●発端 「謝辞」の項目でも触れましたが、ヴァラナシで絵画ワークショップを行ったスンダルバギヤ小中学校は、元BHU(バナーラス・ヒンドゥー大学)学長夫人のそのシマハドリ直子さんが長年運営に尽力されていた学校です。杉本さん自身、BHUで日本語講師をしていた頃出入りしていたこともあり、この学校が対象になったのは自然な流れでした。 今回初めての試みとなった絵画ワークショップの画材(クレヨン、えのぐ、筆など)はぺんてるさんにご協力いただきました。何の面識もない私たちの話に真摯に耳を傾けてくださり、ご協力を即断してくださいました。 初めて絵画ワークショップを試みるに至った動機について、詳しくはこちらをごらんいただきたいのですが、かいつまんでいうと、かなりつっこんだやりとりをする写真ワークショップでは対象者の年齢がどうしても10代後半、人数も限られてしまうため、幅広い年齢層の人たちが参加する機会がなくなってしまうことがずっと気にかかっていました。年齢に関係なく幅広い年齢層の子たちが参加できるワークショップの形はないだろうか、とずっと模索してきたのです。 ●スンダルバギヤについて スンダルバギヤ小中学校は、BHUのキャンパスの外側にあり、もともとBHU構内で働く清掃職員の子供たちのために建てられた学校です。創設したのもBHUの教授たちです。 BHUは、日本でイメージする大学というより、一つの巨大なインテリジェント・コミュニティーという感じです。インドの最高学府の一つであるこの大学で学ぶ学生と教える教授や講師が行き交う傍らには、その人たちの日常を支える清掃職員や園丁、運転手、警備員、調理人といった膨大な数の人たちがいます。また清掃に携わる人々は、インドでは不可触カーストと位置づけられています。そこにいる人々と、そこで働く人々の教育水準や生活水準の差は、日本の私たちの想像を絶するほど大きいのが現実です。 それは具体的にどんなイメージかというと、ヨーロッパの街並のような、洋館や整然と植えられた街路樹の建ち並ぶ放射状の舗装道路を、オートに乗って気持ちのよい風を感じながら走り抜けると、キャンパスから外に出る校門に出ます。そこから先はボコボコの未舗装道路で、気持ちよく流れていた風は止まります。質素なレンガ造りの小さな家々が肩を寄せ合うように密集しています。スンダルバギヤ学校は、そんな集落の中にあります。この学校は、そんな矛盾に心を痛めた人たちによって建てられたのではないかと思います。 私自身、今回スンダルバギヤを訪れてみて、BHUの内と外のギャップの大きさに初めて気づきました。というのも、2000年にキャンパス内で、多くがBHUやその他の有名大学に進学する高校生を対象にワークショップを行い、また関わる人も内側の人ばかりで、このコミュニティーの内側しか見ていなかったからです。 今では生徒たちの数も増え、BHUの清掃職員の子弟以外にも周辺の子供たちも通っているそうです。校舎と校庭(校庭というより、朝礼などをするための広場といったイメージ)を囲むように家々が建ち、学校を中心として集落ができています。生徒たちはみなこの集落で暮らしています。 そんなスンダルバギヤの環境をイメージしながら読み進んでいただけたらと思います。 <ワークショップ1日目 2004年7月12日 月曜日> 左はスンダルバギヤ学校の外観です。生徒たちはみなこの集落で暮らしており、授業が終わると家に帰って普段着に着替え、校庭の隅で遊んでいます。学校と生活の場が一体になったような住環境です。まず学校に行くと、全校生徒の約250人が待っていました。できるだけ多くの生徒に絵を描く機会を、という思いはありつつも、あまり数が多いと一対一のやりとりができなくなってしまうため、「できれば高学年を対象に」というリクエストを出していました。が、待ち構えていたのは幼稚園生を含めた250人の生徒たちです。この大人数を相手にどうしたらいいのだろう、という一抹の不安がよぎります。 生徒たちの年齢構成は、下は幼稚園生から上は6、7年生まで。6、7年生といっても、就学開始が遅かったり、途中で何年か抜けていたり、あるいは自分の年齢を知らないといった理由で様々な年齢の生徒がおり、5歳から15,16歳まで幅広い年齢層の生徒がいました。12歳の3年生がいたり、5歳の3年生がいたり、見ただけではその生徒がどの学年に属するのかわかりません。この学校には美術を教える先生がいないため、生徒たちは基本的に美術を教えられたことがありません。幼稚園生から3年生までをクレヨン組、4年生以上の生徒をえのぐ組に分け、クレヨン組は教室で、えのぐ組は校庭で絵を描くことにしました。 