが当たり前の時代だけに、モノクロプリントでの応募の多さと、プリントの質の高さに正直驚かされました。このことはデジタルの良し悪しではなく、デジタルには無いフィルム写真が持っている時間の選択をしている人たちの存在を意味します。セレクションに残った作品は3作でペンディングが1作です。

選ばれたのは、中南米からの帰民を撮った作品。帰民を対象にした作品の応募はこれまでも何度か有りましたが、それらは、日本で暮らす出稼ぎ労働者の慎ましい暮らしを撮ったというところで止まった作品がほとんどでした。ですが今回選ばれた作品には、帰民の彼等と日本社会の「きしみ」が表現された作品でした。共存を拒み彼らを労働力としてしか見なしていない僕ら社会の合わせ鏡のような作品です。目をそらさず見てほしい作品です。

2作目は祭りを撮った作品です。僕より年上に「須田一政」という素晴らしい写真家がいます。選ばれた作家が須田さんのことを意識しているかどうかは分かりませんが、日本の土着文化に拘った須田さんの作品世界の類型、あるいは延長上の作品でしたが、あえて選びました。

洪水の後のような今の日本で、西洋文化が日常として有る社会で育った作者が、「祭り」という日本文化が有る意味、特化しているような時間軸の中に「繕いようのない日本の感情」が映しこまれていると感じとったからです。「祭り」という装置により、ラッピングが剥がされ、隠されていた「気色悪い気配」を作者が意識していたかどうかは、次作を待ちたいと思います。彼には「岡本太郎の見た日本」というタイトルの単行本を薦めます。皆さんも是非読んでみてください。

3作目は日本各地の停留所の風景写真です。写真のレベルは申し分ない作品でしたが、ずいぶんと迷いました。その理由は作者が写真以外の職業を持っていることや、5年前に同じ作品で賞を受賞している事実。ですがそれでも選んだのは、その後も確信的に根気よく続けていたことの事実です。市場原理主義やグローバル化が人々の暮らしを分断している現状社会で、ローカルバスの存在は、小さな暮らしを繋いでいる存在だと感じとったからです。暴力的に途切れそうな時間を繋いでいる存在であり、壊れた日本をギリギリのところで繋ぎ止めている。煤まみれのバス停の存在が、忘れられ捨てられた地に、かつて人の暮らしが有ったことを気づかせてくれる。作者が単なる郷愁だけで、目の前の風景に向かっていないと判断して選びました。

個人の思いとは裏腹に窮屈さが増している僕らが暮らす日常社会で、今を生きる僕らが向かい合っている「新しい戦争」を3作とも提示してくれている気がします。とらえどころのない不安というよりも、社会全体が催眠術にかかったかのように、結果として「負」を選択してしまっている様な今の日本で、問題意識をキチンともち、社会と対峙している若い世代が存在して、同時期に応募してきているところに、希望を感じます。

選ばれた作品は、7月8日発売の号から随時紹介されます。

それから、やっとベトナムでのワークショップのDVDのマスターが完成しました。これからプレスする作業が残されていますが、届けられたDVDを見て、2000年にインドのデカン高原やガンジス河縁で初めてワークショップを試みた時に、身体の芯で感じた、ワークショップが持つ可能性。写真家としての作品発表を隣に置いてでもワークショップに駆り立てさせた感情を、9年目にしてやっと捕まえられた気がします。有難うございました。DVDのことはベルリンから改めて触れたいと思います。それからDVDにはタテタカコさんが音楽を提供してくださっています。




●2009.5.2

一人の写真家が一人の写真家を著作権侵害で訴えたという事実は、どちらに非が有る無しではなく、写真文化の劣化がもたらした現象の一つなような気がしてならない。
 
この数週間このことについていろいろ考えたりしたが、敢えて「橋口便り」で深く触れることを辞めることにした。すみません)

ただ写真は絵画や文章と異なり、対象や表現スタイルに関係なく、存在そのものが複製文化でありコピーである。この度の訴訟とは関係なくても、コンセプチュアルな表現の生命線である発想、語り口がいとも簡単にコピーされ、問われることなく、模倣や類意した作品が堂々と跋扈していることが僕は気になってしかたがない。表現の自由とも違う気がする。