生徒たちのほとんどはえのぐを使ったことがなく、筆の使い方、えのぐの使い方、パレットや水洗いの使い方から教えるところから始めなければなりません。高学年の生徒たちには、筆を洗うのに使用する水洗用容器に代わるもの(広口ビンなど)とパレット代わりの皿を持ってきてほしいと伝えてあったのですが、えのぐを使ったことがないということは、何が必要なのか想像することができるわけもなく、結果としてほとんどの生徒が持ってきていませんでした。「水洗容器やパレットに代わる物を持ってきてください」というのは、豊富な物に囲まれた所で暮らす人間の発想なのだな、といきなり反省です。 そのようなことも考えて、ヴァラナシ滞在中に地道にペットボトルを集めていました。ペットボトルをどのように活用するかというと、ボトルを上下半分に切ります。下の部分は水洗容器として使います。上半分をさらにタテに2分割し、パレット代わりに使います。これほどペットボトルが大活躍するとは想像していませんでした。この日から私たちは、できるだけ一人の生徒に一つのビンが行き渡るよう、食堂で食事をしてもペットボトルを持ち帰り、夜な夜なボトル切り作業をすることになりました。「なんであの日本人たちは、あんなに空きボトルを欲しがるのだろう?」と不思議がられていたかもしれません。 様子を知るため、1日目は特にテーマを設けず、自分が描きたいものを描いてもらうことにしました。私はもっぱら低学年組の担当でしたが、ずっと泣いている子がいたり、自分が終わるとちょっかいを出して泣かせる子がいたり、あちこちで問題続出です。最初はいちいちショビーさんやミントゥーさんに通訳してもらっていたのですが、次第にお互い身振り手振りでコミュニケーションをとれるようになりました。(右はみんなの前で絵を発表する低学年の子たち) 印象としては、これまで画材をふんだんに使ったことがないためか、クレヨンをごく薄く塗る生徒が多かったこと、長い時間をかけて何か一つのことに集中するということに慣れていないのか、あるいは学校でこれまでそう求められてきたからなのかは定かではありませんが、とにかく早く描きあげて提出しようとする生徒が何人もいました。ただ色彩感覚はとても豊かで、美術の授業を教えられていない分、色とりどりの卵を描く子がいたり、手足が全部違う色をした人を描く子がいたり、型破りな奔放さがありました。 低学年は午前中で家に帰り、午後は高学年のえのぐ組だけになりました。午前中より少し筆の使い方にも慣れてきました。今日は様子を知る日なので、使い方がわからない場合以外は口出しせずに、彼らが絵を描くのを見守りました。高学年について一つ気づいたのは、同じような形をした家や、ヒマラヤの高い山々の間から顔をのぞかせる太陽、ハスの花といった、同じような絵のモチーフを描いている生徒が多いことでした。学校で使っている教科書に描かれたモチーフを、そのまま塗り絵のようにして絵を描く、ということが学校で一般的に行われてきたようで、どれだけ忠実に絵を再現できるかで評価を決められてきたらしいのです。またえのぐ本来の原色をそのまま使っている生徒が多く、色と色を混ぜると違う色が生まれるということをまだ知らないと推察されました。 絵のワークショップは私たちにとっても初めてのことなので、写真ワークショップ以上に手探りの状態です。生徒たちの状況を一日目である程度見知った今、これからどのように進めていったらいいのか、話し合いを重ねてゆきました。 絵のワークショップを開いた目的は、写真ワークショップと同様、技術を教えることではなく、表現する喜びや発見する喜びを一緒に探そう、ということです。写真の場合は、カメラそのものが高度になっている今、本当に誰でも本能に従って写すことができます。写真の場合、これまで享受してきた文化水準や教育程度はほとんど関係ないということは、これまで参加者たちが撮った写真が一番よく証明しています。しかし絵の場合、描くのは機械ではなく人です。画材に親しむことから画材の使い方、空間のとらえ方など、これまで享受してきた文化水準や教育程度が反映してしまいます。たとえば、色と色を混ぜると違う色が生まれるということは、知っている人にとっては簡単なことですが、知らなければ混ぜられないのです。そんな現実を前にして、ただ「表現する喜び」といっていられるのか。「表現」に行くまでの道のりを教えることも大切ではないのか。その過程でなにがしかの喜びや発見を感じてもらえれば、広い意味では技術をただ教えたということにはならないのではないか・・・議論は続きました。 自己満足に陥ることなく、目の前の生徒たちにとって何が一番いいのかを第一に考えながら、その時その時に判断していくしかありません。これは、写真ワークショップとはまた異なる緊張感でした。 <ワークショップ2日目 2004年7月13日 火曜日> 生徒たちの多くは、教科書などに載っている絵柄を忠実に真似するという絵の描き方しかしたことがない、ということが前日わかりました。そんな状況を踏まえた上で、どのようにワークショップを進めていったらいいのか? 結論からいうと、今日から二日間かけて写生をすることにしました。それぞれ10人ずつくらいのグループに分かれて校庭の様々な場所に広がり、そこから見えるものをモチーフにして写生をしました。 写生を選んだのは、写生には色々な要素が含まれているからです。まずは風景をじっくり見ること、そして目の前に広がる風景の中のどこを切り取り、どこに興味をひかれるのか、一枚の葉でも光の当たっている場所とそうでない場所で色が異なっていること、同じ風景を見ていても、それをどんな色と感じるかはその人その人によって違うこと――これらのことを生徒に話しながら、ワークショップを進めていくことにしました。まずはもう一度、スタッフが各グループに散らばって、筆の使い方や水洗いのしかたなどを教えました。 おろしたての筆は糊で固められていますが、それを溶かず、筆先だけをペンのように使っている生徒たちがいました。また違う色を使う時には一度筆を水洗いで洗い、次の色に移らないと色が混ざってしまいます。それを知らずに次の色を使ってしまい、色がごちゃまぜになってしまった生徒もいました。筆を水でひたしたあとは水をよく切る必要がありますが、それを知らずに筆を使って紙がなみなみに伸びてしまったりもしました。 ![]() 今回のスタッフは絵心のある人たちばかりで、その中で私(星野)は昔から絵を描くのが苦手で、図工の時間が苦痛なほうでした。結果として学校の必修の美術教育しか受けてこなかったのですが、それでも筆の使い方や水のきり方、またどの色とどの色を混ぜるとどんな色になるのかという基本的な色の知識などは体で自然に覚えていました。 しかしそれらのことを私が自然に習得したわけはなく、誰か(図工の先生など)から教えられたことなのだなあ、とあらためて感じました。今まで空気のように当然に思ってきたちょっとした美術の技術や知識、それらは好むと好まざるにかかわらず、義務で受けてきた教育のたまものなのです。 「図工が嫌いだ」といえるということは、少なくとも美術教育を受ける機会があったということです。これまで私は何も考えずに「美術教育を受けたことがない」などといっていたのですが、それはなんと傲慢なことかと思いました。 低学年組はお昼で家に帰っていましたが、お昼を食べ終わったあとにまた学校に来て、「もっと描きたい」という子がちらほら出てきました。また途中で飽きてどこかへ行ってしまった生徒の紙の裏に2枚目の絵を描いている子もいました。私が絵を描くのがあまり好きでなかったように、すべての生徒が絵に夢中になるわけではないということはわかっていますが、「もっと描きたい」と夢中になって描いている子を見ると嬉しいものがありました。オプショナルな活動として、ワー クショップと平行して昼休みを利用し、参加スタッフが校庭に立つ民家の壁に壁画を描くという試みをしました。これはアーティストとして活動するスタッフたちへのごほうびといったらおかしいですが、何か彼らの作品を現地に残したい、という思いから出発した試みです。このアイディアを話すと、学校の先生が「校庭の端の民家に自由に描いていいです」とおっしゃったため、ペンキを塗り始めました。しかし当の家主にはその話が伝わっていなかったらしく、人だかりができて外に出てきた家主はものすごくびっくりして、不安そうなおももちで見つめていました。 ●スタッフの作業 毎晩印刷とデータ移行作業を行わなければならない写真ワークショップと違い、絵のワークショップ期間中はもう少しゆっくり眠れるかな、とたかをくくっていたのでしたが、甘い考えでした。 ![]() 今回は二種類、三か所のワークショップに加え、滞在中に生徒たちの写真集と画集を作る目標を掲げています。一日目に生徒たちが描いた絵とニシャードラージの子供たちが描いた絵をセレクトしながら、一方では写真集のための写真を選び、PCでページレイアウトを作り、製本用の印刷をしていきます。目標は5冊ずつの全10冊。最低でも1冊ずつは完成させ、デリーでの総合展覧会に間に合わせたいという思いがありました。 