ある時、僕より10歳ぐらい年上の写真家と言葉を交わす機会があった。その写真家はこれから「水平線に向かう」と。そして「すでに優れた水平線の作品を発表している作家がいるので、非常にエネルギーがいるのと神経を使う」と。その一言を聞いたその時から僕はその写真家を尊敬するようになった。 良し悪しではなく作家個人の意識の持ち方の問題だと思う。

たとえばアメリカの現代美術家のアンディ・ウォーホルのソラジレーションによる表現、シンディ・シャーマンによるセルフポートレート。やってしまえば誰でもできることだが、西洋社会で類似した作品が評価された事実を僕は知らない。おそらくこの部分が日本と西洋社会との違いだと僕は思う。

17歳の地図」このタイトルは僕の日本人シリーズの最初の写真集のタイトルであると同時に、歌手「尾崎豊」のアルバムのタイトルである。僕の作品集より尾崎君のアルバムの方が世の中に先に出ている。(たぶん制作時期は同じ頃だと思うが、僕は17歳の制作から発表まで3年近い時間を費やした)。

現在は新装本として「17歳」というタイトルでつくりなおしている。これは尾崎君のオリジナルを犯したからではなく、僕が日本人シリーズを作品化していく当初は「17歳」でタイトルをスタートさせていたからである。それが発表時に「17歳の地図」に変わったのは、不幸なことに偶然にも版元である文芸春秋で、同じ「17歳」というタイトルでアメリカのエッセイストの単行本が準備をされていたために、他のタイトルでの発表を余議なくされたからである。

その現実に直面したとき、僕は迷わず尾崎君のアルバムと同じタイトルを使うことにした。その理由は尾崎君が持っている生に対する意識と社会感と魂みたいなものが僕の作品にも重なっていると感じたことと、彼自身が僕の著作を読んでいた事実、そして彼のデビュー前から彼の存在(他のグループの荷物持ち)を知っていたからである。それに僕自身も制作中から固有の人間の存在で日本地図を作るという意識を強くもっていた。


本を出版した人であれば分かると思うが、本のカバー廻りとタイトルは最後の作業である。後書きはすでに校了した後だっただけに、後書きに尾崎君の存在を記すことは出来なかったが、僕は尾崎君と尾崎君の事務所宛てに同じタイトルを使うことを手紙で伝えた。僕から尾崎君への手紙は尾崎君のファンクラブの中で出版時に公開されている。けして僕は尾崎君を軽んじたわけではないことをここに記しておきます。

新装本のスタイルが作品集として僕が初めに考えていたことだとはいえ、新装本を作るにあたってタイトルを変えたことが、戻したことが果たして良かったのかどうか今でも迷っている。

迷うといえば、僕自身の名前の表記で迷っているというより混乱が生まれて困っている。

僕の名前の表記は「Joji」である。だが作家活動では英語表記で「George」にしている。30代の初め海外に出かけるようになり、「ジョージ」と名乗るたびに、「本名か」と聞かれ、その都度「そうだ」と答えるのに面倒を感じていたのと、当時は今ほど自分自身と作品が世に出て行くことになるとは思っていなかったこともあり、気軽に「George」にしてしまった。パスポート表記が「Joji」ということもあり、最近、海外の新聞や雑誌に「Joji」と表記されることが多々出てきて困っている。

ペンネームと言ってしまえばそれまでのことだが、オリジナルの大切さを変なところで痛感させられている



●2009.4.4

以前、書いたことと重複するかもしれませんが、写真に関する大切なことなので、重複を承知で再度触れます。

雑誌「世界」のグラビアの公募を始めてから、先月号で76回を迎えた。公募形式だからといって、時代や、社会、若い作家におもねることだけはやめようという認識のもと今日を迎えている。応募資格を45歳で線を引いたのは、45歳まで写真を手放さず生きてきた人たちは、生活環境に関係なくある意味幸福であり、たぶん一生の仕事として写真を選択出来た人たちであろうという理由からである。

公募形式にしたのは、「世界」は市販されている雑誌であるが、「公の場」だという意識のもと「公の場」は有名無名に関係なく開かれた場でなくてはならないという理由からである。権威や流行におもねない分、一時期作品の質が低い時期もあったが、有難いことにこの数年は質もあがり、セレクションの時に悩ましい判断を迫れることが続いている。

セレクションの基本は流行の写真や、既に他で高い評価を得た作品、視覚を刺激する作品でも他の作家のオリジナルを犯している、あるいは類した作品は意識的にセレクションから外してきた。その反対に作品は荒けずりでも、作品に「飢餓感」や作家の「生」「オリジナルな感性」を感じる作品はあえて未熟でも機会を用意してきた。世間受けを求めない分「世界」のグラビアの場は地味な存在だか「写真で生きよう」という気持ちの強い作家が最近少しずつ増えてきているような気がする。増えてきたというより、いつの時代も覚悟して表現の場を目指す人はそんなに多くないだけに、少数の人たちが「世界」の存在に気づいてくれたことと、気づいてくれたことで、そんな人たちの顔が見え始めて来たのかも知れない。

写真に限らず表現活動は地味な営の積み重ねだけに、社会に表現者がうようよ目立つというのは気持ち悪いし、そんな時代や環境は疑ってみた方がいい。グラビアの作品使用料で「生活」を繋いだ作家の中にはカメラ雑誌で活躍し始めたり、写真集を纏めるところまで辿り着いたり、賞を受賞する作家が毎年生まれ始めている。これらの事実はグラビアが社会参加している証だと僕らは意を強くしているし、有難いことだと思っている。ただ「世界」は編集者が少ないだけに、返却等の対応に時々支障が生じていて申し訳なく思っています。


今月8日発売の号で、ドイツ人写真家の作品を招待作品として紹介している。招待作品の存在は昨年11月ベルリン滞在中に知人にもらった展覧会のカタログで知った。作品は、廃墟をテーマにしているが日本に溢れているいわゆる「廃墟」の写真とはちがう。

帰国後、編集部の承認を得たあと、カタログに残されたアドレスを便りに連絡をとりあい掲載する運びとなった。写真に添えるテキストも4回ほど駄目だしを出したが、彼は最後まで投げだすことなく僕らの要望に答えてくれた。食らいついてきたと言った方が正しいかもしれない。

写真家とやり取りを重ねて行くなかで、偶然にもドキドキするような事実と出会うことになった。写真家は旧東ドイツ生まれで、壁が崩壊したとき、彼は16歳で機械工の見習工だった。壁崩壊から今年で20年が経つ。20年という歳月がドイツ、特に旧東ドイツの人たちにどのような影響を与え今どんな思いで生きているのか、僕自身関心を持っているだけに今度の偶然の出会いに感謝をしている。

階級社会のヨーロッパで機械工が写真家になるなんてその事実だけでも単純に興奮している。ただ作家個人の背景以上に僕が感心したのは、今回紹介する作品が生まれるにあたり、作品造りのきっかけになった人物の名前をキチンと表記していたことである。

話は飛ぶが、アメリカのバラクオバマ大統領の受任式のニュースが溢れるほど新聞を賑わしていた時、紙面の片隅に一人の日本人写真家が同じ日本人写真家を著作権侵害で訴えたという記事が出ていた。このことはとても重要なことなので、次回に触れたいと思います。





●2009.3.22

複数の大学の卒業制作展を見て廻ったことで、若い人たちが持つ「今の気分」に少し触れられた気がする。表現方法、スタイルは想像以上に多様で個々の作品造りは技術もしっかりしていて丁寧さが印象に残った。

ただなんだろう、今回クナップシュタインさんをサポートするという立場だったこともあるかもしれないが、作品を観終わった後に残る、疲労感があまりなかった。今その疲労感の少なさが気になっている。

卒業制作展では、いい意味で「わけのわからない」現代美術の作品にもたくさん触れることができた。僕の勉強不足や自分自身の許容範囲の狭さもあるかと思うが、僕は現代美術はあまり得意ではない。それでも機会が許す限り見るようにしているが、現代美術に触れるたびに「ブツブツ」言いたくなる僕が、今回はイライラや拒否感、居心地の悪さみたいな、身体反応が起こらなかったことが気になっている。