日中の猛暑の中で250名の生徒を対象にしたワークショップに加え、帰りは帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれてオートに揺られること1時間弱、そしていつ終わるともわからないエンドレスな夜の作業。スタッフの疲労はすでに第一のピークを迎え、毎日誰かが倒れていました。倒れた人が翌日回復すると、それをカバーしていたほかの人が翌日倒れるという、死屍累々といった状態です。また色々な作業を同時進行したり、また倒れた人が眠ったりするため、作業部屋になったスタッフの部屋は、ベッドメーキングに入ってもらうこともできなくなりました。 しかしやらなければならないことが山積みなので、倒れて現場に行けなくなったスタッフも、ホテルでのんびり休んでいられるわけではありません。ホテルで写真ワークショップの生徒たちの展示写真のレイアウトの記録を書いたり、APOCC会員の方々へのハガキを書いたり、そこにいてできることをします。 どうしていつもこう苛酷になってしまうのだろう、と正直いって思いました。スタッフはもっとそう思っていたはずですが、恨みごとをいうわけでもなく、黙々と作業を続けます。 思い返せば2000年から始めたワークショップ。回を重ねるごとにスタッフの作業が苛酷になっているような気がします。そう意図したわけでは全然なく、しかも今回はワークショップとワークショップの間に休養日を作り、余裕のある日程を組んだつもりでした。しかし余裕を作れば作っただけ、「あれもできる」「これもしたらもっといい」ということが増えていき、「できる限りやろう」となってしまいます。これがただの与えられた仕事という意識だったら、みんなとうに音を上げていたと思います。でも参加者や子供たちの喜ぶ顔を思い浮かべたら、やはりやらないわけにはいかないのです。一つ一つの地味な作業の中で、それぞれのスタッフが自分の喜びを探して向かってくれたからこそ、気力が続いたのだと思います。 <ワークショップ3日目 2004年7月14日 水曜日> スンダルバギヤ学校の先生にうかがったところ、週に一度、美術の授業はあるそうです。しかし美術の先生はいないので、一般の先生が黒板に絵を描き、それを見て紙に描く、といった授業だそうです。3年生より上の生徒はえのぐを使ったことがあるということでした。 前日描き始めた写生の絵を今日は仕上げる日です。前日決まったモチーフの場所に同じグループでまた集まり、絵を描き始めます。この日は前日よりも少し具体的なアドバイスをしていきました。 たとえば、写生の風景の中で、ヒマラヤの山と山の間から顔をのぞかせる太陽と、そこから流れ出すガンジス河を描いている子がいました。インドでは、太陽はヒマラヤから上がり、ヒマラヤの雪解け水がガンジス河となって大地に恵みを与えている、という定説というか言い伝えというか、が頭にしっかり根付いているようでした。そういうことはおそらくどこでも起こりうる、そこの文化の影響で、それ自体はとても興味深いことでした。−君が今座っている場所から山は見えますか? 「見えません」 −じゃあここから見える太陽を描いてみよう。見えないものを想像して描くのもとても大切なことです。でも今日は見えるものを描いてみようね。 家を描いている子がいました。家はニシャードラージの子たちにも共通したモチーフでしたが、ガンジス河から急な階段を上ったところに建つヴァラナシ特有の形をした家でした。しかし目の前に建っている家にはそんな階段はついていないのです。 −目の前の家に階段はついているかな? 「ついてません」 −じゃあ目の前の家をよく見て描いてみよう。ここから他に何が見えるかな? 「自転車があります。ヤギがいます。ニワトリもいます」 −周りもよく見て描いてみようね。 私は昔の自分を思い出していました。私もまた、どんな場所で写生をしても、いつも三角屋根に四角い形をした同じ家を描いていました。私の場合、その刷り込みはマンガから来ていました。そんな家は当時東京のどこを探してもなかったのですが、「家」をイメージすると手がそれを描いてしまうほど、その刷り込みは強烈だったのです。つい最近も友人の子供と絵を描いて遊んでいた時、気がついたらまたその家を描いていました。しかも私が描いた、家の横に停まっている車は、現代の東京ではほとんど見られることのない、丸っこいボディの70年代の車なのです。その後私がどういう道を歩んだかというと、そんな絵は褒められるわけもなく、ただ図工の成績が悪くなっていくだけで、気づいたら図工嫌いの子供になっていました。