網膜が感じる刺激と作品が放つ感情の違いと言い換えることもできる。

クナップシュタインさんに「どうして18歳で専攻を決めるんだ」と何度か日本の美術教育の在り方を問われたりしたが、たぶん、クナップシュタインさんなりに、作品を見て感じたことを先の言葉に置きかえられたのかもしれない。

大学の卒業制作展に限らず、現代美術は暮しのあらゆるところに、溢れかえっている気がする。ある面、現代美術以外はアートでは無いと言われている気がしてならない。昔(昔という単語を使うようになった自分に驚く)僕が20代前半だった頃、学生運動に参加しないものは若者じゃないと言われていたことと、今の現代美術の位置づけのされかたはどこか似通っている様な気がする。

あの時代に僕は周りからはノンポリと言われ、思想的に右からも左からも批判されていたと思う。フラワーチルドレンだった僕は社会参加するためにカメラを持った。たぶん同世代よりも10年ぐらい遅れていたと思う。あの頃はノンポリでいることの方が前衛的に生きることよりも数倍も勇気が必要だったのだ。

話が少し逸れてしまったが、クナップシュタインさんを新宿のリムジンバスの乗り場で見送った後、ふと「自由のない社会よりも、自由だと錯覚してしまっている社会のほうが始末に悪い」というどこで読んだか忘れてしまったが、ある外国の社会学者の言葉が頭に浮かんだ。

ノンポリ=思想もなくどっちつかずで、軟弱な意思の持主に対する俗称

PS
今日、ベトナムのDVDの荒編集を見せてもらいました。最後の方でワークショップ参加者の顔が一人一人出てきた瞬間、不覚にも、思わず涙が溢れ出てきて止まらなくなってしまいました。




●2009.3.16


月に2度ぐらいは身辺雑記をと思いつつも、日々の雑事や仕事に追われてしまっています。

先の2月、京都、金沢、東京と8つの大学の卒業制作展と7つの美術館をハンブルガーバーンホーフ現代美術館(ベルリン)の学芸員と一緒に見て廻ってきました。現役の学芸員と出品作家の学生たちが作品を間に挟んで直接対話をするという試みの為です。

このプログラムは文化庁の招聘事業で、半年程前から文化庁や在ベルリン日本大使館の協力、助けをもらいながら進めて来ました。

不特定多数の学生と学芸員が向かい合うという初めての試みだっただけに反省点や課題がいくつも残りましたが、学生たちにとっては勿論のことですが僕自身にとっても短期間に多くの作品に触れることが出来たことに加えて、これまで日本の美術館関係者たちと言葉を交わすことが殆ど無かっただけに、刺激的でかつ学ぶことが沢山ありました。

そもそもこのプログラムの出発点は僕自身の経験に基づいています。僕は海外の美術館で何度か作品を展示するという機会を得てきています。それらの幸運は日本側から推薦されたのではなく、全て海外の美術館関係者が直接僕の作品を探してくださり声をかけてもらったという経緯が有ります。日本側から推薦されたことが無いという事実を僻んでいるのではなく、日本人の美術関係者とは異なる視座や価値観を持った人たちが日本の外にいる。ならば学生たちにとって平等の機会である卒業制作展の場に異なる視座や価値観を持った人に立ってもらおう、そして作品を見てもらいたい、さらに直接学生たちと言葉を交わしてもらおうという素朴な思いからスタートさせたプログラムでした。

正直、複数の大学、美術館、そして学芸員である、ガブリエールクナップシュタイン氏とのやりとりの多さには疲れ果ててしまいましたが、少なくとも氏と直接対話をするという機会に恵まれた学生たちにとっては何かを残せたのではないかという実感を持ちました。実感や確信という希望を持ちたいという僕の勝手な願いかもしれませんが。

朝、10時からスタートしてお昼を挟んで夕方の5時、6時まで、クナップシュタインさんは、椅子に腰かけることなく作品から作品を見てまわり縁のあった学生たちには「なぜ」という問いを繰り返し投げ続けていました。「なんとなく」とか「ただ好きだから」という学生が多い中で、そのことを嘆くことなく作品造りの動機を問いただされていました。

限られた予算をやりくりしながら移動しては学生や作品と対峙することの繰り返しでしたが、氏は最初から最後までテンションを落とすことなく、それは見事でした。美術に対する姿勢もさることながら、氏の健康管理にはただ感心させられてしまいました。昼間は、水は勿論のことコーヒーはさけて温かいお茶。夜のお酒もビール2杯だけで、夜10時にはホテルに戻りあくる日に備えられていました。

異なる視座や価値観という点については、現代美術がグローバル化しているだけに僕自身が精査する必要を感じていますが、生きる姿勢というか、仕事や美術に対する真摯な姿勢には敬服するとともに、ガブリエールクナップシュタインさんを選んで良かった、初めてのプログラムにもっとも相応しい人物を推薦、招聘出来たのではないかと確信しています。

続く

PS
時間がとれずに伸び伸びになっていた、ベトナムでのワークショップのDVDの為の、締めのコメントをやっと今月初めに収録することができました。現在TBSの福田さんが編集作業に取り掛かってくださっています。収録された言葉すべてがベトナム語の字幕つきになります。完成まで後少しです。

DVDが完成したとすると、ワークショップ、そして展覧会、リーフレットの制作、記録として残すDVDとワークショップを試み初めてから9年目にして一つ一つの試みがやっと繋がることになります。DVDが完成した暁にはベトナムでの上演会も実現するでしょう。僕らの試みに関わってくださっている多くの人にただ感謝です。後もうしばらくお待ちください。桜が咲く頃までには完成するかと思います。





●2009.2.7

アメリカのバラク・オバマ大統領の受任式の前後は、朝、新聞を読むのが物凄く楽しみでしたが、このところ新聞をめくる度に雇用や経済をめぐる問題で気が重くなることばかり。本当にふうという感じです。

僕がバラク・オバマ氏の言葉に惹かれたのは話す内容の素晴らしさもさることながら、言葉が本来の役割を果たしていると思ったからです。一つ一つの言葉に意思と意味が込められ、人間が人間に語りかけ話しかけている。アメリカから遠く離れた地で暮らす僕にも、普遍性を持って彼の気持ちや考え方や意思がすっと胸の奥まで入ってきました。と同時にバラク・オバマ氏はこうして自分自身を語ることで歳を重ねながら、自分の居場所を作ってきたのだなと、その事実がまた僕の胸を熱くしました。アフリカ系アメリカ人であるバラク・オバマ氏はたぶん自分で語らない限りだれも振り向いてはくれなかったのでしょう。

今、日本の政治家にはバラク・オバマ氏と世代が近い二世議員がやたら増えてきています。立ち振る舞いは一見派手に映りますが、どこか足もとが覚束ず影が薄く感じるのは、彼らはバラク・オバマ氏と違い、自分自身で自分を説明することなく年を重ねてきて、今の場所にいるからかも知れない。人の有りようは、それぞれで比較はできないことですが、何もしなくても世間が認識してくれて、初めから何ものかであり、自分自身の思想や意思を鍛え、語る言葉を手にいれるプロセスを経ることなく、言葉が命の政治の世界に居られる人たちの不幸をはからずも感じてしまいました。選挙を戦うことと、社会をくぐることは違うことだと早く気づいてもらいたいものです。

大統領受任式の一週間ぐらい前だったろうか、同じアメリカのワシントンで僕とほぼ同じ時代を生きた、英語も喋れない日本人のホームレスが何者かに撲殺された記事が目にとまりました。自由に生きて行きついた先が路上だとしたら、余りに辛い現実だし、胸の奥が痛んだ記憶が今でも消えない。もうずいぶん前のことですがインドのムンバイで白人のホームレスを見かけた時も衝撃的な光景だったが、ワシントン発のニュースは世代が近いだけに他人事ではなく、眠りの浅い夜が続いています。