そんな自分を思い返すと、生徒たちが今、写生という、ものすごく難しい段階に取り組んでいるのだということがよくわかりました。今回参加スタッフの中で、唯一といっていいほど絵が描けないことをコンプレックスに思っていましたが、絵が描けないからこそわかることもありました。そして、自分みたいになし崩し的な図工嫌いにはなってほしくないな、と思いました。うまくてもうまくなくてもかまわない、楽しんでほしい。楽しんでくれさえしたら、嫌いになることもないと思うからです。 しかし物事をどんどん吸収する柔軟性には驚くものがあります。−よく見てごらん。木は茶色一色だろうか? 葉っぱもよく見てごらん。光が当たったり陰になったりして、一枚一枚違う色をしているよね。 そんな話をしながら、スタッフが実際、色んな種類の茶色やみどり色を作ってみせます。それは私が見ていても魔法のようでした。見よう見真似で、次第に生徒たちの絵に厚みが増してゆきます。そして一日目の絵では伝わりにくかったひとりひとりの個性が、次第に絵の中に表れ始めていることを感じました。 明日、明後日は展覧会です。今日じゅうになんとか一枚の絵を完成させなくてはなりません。一日目は何を描いていいかわからず、多くの余白を残したまま飽きてしまう生徒も少なからずいましたが、もう途中でやめようとする生徒はいませんでした。そのこと自体、私たちには何よりの収穫でした。どうしても描き終わらなかった生徒には、えのぐと筆を渡し、家で仕上げてもらうよう宿題にしました。●夜の作業 展覧会を控え、スタッフの夜の作業は再び壮絶な局面を迎えていました。 現実的に展覧会に展示できるのは、21枚のボードにそれぞれ2点ずつの42点です。生徒たちが描いた絵に評価をつけるということはしませんが、責任として選ぶことはしなくてはなりません。またこれらの作品セレクションと同時に、ゆくゆく画集に載せる作品もおおかたセレクションをしておかなくてはなりません。 大変なのはそれからです。多めにセレクトした作品を、一枚ずつデジタルカメラで撮影してPCに取り込み、画像処理ソフトで色みやゆがみを修正して、できるだけ実物の絵に近い状態まで近づけます。そしてそれを印刷して実物と見比べながら、微調整をしてゆきます。この作業をワークショップと平行させて少しでも進めておかないと、これからもびっしり詰まった日程の中で、インド滞在中に画集と写真集を完成させることは不可能です。 これの何が大変かというと、一枚仕上げるのに時間がかかるということ以上に、画像処理ソフトに精通したスタッフ、今回の場合は芸大スタッフしか担当できない、という点でした。細かい注意力は必要なものの、集中力さえあればできるデータ移行や写真印刷とは異なり、プリンターの癖を読みながら色を調整してゆく作業は、画像処理の素人には困難です。必然として福原さん、岡室くん、滝尾さんの3人に作業が集中してしまいます。しかも彼らにはゆくゆく、製本のためのページごとのレイアウトという、これまた素人には手の出せない作業も待っているのです。 画集と写真集の制作というのは素晴らしいアイディアですが、それを実現させるために越えなければならない山のあまりの高さに、「こりゃあとんでもないことを考えついちゃったな」と正直思ってしまいました(それを一番いいたかったのは彼らだと思いますが)。できる限り分担しても、どうしても大変な作業が一部のスタッフに集中することも目に見えているのです。しかも現実問題として、すでに入れ替わりで誰かが倒れているという状態なのです。 これは、今まで以上に作業の分担や補佐に気を遣わなくてはいけないなと思いました。これまでのワークショップは基本的に、全員で現場へ行き、戻ってきたら全員で作業をするというものでした。しかしそろそろ、現場隊と室内で休みながらできることをする室内作業隊の二つで進行させていかないと立ち行かなくなりそうでした。生まれて初めて、中間管理職の大変さを少し実感したような気がしました。 <展覧会@スンダルバギヤ 2004年7月15日 木曜日> この日は朝から重たい雲が空にたちこめていました。ちょうど私たちがインド入りする直前にヴァラナシは雨季になり、これまで思いがけず天気に恵まれてきたのですが、いよいよ本格的な雨季の空もようになってきました。展覧会が心配です。 車が学校に到着する頃、豪雨が降り始めました。校庭に入ると、水はけの悪い校庭はあっという間に池になってしまい、どこからともなくあひるたちがやってきて嬉しそうに水浴びを始めました。以前、シマハドリ直子さんから、 「雨が降ると学校が池になってしまって、あひるが泳いだり、ヤギが子供のノートを食べて子供がぎゃあぎゃあ泣いたり、いろんな面白いことがありました」 という話を聞いていましたが、これのことだったのか、と妙に嬉しくなります。しかし学校の裏には、この集落の生活廃水がたまるため池があるため、水位はあっという間に子供の膝くらいまで上がってしまいました。ここで暮らす人々にとっては、それほど嬉しい光景とはいえないでしょう。 今日はワークショップ最終日ということもあり、学校側が閉会の儀式とお楽しみ会を用意してくれていました。学校を創設した二人のBHU教授の遺影に花を捧げ、踊りの得意な上級生と卒業生の女子が感謝の舞いを捧げました。今回を含めて3度インドに来ていますが、インド舞踊を見学する暇など一度もなかったため、これが初めてのインド舞踊見学でした。また低学年の子供たちはロックの音楽に合わせて踊ってくれ、これのまたかわいらしいこと。 うまく言語化できないのですが、何かぐっとくるものがありました。それは彼らの体の動きや表情から、本当にもてなしの気持ちが伝わってきたからだと思います。そして、からだの動きを通して感情を表現するということを、自分たちはとうの昔に失ってしまったのだということが寂しく思えました。 (この日はたくさん記録用写真を撮ったのですが、作業の混乱から誤ってデータを消去してしまいました。このことだけでも、いかに作業場が壮絶だったか、想像していただけるかと思います) お楽しみ会が終わり、いよいよ展覧会です。絵はすでにレイアウトを決め、あらかじめホテルでボードに貼り付けてきていました。20名前後の写真ワークショップでは生徒たちの顔と名前がすぐに一致していましたが、総勢250名ではそうはなかなかいきません。生徒たちの前でボードを掲げ、その絵を描いた本人に前に出てきてもらいました。展覧会に選ばれた生徒には、「がんばったで賞」として、低学年にはクレヨン、高学年にはえのぐをプレゼントしました。賞品をもらった生徒は壁の前に並び、順番に顔写真の撮影をしました。 実はこれもそうすんなりはいきませんでした。この日はワークショップがないこともあり、生徒が全員集まっていたわけではありません。「これは誰が描いた絵ですか?」と聞き、本人がその場にいた場合はすんなりいくのですが、特に低学年の場合、本人が欠席していると、賞品が出るとわかったら数人の生徒が手を挙げる場合がありました。最初から最後までずっと手を挙げっぱなしの子もいました。低学年担当だった私は記憶をフル回転させて、偽者を見分けていかなくてはなりませんが、全員の顔と絵が一致しているわけではありません。結局あとでホテルに帰ってPC内の画像を見てからわかったことですが、展覧会に選ばれた左の絵を描いた子は、偽者の子がごほうびを持って帰ってしまいました。 一方、2点の絵が選ばれた右の写真のサッチン(オレンジ色)は、同じくその日学校に来てはおらず、他の子にあやうくごほうびを持って行かれるところでした。が、悪ガキぶりが強烈に印象に残っていたため、「一番最後まで絵を描いていた聞かん坊の子を誰か呼んできてください」と頼んで生徒に家まで呼びに行ってもらいました。すると弾丸のようなスピードで家から走ってきました。彼はただの聞かん坊ではなく、絵が描きたくて描きたくてたまらず、隣の子を泣かせてまでもう一枚絵が描きたかったのです。低学年組から自分だけが2枚の絵を選ばれたことを知り、本当に嬉しそうでした。
参加生徒の数が250名と多く、一人一人にワークショップに参加した感想を訊ねることはできませんでしたが、全校生徒の前で作品を発表された生徒たちの誇らしげな表情は忘れられません。 すべての人が絵が好きとは限らないのと同じように、全員が同じようなモチベーションで絵と向き合うということはありえません。しかし、絵を描くという機会がほとんど奪われた環境の中でも、ほんの少しのきっかけとヒントを与えられただけで、集中力と潜在的な才能を見せた生徒が何人もいました。この学校では美術や図工を教える授業はないため、私たちが帰ったあと、また画材に親しむ時間や風景とじっくり向き合う機会はなくなってしまうであろうことは想像できました。このワークショップが、ただの数日間のお祭りではなく、これから送る日常の中で、何かを見る時のヒントや、自分には好きなことがあるという自信につながってくれたら、と願ってやみません。 ただ一つ残念だったのは、学校側が長期的展望に立つ芸術教育という点に関し、あまり関心がないように思えたことでした。