来週の終りから、ドイツの国立美術館の学芸員と地方を含めた芸術系の大学の卒業制作展を一緒に見て廻ります。このプログラムは、昨年の夏が始まる前から準備を始めました。卒業制作展は学生たちにとって平等な発表の機会。学芸員と学生たちの間に幸福な関係がうまれることを願いながら廻りたいと思います。




●2009.1.7

気がついたら、2009年が始まっていた、という印象の新年を迎えています。今日本で起きていることに対して何か伝えておかないとと思い考えあぐねていたら、疲れがでたのか風邪をひいてしまいこの三が日は寝正月でした。相変わらず情けない限りです。

ベルリンから戻りグローバル経済の破綻をまのあたりにして、大変な状況が生まれてしまった。という思いがある片方で「やっと立ち止まれる」「いい意味でチャンス」「これで引き返せるかも」と思う自分の方が大きいです。

僕の読者の方たちはご存じだと思いますが、1998年に角川書店から再販した「17歳」以降に発表した作品集の後書きでグローバル経済が持つ「負」の側面を僕は一貫して指摘し続けてきています。グローバル経済、そして新資本主義の名のもとに生まれてきた新しい文明に対する問い、新しい文明は人々と社会を分断するだけであり、そして市場原理主義は人間の心を蝕むだけで、人間を育てないと僕は言い続けてきました。

世界規模で起きている経済危機は旧約聖書のソドムとゴムラみたいに、人間の欲望で街が完全に破壊され消滅する前でまだ良かったというのが、素朴な僕の今の思いです。その一方、経済破綻や戦争などの外的な理由で人びとや社会が気付き、立ちどまる現状は表現者の僕らにとっては敗北に近いことですが。

企業に捨てられ職場と生活の場を取り上げられた人たちの心の不安は、フリーランスの人間にとっては他人ごとではなく、ただそんな中でも思いのほか素早く行政が動いて空いている公営住宅を解放する動きが見えたことに希望の気配を感じます。面倒を嫌うのが役人の本質だと理解していただけに拍手です。ただベルリンだったら公営住宅が空いたままの状態なら、間違いなく不法占拠が始まるのは確かだけど、日本人はつくづく真面目だと思う。

そして大量リストラが横行する中で積極的に雇用を確保しようとする企業の存在。その社会意識に拍手です。

今、日本の各地で起きている工場閉鎖(倒産ではなく)と大量リストラはグローバル企業が発展途上国でこれまで散々くりかえしてきたことだということも僕らは忘れてはいけない気がします。低賃金と低コストの名の下で工場閉鎖と工場移転をくりかえした結果、その村の文化やコミュニティーがズタズタにされてきたという事実は発展途上国のいたるところに転がっている話です。中にはバングラディシュの国みたいに工場に逃げられないために、低賃金を意識的に施行している国があることもこの機会に思い出して欲しい事実です。

ただグローバル企業の人たちも新資本主義は止まったら負けという脅迫観念みたいなものにたえず背中を押され続けていたでしょうから、もしかしたら今の状況を心の隅でホッとしている人が少なくない気がします。

非正規社員、正社員と分断されたこの関係もこの機会になんとかならないものだろうか、自分らの繁栄は非正規社員の犠牲で成り立っている事実を考えると正規社員の人たちの寝覚めも悪いだろうに。

永遠の成長などあり得ないという事実が分かった今、残された仕事を分け合う意識が目覚めてもいい頃だと思いますが。

余談ですが、年末に渋谷で食べ物を交換するために星野と会いましたが、その際どちらからともなく「手元のお金をふやす」という意識、感覚が僕らにはよくわからないねという話題になりました。今起きている騒動は使い切れないお金を求めた人たちの付けをお金に縁遠い弱者が負わされているということが真実だと思います。そしてグローバル経済が破綻したこの機会に、グローバル経済とともに生まれた新しい文明を僕らはどこまで享受して拒否するのか改めて問い直すいい機会な気がします。

新年早々、重たい話で申し訳なく思いますが、初めに書いたように、不景気だと嘆かず今年は社会が変わるとてもいいチャンスだということを新年の挨拶にしたいと思います。

今年もどうぞ宜しくお願いします。




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