生徒たちの絵の展示をろくに見ることもなく、先生がたは帰ってしまいました。ワークショップを通して生徒たちが絵に興味を持ったとしても、それが将来的に学校の中で何らかの形で継続されないと、難しいものがあります。そう考えて、ワークショップの間、先生がたと今回の経験を今後の教育にどう生かしていけるかを話し合いましたが、残念ながらあまり熱意は感じられませんでした。学校側の言い分としては、「芸術系の授業を教える教師がいないから仕方がない」ということでしたが、専門の教師がいなくとも、ほんのちょっとしたことを普段の授業に取り入れることで、熱意ある生徒のモチベーションは持続させることができるだけに、とても残念に思いました。この経験を日常の中でも生かせていくためには、周囲の大人の熱意と共感が必須なのだということをあらためて痛感させられました。 展覧会のかたわら、スタッフは壁画の完成に取り組んでいました。一日目にペンキを塗り始めた時には心底不安そうな顔をしていた家主さんも、日を追うごとにきちんとした絵が描かれていることを知り、喜んでいました。おかしいのは、完成に近づいた壁画を見た村の人から、「俺の家も塗ってくれないか?」というあらたな依頼があったことです。その申し出は丁重に断りましたが、楽しい話でした。記念なので、通訳のショビーさんやミントゥーさん、橋口、星野もみんなで参加して色を塗りました。最後には大きな木の幹に一人一人がサインをしました。 とてもいい壁画が出来上がりましたが、反省材料もありました。もともとは「何か記念になるものを残せないか」という思いから始めた壁画描きでした。が、ただペンキを塗っているわけではなく絵心のある人たちが絵を描くわけですから、これはこれで本気の作品です。しかも、もちろんうまいです。集落の人たちも子供たちもみんなこちらの壁画現場に集まってしまい、生徒たちの展覧会のほうを見なくなってしまいました。これは生徒たちに悪いことをしてしまったとあとで気づきました。これは非常にデリケートな問題で、もしかしたら生徒たちはそういう風に感じていなかったかもしれません。私も現場では問題を言語化してとらえることができませんでしたが、あとで自分に置き換えてみてようやく少し想像することができました。たとえば生徒たちの写真展会場で、写真家が本気の撮影をしている、そんな様子を想像して、初めて「あ」と思ったのです。こちら側が相手をどれだけ尊重しているか、こちらの意識が問われるのです。 素敵な壁画が出来上がっただけに、あとからどんどん気分が重くなりました。非常に大きな反省点でした。
<展覧会@アッシーガート 2004年7月16日 金曜日> 午前中は、写真ワークショップを行ったニシャードラージ寺院へ最後の挨拶をしに行きました(ヴァラナシ写真WS参照)。会社を休んで1週間参加してくれた浜野さんは、そのあと飛行場に向かい、デリーへ発ちました。それからアッシーガート付近のカフェに行き、座敷スペースを借りて生徒たちの絵の展示の最終チェックをしました。前の日に撮影した生徒たちの写真をもとに作った顔写真入りキャプションを、絵の下に貼りつけてゆきました。 (左写真:奥は展示の修正をする伊藤さん) 晴天に恵まれた2日間の写真展に対し、あいにく絵画展の日は前日に続き、今にも雨が降り出しそうな空模様でした。クレヨンと水彩の絵ですから、雨に降られたらひとたまりもありません。雨が降った場合のことを考え、展示方法には工夫をしていました。 ボードは糸で吊るして、カフェの壁の上にある生垣に固定してあります。雨雲が近づいてきたら、その糸を外してボードを避難させます。糸は、ボードの両端に糸ノコギリで切れ目を入れ、そこにはさんで固定しているだけなので、とっさの場合にもすぐ外れるようになっているというわけです。このような臨機応変の展示方法をすぐに思いつき、糸ノコギリまで自主的に日本から持って来ているあたり、今回のスタッフはさすがです。 ガンガの向こうから雨雲が近づいてくるのが見え、涼しい風が吹きつけてくると、ガートを歩く人々の動きがあわただしくなります。スコールが近づいているのです。結局この日は二度のスコールに見舞われ、一度はかなり長く大きなスコールでした。すぐに撤収できる展示方法を考案したことが、皮肉にも功を奏してしまいました。ずっと展示の前に座って人の行き交う様子を眺めていました。1週間前の写真展時の盛況と比べると、この日の出足は鈍いといえました。最初は悪天候が原因で人出が少ないからかと思っていましたが、どうもそうではないらしく、ガート自体には人が出ているのですが、写真展の時と比べると、ずっと立ち止まってじっくり絵を見る人の数が少ないように感じました。この違いは一体何なのでしょうか? 生徒たちの作品を眺めながらずっと考えていました。(上の写真の人たちは画学生と先生でした) 杉本さんと話しているうちに、おぼろげながらに見えてきたことがありました。自分が普段見ている風景や日常がそのまま写し出されている写真は、ストレートに見る人に伝わってくる。しかし絵はそれに比べると、見る側にもある程度芸術的素養が必要となる。インドでは多くの大人たちも芸術などを通した情操教育を受けたことがないため、有名な画家の作品ならまだしも、子供が描いた作品をニュートラルに受け止め、そこから何かを感じとるということは、なかなか難しいことなのではないだろうか? 子供たちとじかに接する学校の先生たちでさえ、あまり興味を示さなかったのだから、少々難易度が高い展示だったかもしれない。もう一つ杉本さんが指摘した可能性がありました。私たちは作品につけるキャプションに、わかる範囲内で生徒たちのフルネーム(苗字と名前)と顔写真を載せていました。生徒たちの多くがBHUの清掃職員の子供だということは前にも述べましたが、掃除カーストはヒンドゥー社会では不可触カーストと位置づけられ、今でも様々な面で差別や不利な待遇を受けたりしています。杉本さんいわく、生徒たちの苗字を見るとそのカーストがたちどころにわかってしまい、「不可触カーストの子供たちが描いた絵だ」と軽んじて見られている可能性がある、とのことでした。 この可能性の指摘には大きな衝撃を受けました。これまで5年間のワークショップを通して、アートは国境や言語や文化の違いを越えられる、という自負を持ちつつあったのですが、同じ社会の中の根強い身分制度を越えることはできないのでしょうか? なにくそ、そんなことに負けてたまるか、と自分たちのやり方を押し通したい気持ちがある一方、しかし実際そのことで痛手や不利益をこうむるのは、外国から来た自分たちではなく、そこに暮らす彼らなのです。そう思うと、自分たちのやり方を押し通すわけにもいきません。今後、おそらくインドに限ったことではないと思いますが、展覧会を行う場合には、デリケートに対処しなければならない問題があるという大きな教訓を学びました。 写真展の時と同様、ニシャードラージのおえかきワークショップに参加した子供のお父さんが、今日もライトアップの照明設備をしてくれました。ところがこの日はスコールに加え、停電が頻繁に起きました。ガート全体の通電が停まっているわけではなく、目と鼻の先のところまでは電気が来ているのですが、この一体の電気がどうしても回復しないのです。お父さんは、電気が来ている地域の電柱から電気を引こうと、死ぬほど電気コードを延ばして、なんとか電気を確保しようとがんばってくださいましたが、木がひっかかってコードを延ばすことができません。結局、私たちが一列に並び、人が絵の前を通りがかると懐中電灯で照らすという人力ライトアップをするしかありませんでした。あまりに停電が長引いたため、結局予定よりも1時間早め、8時に展覧会を撤収することにしました。撤収した作品は車に載せ、私たちはヴァラナシ恒例の、杉本さんの友人であるチョーテ・ラルさんの舟に乗り、ガンガを下りながらささやかな打ち上げを行いました。チョーテさんは私たちを気遣い、舟を沖合いに出すとエンジンを止め、私たちを静寂の中に置いてくださいました。 2週間に渡るヴァラナシでのワークショップが終わろうとしていました。明日はヴァラナシを離れ、次の目的地、レーに向かうためデリーへ発ちます。スタッフの疲労もピークに達し、相当な開放感が味わえるはずでしたが、そんな気分にはなれませんでした。原因は、生徒たちの作品を見る人が少なかったという現実です。だからこそ余計にきちんとした展覧会にしたかったのですが、最後には停電にも見舞われ、きちんと終わることができなかったということがどうにも心残りでした。これまで5回(年数にして)のワークショップを行ってきましたが、終わったあとに、これほどの喪失感というか寂寥感というか、心を埋められない感じを味わったのは、私自身初めてのことでした。 しかしそうして落ち込んでいる暇はありません。気づいた問題点については、次のワークショップで修正することで生かしていくしかないのです。この経験は、きっと次に生きるはずだ。そうやって自分たちを鼓舞するしかありませんでした。 (ヴァラナシ絵画WS了) |
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